今週のポピュリズム「絶対権力者」と「市民目線」
検察審議会が小沢一郎氏に対して行った議決が、根底的な誤謬を含むものであることは前回指摘した。
今回は、検察審査会のこの見え透いた根本的な誤謬を何故、誰もが批判できないのかという問題を考えたい。
それは、この国の成り立ちと深く関わるところがあると私は考える。
2006年1月22日付の朝日新聞紙上で、柄谷行人は、私の著書の評者として次のようなことを書いている。
『通常、社会は、個別社会の掟で運営されており、掟ではカバーできないときに法が出てくる。ところが日本社会では、そういう関係が成り立たない。掟をもった自治的な個別社会が希薄であるからだ。著者によれば、その原因は、日本が明治以後、封建時代にあった自治的な個別社会を全面的に解体し、人々をすべて「全体社会」に吸収することによって、急速な近代化をとげたことにある。
ヨーロッパでは、近代化は自治都市、協同組合、その他のアソシエーションが強化されるかたちで徐々に起こった。社会とはそうした個別社会のネットワークであり、それが国家と区別されるのは当然である。しかるに、日本では個別社会が弱いため、社会がそのまま国家となっている。そして、日本人を支配しているのは、法でも掟でもなく、正体不明の「世間」という規範である。』
この「世間」という、あいまいなものがこの国を支配している、だからこそ、「市民目線」という言葉に適格な批判的反応ができないのである。
そして問題なのは、この検察審査会の議決が反小沢、反民主党のメディア・スクラムの主柱の一つとなっていることである。
次週では、「沖縄問題」をめぐるポピュリズムについて考えることとする。