コロナショックと社会不安混沌とした時代の始まり
新型コロナウイルスによる感染症の拡大は、世界の歴史を変化させることになると思います。この問題について、私の考えを率直に記した『一冊の本』(朝日新聞出版)2020年4月号の拙稿を転載します。
コロナショックと社会不安
生物兵器としてのインフルエンザ
世界的に拡大する新型コロナウイルスは、社会や個人の心理状態から世界経済に至るまで大きな脅威となっています。まずは感染の経過を簡単に振り返っておきましょう。
2019年末、中国・武漢市で原因不明の肺炎が広がり、感染拡大が、WHO(世界保健機関)に報告されました。年明けの1月7日、それが新型コロナウイルスによるものだと判明し、わずか2カ月足らずで、南極を除く五大陸すべてで感染者が確認されるまでに広がりました。
ちなみに、コロナウイルスは、その突起の形状が太陽コロナを思わせるところから名付けられたといい、人や動物に風邪を含む呼吸器感染症を引き起こすウイルスの総称です。2002年末から拡大したSARSもコロナウイルスの一種です。
日本では武漢市から帰国した中国人男性が新型コロナウイルスに感染していたと1月16日に公表されました。1月28日には武漢に渡航歴のない日本人男性の感染が判明し、2月3日には、横浜港に入港したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」の乗客に感染者が出たことから、日本政府は乗客乗員の下船を認めず、事実上の船内隔離としました。
2月13日にはコロナウイルスに感染した80代女性が死亡し、以降、感染者は増え続けています。日本人の感染が確認されてから1カ月半の間に、国内の感染者は1000人を超えました。
2月24日、政府の専門家会議が「新型コロナウイルス感染症に関する見解」をまとめました。
〈「これからの1~2週間が、急速な拡大に進むか、収束できるかの瀬戸際」だとして、感染拡大を防ぐ取り組みへの協力を呼びかけた。/見解は、新型コロナについて「感染の完全な防御が極めて難しいウイルス」と認めつつ、「感染の拡大のスピードを抑制することは可能」とした。その上で「感染の拡大のスピードを抑制し、可能な限り重症者の発生と死亡数を減らすこと」が重要だとした〉(朝日新聞デジタル、2月24日)
2月26日、専門家会議の見解を踏まえ、安倍晋三首相は、人が長時間密集するコンサートやスポーツイベントなどを2週間自粛することを要請。テレビ、新聞、ネットなどのメディアで連日、新型コロナウイルスについての情報が流し続けられ、なかにはネットによるデマが拡散され、それが新たな騒動を引き起こしました。
新型コロナウイルスについて、海外メディアではどのように報道されているのでしょうか。
ロシア政府が事実上運営するウェブサイト「スプートニク」に掲載された記事を読んでいるうちに、私は政治担当の外交官としてモスクワの日本大使館に勤務していた時代を思い出しました。
当時、私はモスクワ健康センターという施設に通っていました。ロシアの大統領府・政府高官や国会議員などの健康を管理する医療施設でしたから、ここを訪れることでロシア要人との人脈を築いていたのです。センター所長と副所長はいずれも陸軍軍医大佐でした。ある年、モスクワでインフルエンザが流行しました。センターを訪ねた私は、所長に「今年の新型インフルエンザで、大使館員が何人も休んでいる」と話すと、「佐藤、インフルエンザは毎年新型だ。我々はインフルエンザが流行すると、まずそれが自然界の突然変異によるものか、人為的なものかを判断する習慣がついている」と話してくれました。
私が「人為的にインフルエンザウイルスを作ることができるのか」と尋ねると、副所長が「生物兵器としてのインフルエンザは有望だ。味方の将兵にワクチンを注射してから、インフルエンザウイルスを散布すれば、兵器になる」と笑いながら話してくれました。話を聞きながら、この軍医たちはおそらくGRU(ロシア軍参謀本部諜報総局)に勤務し、生物・化学兵器に関する知識を持っているとの印象を受けました。
コウモリを捕食したヘビのウイルスの突然変異
新型コロナウイルスの感染が確認され始めたころから、ネットではこのウイルスの正体は生物兵器だという言説が流れています。武漢市にウイルス研究施設「中国科学院武漢病毒研究所」があることがその理由です。この研究所には毒性の高いウイルスを研究できる設備があり、そこから流出したのではないかというものです。
