今旬のトピック直撃 足利事件 冤罪を作った「警察官・検事・裁判官」の実名
「真人間に帰りなさい」そう言って菅家利和さんを“自供”に導いた警部、逮捕後に表彰を受け、「ジャンボ宝くじに当たった気分」と喜んだ巡査部長らは、いま何を思うのか?
途方もなく長い拘留・服役中に、父親と母親は亡くなった。逮捕時45歳だった菅家さんは、すでに60歳を越えている。17年半という空白が、これからの人生に重くのしかかるかもしれない。「冤罪」の責任は、誰がとるのか?
「当時の刑事、検察官に謝ってほしい。『間違った』では済みません……。絶対に許せません」
6月4日、4歳女児が殺された「足利事件」で無期懲役刑に服していた菅家利和さん(62歳)を、東京高検が再審判決前に釈放した。
逮捕から17年半――あまりにも遅い決定だったが、この事件は「冤罪」だったということを、国家権力が事実上認めたのだ。
「初めて宇都宮拘置所で面会したとき、利和は私の顔を見たとたん『俺はやっていない。無罪なんだ。俺の目を見てくれよ』と、はっきり、強く言ったんです。利和は真面目な人間です。あの言葉を聞いて、世間がどう思おうと、自分は信じることができたんです。でも、ここに至るまでの時間は、利和も私たち肉親も決して取り戻すことはできません。私たちの生活も、心も、体もガタガタになったのですよ。辛いことです……」(菅家さんの実兄)
テレビ・新聞で繰り返し報じられてきたとおり、釈放の決め手はDNA鑑定だった。弁護人の佐藤博史氏が語る。
「菅家さんのDNA鑑定が間違っているらしいと分かったのは12年前です。その時点で、われわれ弁護人は最高裁にDNAの再鑑定を求めました。事件は’90年に発生し、当時の時効は15年。われわれがDNAの再鑑定を求めたのは’97年だから、時効までまだ8年残っていました。その時点で再鑑定を行っていたら、真犯人を突き止めることができたかもしれません。ところが検察や裁判所は、犯人は菅家さんだと延々と言い続け、再鑑定は実施されなかった。その結果、真犯人を捕らえる機会が失われてしまったのです」
長い時間を耐え続けた菅家さん、彼を支え続けた近しい人たちはいま、喜びよりもむしろ、心の奥底から染みだす、悔しさ、無念さに襲われているのだ。
――ここに、一通の手紙がある。’08年12月、菅家さんが獄中から支援団体の「菅家さんを支える会・栃木」に宛てて書いたものだ。
菅家さんは無実を勝ち取りたいという断固たる意志とともに、ある感情を剥きだしのまま言葉にしている。それは、17年もの間、自分を苦しませ続けた者たちへの「怒り」だ。
<私は無実の罪で橋本文夫刑事と芳村武夫刑事に警察に連行されて十七年がすぎました。(略)私は当時の橋本刑事と芳村刑事と森川検事達の、この三匹達をぜったいゆるす気持ちにはなれません。この三匹達は今もまったく反省していません。(略)私は橋本刑事と芳村刑事と森川検事達のこの三匹達を鬼だと思う。人間ではない。だから冤罪を作るのだ。つかまえたら、だれかれかまわず犯人にしてしまうのだ>(句読点などを若干補ったほかは原文のまま/以下同)
手紙の後半には、’02年に菅家さんが行った再審請求を5年以上放置した挙げ句、請求を棄却した裁判官の名前もあった。
<宇都宮地裁池本寿美子裁判長は今年(’08年)二月十三日にDNA鑑定を退けたりして、池本寿美子裁判長は血も涙もない鬼のような人間だ。正義の心がまったくない人間だ>
手紙は、まだある。’99年10月には、菅家さんを取り調べた橋本刑事ら8人が、栃木県警本部長から“表彰”されたことに対する憤りがこう綴られていた。
<私は警察にいた頃に私を取り調べた刑事達が表彰されたと聞きました。とんでもない事です。刑事達が表彰されるなんて事はぜったいゆるせません。私は刑事達が表彰されるような事はいっさい何もわるい事はしていないので、本当に私は今も刑事達にものすごく怒っています>