象の鼻毛第一回目「物語が欲しい(上)」

▼バックナンバー 一覧 2011 年 1 月 25 日 中沢 けい

 二〇一〇年の年末から二〇一一年の新年にかけて、山陰地方から大雪の便りが届いた。それは、さながら悲鳴のようだった。テレビや新聞ではなくツイッターで流れるコメントによって、その様子を知ったので、悲鳴はより鮮明に耳に届いた。鳥取には旧知の今井書店もある。情報交換用のハッシュ・タグが設定されていることは、今井書店のツイートで解った。渋滞のために雪に閉じ込められたドラバーに、おにぎりやお弁当を差し入れた運送会社のドライバーがいた。コンビニに配達されるはずだった品物だが、賞味期限切れになってしまうので「食べて下さい」と配ったという話はツイッターで次々とリレーされ、私のパソコンの画面に表示された。
 
 漫画「タイガーマスク」の主人公、伊達直人を名乗る人物が群馬県の児童養護施設へランドセルを届けたというニュースが流れたのは二〇一〇年の一二月のこと。年が明けてみると、次々と「伊達直人」を名乗る人物が現れ、指導養護施設へ匿名の贈り物を届けられる。一月一二日には全国で二九〇件もの匿名の贈物や寄附があり、タイガーマスク運動、タイガーマスク現象、タイガーマスク騒動と呼び方もしだいに変わっていった。
 
 そこに善意の物語を欲している人の姿を見たのは、私だけだろうか?飢えていると言ってもいいほどの、物語への渇望がなければ、これほどの人が善意を行為にするだろうか?
 
 社会科学の言葉で物事を語る人は、こうした善意の現れに、「新しい公共性」のあり方を構築しなければいけないと、そこに使命を見出す。それは社会全体の仕組みを作る努力は実に正統なものだ。善意の寄附を、受けとる側にとって気持ちの良いものとし、差し出す側にとっても愉快なものとする仕組みを作ることは、重要だ。社会的な仕組みを作ろうとするよりも、嘆きを歌の糧とする文学へ逃げ込む人の多かったその昔を思えば、頼もしいような話に聞こえる。
 
 頼もしいと思えばこそ、人を行為に駆り立てたものは、社会科学の言葉では決して語ることができない何か、耳に優しい、胸に染みる、そしてお腹のあたりが擽ったような「物語」だったのではないかと、問いたくなる。あえて文学とは言わない。小説の祖(おや)としての物語を人は欲しているのだという熱意を、新年早々の出来事から感じとっのは長年、小説を書いて来た人間の欲目だったのだろうか?そういう疑いを抱えながらも、やはり人は物語を欲していると、確信めいたものがある。
 
 欲しているのは善意の物語ばかりではない。二〇〇八年の秋葉原無差別殺傷事件でも、私は事件に物語を見出したという人の熱意を見ていた。しばしばその熱意は類型的な報道に走りがちであるメディア批判と混同されがちだったが、それとはまったく異質な熱意が忍び込んでいたのは確かだ。事件から物語を「創造」したいという人の熱意が、息づいていた。誰も彼もが検察官、弁護士、裁判官のように真実を追求する必要はないと、フィクションの作家である私は考える。ジャーナリストは真実を追求しなければならないだろう。
 
 しかし、フィクションの作家が追い求めるのは単純な真実ではない。虚構の中に込められる一片の真実であればそれで良いとするのがフィクションの作家だ。そして、その一片が人の心の中に深く染み込め真実であることを願いっているのだ。一片の真実が、まったくの嘘であってもそれはそれで良いのだ。ただ、それが信じられるものでありさえすれば。