1月31日には、産経新聞がアメリカのメディアを引用して次のように報じました。
〈米政府は新型肺炎が発生した湖北省武漢市にある中国科学院・武漢病毒研究所のウイルス管理体制がずさんであるとして懸念を強めていた。同研究所からウイルスが流出し新型肺炎の原因になったとの明確な証拠はないものの、中国の情報公開への後ろ向き姿勢に起因する不安の広がりを映し出しているのは事実だ〉(産経ニュース)
スプートニクにも、新型コロナウイルスの原因についての記事がありました。公衆衛生専門の医師でロシア国家院(下院)議員でもあるゲンナジー・オニシェンコ氏の見解です。
〈オニシェンコ氏の話では新型コロナウイルスは2種類のコロナウイルスの組み合わさったものであることはすでに科学的に証明された。感染源は1つがコウモリで、2つめがヘビ(広東料理で食材に用いられるマルオアマガサ〔コブラ〕)だった。オニシェンコ氏は、「ヘビはコウモリを捕食するため、これによって生じた突然変異が人間の間で流行しはじめた」と説明している。
ウイルスは異種間のバリアをくぐって突然変異を起こし、ヒトからヒトへの感染が可能となった。潜伏期間は1日から14日。初期症状は風邪やインフルエンザに似ているが、これが表面に現れるのは病気の最終段階で、罹患の初期段階では下痢、吐き気など消化器官系の疾患に似た症状が現れる〉(スプートニク日本語版、1月28日、〔 〕は引用者)
オニシェンコ氏は、コウモリを捕食したヘビのウイルスに起きた突然変異だと言い切っています。なぜ人為的に作られたウイルスではないと言えるのか。その理由についても記事は伝えています。
〈科学者らは今日、ウイルスの遺伝パスポートを集めたライブラリーを作成しており、これに照会すればいかなる専門家もウイルスが人為的に作成されたものか、それとも突然変異で発生したものなのかを見極めることができる。オニシェンコ氏は、中国で蔓延の新型ウイルスが人為的に作られたり、操作された人工物であることを裏付けする証拠は一切ないとの考えを示している〉(同前)
この記事を読んだときに、モスクワ健康センターで聞いた医師たちの話がよみがえりました。ロシアでは新型インフルエンザが発生すると、それが自然のものか人為的なものかを調べるという話に、オニシェンコ氏の見解をつなげて考えれば、ネットを中心に流布している「新型コロナウイルス=生物兵器説」にはまったく根拠がないことがわかります。
社会不安とパニック
人は得体の知れないもの、とりわけ生命に関わる脅威にさらされると不安に陥ります。すると、トイレットペーパーがなくなるといった不安を煽るデマや、根拠のない楽観的なデマが生まれ、そのデマに振り回される人が出てきてそれを拡散させる。過剰な不安から異物排除や差別も生まれます。東日本大震災後、福島ナンバーの車が嫌がらせを受けたり、避難先で子どもたちがいじめに遭ったりするようなヘイトにも似た構造の排斥が起きました。今回も、電車内でマスクをせずに咳き込んだ人がいただけで、非常通報ボタンを押されて最寄り駅に停止するトラブルが起きたという報道があります。
日本や香港などで中国人の入店を断る飲食店が出てきたり、海外在住の日本人が「コロナ!」と指差されたり暴力を受けたり、あたかも黄禍の恐れが現実のものになりつつあるかのようです。
ロシアのスプートニクはこうした不安についても記事にしています。
〈新型コロナウイルスの爆発的な蔓延でアジア系の顔つきをした人は世界のいたるところでウイルス保持者であるかのように扱われ、疑いの眼を向けられている。バスなどの交通機関でみんなが離れた席に座り、通りでも迂回されるようになった。ところがアジアの中でも病気とともに別の怖い伝染病、「外国人恐怖症」が流行ってしまった。日本の商店の中には中国人お断りの張り紙を出したところもある〉(スプートニク日本語版、2月15日)
こうしたウイルスの感染者拡散が引き起こす心理状態の背後には何があるのか。ロシア科学アカデミー心理学研究所の上級研究者アナスタシア・ヴォロビオヴァ氏の談話です。
〈恐怖を生む要因は複数あります。公式的、非公式的マスコミが様々な情報発信をしている。これによって公式的なマスコミへの不信感が生まれ、情報の一部を作為的に隠蔽しているのではと勘繰られてしまう。医療、生物学に明るくない人はいつもいるわけで、非公式的なマスコミからの情報の正誤を吟味できない〉(同前)
