エチオピアジャーナル(5)オサマと私
オサマと私
「私の人生に一番影響を与えた人物は誰?」と自分に問いかけてみる。
まず始めに頭に浮かんでくるのは両親、妻、兄弟、そして親友。だが試行錯誤のあげく、この競争で勝利を得たのは、意外にもオサマ・ビンラディンだった。ポジティブな人物を選ぶのが妥当だと思うのだが、幾度、考え直してみても、同じ結論にたどり着く。
オサマ・ビンラデンの死を初めて聞いたときに感じたのは、自らが目撃した大殺人を犯した罪人に正義がなされたという歓喜ではなく、つかみどころのない哀愁だった。昔、縁の深かった知人の音沙汰を聞いたような気がし、9.11テロ事件から10年近くの年月が流れ、ここ数年間ビンラデンのことを考えたことはほぼなく、多分パキスタンの僻地で病死したのだろうとも思っていた。
2001年9月11日の朝、ニューヨークのブルックリン区のアパートの屋上から、煙がもくもくと上がるツインタワーを眺めながら、今、歴史、そして自分の人生を大きく変える出来事が目の前で起こったのだと悟った(9.11テロ事件の経験は、ベイルート・ダイアリー(4)「ツインタワー」に記述)。私にとって、9.11テロ事件の首謀者のオサマ・ビンラディンは、それまで無名の存在だった。「Wanted, Dead or Alive!」と、彼の顔写真は、マカロニウェスタンの映画のように、行方不明の犠牲者のポスターに混ざってニューヨーク中に貼り出され、街中何処に行っても、彼に睨みつけられているような気がした。ニューヨークの新聞で専属カメラマンとして働いていた当時、9.11テロ事件のハードな取材が、肉体的・精神的な限度のぎりぎりでしばらく続いた。やがて、6ヶ月、1年、2年と、9.11テロ事件の記念日の追悼式の取材はマンネリ化する。グラウンド・ゼロから空高く昇り続けた煙と共に、ニューヨークの「生気」のようなものが抜けてしまい、代わりに陰鬱で重苦しい空気が街の隅々にまで広がり、澱んでいるように思えてならなかった。
アフガニスタン攻撃を皮切りに、アメリカはタカ派の政治家に牛耳られ、ベトナム戦争を思わせる泥沼に入り込んでいき、自分が今まで好きだったアメリカがどこかに姿を隠してしまった。国民の不安を利用して、でたらめなWMD(大量破壊兵器)の証拠やアルカイダとのコネクションをでっちあげ、ブッシュ大統領が開始したイラク戦争に、当時所属していた新聞社から派遣される。ハイパワーライフルによって頭が半分吹き飛ばされた少年の遺体を目の前に、まだ少しは残っていたかもしれない自分のイノセンスを失い、テロ、イスラムの過激派、欧米の中東へのポリシーなど、今まで考えたことがほとんど無かったことが、日常生活の一部のようになったように思われた。ブッシュ大統領が再選出され、自分の第2のマイホームだと思い始めていたニューヨーク・アメリカを出る決心がついたのも、9.11テロ事件以降に連鎖反応で起こった出来事だった。その大いなる責任者は、オサマ・ビンラデンだった。