象の鼻毛第一回目「物語が欲しい(下)」

▼バックナンバー 一覧 2011 年 2 月 8 日 中沢 けい

 世の人がこれほど物語に飢えた様子を見せるのか。文学というものに係わってきた私などには、幾らか思い当たるところがある。正直に言えば、幾らかどころではない。おおいにある。物語をいかに解体し、物語をどう無意味にするかが、この四半世紀ばかりの文学の潮流だった。なぜそういうことが起きたのか。それも理由はある。無暗やたらと面白半分でやったわけではない。過去にそんな時代はなかったかと言うと、これはうまく答える材料を持っていないけれども、あったのではないかという気がする。と言うのも、日本文学で好まれたジャンルに随筆というものがあるからだ。
 物語には納まりきれないもの、物語にはまだならないもの、物語が結末を迎えても言い出さずにはいられないもの。そう言ったものを表現する随筆がたくさん書かれてきた国であり、随筆が大勢の読者を得たのが日本語だと言える。随筆が書かれた背後には、ひっそりと物語が、傷を癒していたのではないか?
 夏目漱石が朝日新聞に随筆「硝子戸の中」を執筆したのは一九一五(大正四)年一月のことだ。前年、欧州では第一次世界大戦が始まり、年が明けたパリは飛行船による最初の空襲に教われた頃のことだ。
 漱石は「切り詰められた時間しか自由に出来ない人たちの軽蔑を冒して書くのである。」と述べたあとで、欧州のいつ終わるともしれない戦争にふれ、国内はきたるべき総選挙にふれ、不景気だとしおれる農民にふれ「わたしが書けば政治家や軍人や実業家を押し退けて書くことになる。私だけではとてもそれほどの胆力は出て来ない」と口上を述べている。そのうえで「自分以外にはあまり関係のない詰まらぬ」事を書くと宣言して書斎の中から眺める静謐な世界を描いて行く。その時、日本は多きな価値の転換期のさなかにいたことは今になってみると、かなりはっきりとした事実になって見える。が、どう変わって行くのかは、その時代その場所にいた人には一向解らなかったはずだ。
 パリを襲った飛行船による空襲という手段が、飛行機による空襲に変わり日本中のめぼしい都市を焼き払う日が来るとは、漱石も予想しなかっただろう。しかし、漱石がスケッチした東京の空気は、「硝子戸の中」に残っている。私は時折、夢想する。もし私の親たちが、空襲を知らず、漱石が「硝子戸の中」に書き留めたような空気の中で育ったら、私をどのように育てたのだろう?もし、私を教えた教師たちが戦争を知らなかったら、私に何を教えたのだろう?随筆は過去へ飛び去った時間のスケッチだ。
 随筆のよるスケッチが物語以前か、物語の後の残香かはさて置くとして、随筆を書いてみようと思う。題して「象の鼻毛」。物語への渇望を抱える人々には、生ぬるい手段かもしれない。が、物語の優しい姉妹である随筆は、世の中にいつもなにがしかの物語の種を播いたのである。種さえ播けばあとは芽が出る。そのくらい気長でなければ、嘘の中に一片の真実を含んだ物語は生まれでないに違いない。幸い今は、漱石の時代と違いネット時代で、政治家や実業家を押し退けなくともすむ。それどころか、誰でもその思うところを書いて公にすることができる時代になっている。おかげで遠慮なしに「象の鼻毛」などというタイトルを選ばせてもらうことができる。