情報リテラシーの低い人は、先に述べたように、根拠があやふやでも自分が信じたい情報、安心したい情報を玉石混淆の大量の情報の中から選んでしまいがちです。それらの多くは、感情に訴えるような内容です。すると大手メディアが発信する論理的で理性に訴える記事が嘘や隠蔽に思えてくるのです。
〈カタストロフィーをテーマにした映画も恐怖症をあおってしまう。映画は謎の危険なウイルスに大規模感染してしまう様子をまことしやかに描いているからだ〉(同前)
ウイルスやエイリアン、天変地異などの脅威によって人類が滅亡の危機に陥るというテーマは、繰り返し映像作品として作られてきました。カタストロフィー映像は人間の生存本能に結びつきますから、恐怖の記憶として刷り込まれやすいものです。それが現実世界でウイルス拡散の危機に直面したときに呼び起こされ、実際の行動に影響するという見解です。
〈心理学博士でロシア科学アカデミー心理学研究所で教鞭をもつアレクサンドル・ヴォロビヨフ教授も感染症の蔓延時の人間の心理はマスコミに左右されるという見解に同意しており、マスコミはショッキングな内容を避け、パンデミックの事態でパニックを引き起こさないために、どういった行動をとるべきかを説明する立場にあると指摘している。(中略)ヴォロビヨフ教授はショッキングな情報の作用で一度、外国人嫌悪が発生してしまうと、感染症が広まる中でこれを取り除くのは極めて難しいと認めている。/「外国人嫌悪は恐怖感をあおる知識に対する一種の防衛反応です。恥ずべき現象ですが、状況が安定し、危険が去るとともに割合と早く消えていきます」〉(同前)
ヴォロビヨフ教授は、危機感に煽られた人の中に動物的な防衛本能から排外的な言動をとる人が現れる。これは防ぎようがないというのです。突き放した物言いのように思えますが、こうした専門家の冷静な見解、それを伝えるロシアのメディアの姿勢には学ぶべきものがあります。危機の中にあっても一旦そこから距離をおいて、外国人排斥から日用品の買い占め、無根拠な感染予防法まで、さまざまな場面・レベルにおいて、パニック現象は起きるものだと認識しておくべきだ。その上で自分はどうするべきかを考える――正しく恐れ、適切な行動をとるためのヒントがあると思います。
専門家がユーチューブ動画を投稿する前に
その意味で、クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号に一時乗船した岩田健太郎・神戸大学教授によるユーチューブへの動画投稿(2月18日)は大変な混乱要因だったと思います。岩田教授は感染症を専門とする医師です。岩田教授が乗船したときには、ダイヤモンド・プリンセス号内の感染者は500人を超えていました。船内の感染症対策が不十分だと感じた岩田教授は、その様子を「ものすごい悲惨な状態で、心の底からこわいと思った」「(船内は)カオス」と表現しました。投稿した動画の再生回数は半日で50万回を超えたといいます。
このような表現を不特定多数の人が視聴することがわかっているネット動画で使うことは、いたずらに不安を煽るだけです。岩田教授が先にすべきだったのは、ユーチューブに動画を投稿することではなく、船内の防疫体制に不備を感じたのなら、専門医としての職業倫理に基づき、船内の専門家と徹底的に議論することだったのではないでしょうか。
岩田教授は公開した動画を2月20日に削除しています。同日、外国特派員協会で行われた記者会見で、動画を削除はしたが、船内に「感染のリスクが存在しているという私の主張は変わらない」と述べました。そこまで自信があるのならば、動画はアップし続けておき、後々まで他の専門家によって検証されるべきものだったのではないかと思います。そうだったならば、この動画にも意味がありますが、〝動画は削除しました、主張は変えません〟と言うだけでは、日本に限らず国際社会に対してもウイルス感染の不安を煽ったに過ぎないということになると思います。
語られていないことを聞くべき
こうした不安の増幅との関連で、品薄、高額転売が問題になっているマスクについても触れたいと思います。そもそもマスクで新型コロナウイルスは防げるのでしょうか。
2月20日の加藤勝信厚生労働大臣の会見の一部を紹介します。
〈国民の皆様においては、風邪のような症状がある場合は、学校や仕事を休み、外出を控えるとともに、手洗いや咳エチケットの徹底など、感染拡大防止につながる行動にご協力をお願いいたします。特に高齢の方や基礎疾患をお持ちの方については、人込みの多いところはできれば避けていただくなど、感染予防に御注意いただくよう、お願いいたします〉(厚生労働省ホームページ)
加藤大臣は、マスクについて一言も言及していません。厚労省の説明では、個人が咳やくしゃみをするときにマスクやハンカチ・ティッシュや袖を使って口や鼻を押さえることとされています。
2月25日の会見で加藤大臣は「手洗い、咳エチケットなどを徹底し、風邪の症状があれば、外出を控えていただきたいと思います。やむを得ず外出をされる場合には、必ずマスクを着用していただくようお願いいたします」(同前)と、マスクについて述べていますが、これは「風邪の症状がある人がやむを得ず外出する」場合についてであって、健康な人のマスク着用を呼びかけてはいません。
本来ならば、会見に出席した記者は「マスクについての言及がありませんが、予防には役立たないということでしょうか?」と聞くべきだったのです。メディアには、語られていないことと、なぜ語られないのか、その理由を明らかにするという役割も当然期待されます。
厚生労働省が啓発資料として作成した「新型コロナウイルスを防ぐには」の中にもマスクは登場しません。つまり、マスク着用は主たる予防策ではないのです。マスク着用は、あくまでも咳やくしゃみによる飛沫を周囲に撒き散らさないためなのです。
ところが電車内ではマスクをしている人のほうが圧倒的に多い。全員が花粉症や風邪にかかっているとは考えられません。マスクが店頭から消え、マスク着用率が高くなったのは、風説が定説になり、さらに同調圧力に転じた典型例だと思います。
余談になりますが、欧米人の目に、多くの日本人がマスクをしている光景はどう映っているのでしょうか。欧米人は口の動きを重視します。口元を隠すということは他人に自分の感情を知られたくないことを意味します。一方で、満員電車の乗客の多くが黒いサングラスをかけていたらどうでしょう。何を考えているのかわからない不気味な人だらけ――多くの日本人にはそう映るのではないか。日本人は「目は口ほどにものを言い」の慣用句通り、目の動きで相手の感情を読み取ろうとします。相手の目が見えないと落ち着かないのです。こんなところにも文化の相違が表れていると思います。
突発的事態に弱い日本
そもそもの話に戻りますが、新型コロナウイルスの存在が判明した当初、日本もロシアも置かれた状況は似たようなものでした。ロシアで初めて新型コロナウイルスの感染が確認されたのは2人の中国人からでした。日本では1人の中国人からです。その後1カ月半で、ロシアの感染者は中国人2人から6人になりました。ところが日本の感染者は1000人を超えました。
ロシアは感染した2人の中国人を完全隔離しました。また、ロシア外務省は2月10日、ロシア中部の都市エカテリンブルクにある中国総領事館に着任した総領事に、新型コロナウイルス感染防止のため2週間公邸に留まるよう求めました。ロシアは徹底した水際作戦を展開したのです。
さきのモスクワ健康院でのエピソードの通り、ロシアは生物兵器の研究・開発を行っています。当然、防疫についての蓄積もあり、その強みが感染症対策で発揮されていると私は見ています。さらに言えば、このような徹底した封じ込めができるのは、ロシアが強権的な国家だからです。
中国では新型コロナウイルスの感染拡大のペースが鈍ってきたと伝えられています。武漢という人口1千万人の大都市封鎖ができるのも中国が一党独裁の国家だからです。
もし、ロシアや中国が新型コロナウイルス封じ込めに成功したら、全体主義体制のほうがリスクの封じ込めという点ではいいじゃないか、という話になるかもしれません。
一方、日本はすでに水際での感染拡大防止に失敗しています。今回のことで、突発的事態には弱いという日本型組織の特徴が露呈しました。その弱点を抱えつつ、ここまで日本政府は打てる手は打っているように思えます。
安倍首相はスポーツ、文化イベントの自粛要請に続いて、2月28日、全国の公立小学校、中学校、高校の一斉休校を要請しました。3月11日には、首相による「緊急事態宣言」を可能にする法案が衆議院内閣委員会で可決されました。社会に及ぼす影響は大きいと思います。それが国民の怨嗟の声となるのか、国民が被ったマイナスに見合うだけの決断だったと評価されるのか、さらなる感染拡大となるのか、収束に向かう兆しがあるのかによって変わってくるでしょう。
ロシアや中国のような権威主義的国家でなくても危機対応はできる。それを成果として示せるかどうかの正念場に来ていると思います。
*『一冊の本』(朝日新聞出版)連載「混沌とした時代のはじまり」39より。