エチオピアジャーナル(10)身近に感じるテロリズム
10月13日(日)にワールドカップの予選試合が(エチオピア対ナイジェリア)がアジスアベバで行われた。エチオピアは長距離ランナーの国として知られているが、サッカーチームがワールドカップの予選までたどり着いたのは初めて。エチオピアがアフリカ杯を勝ち取ったサッカーの強豪ナイジェリアに対し最初のゴールを獲得し、奮闘したものの、逆転され1−2で惜敗した。
エチオピアのファンの歓声に包まれながら写真を撮っていたその日、我が家の近くの民家で爆発事件が勃発。爆弾を製造中に爆発し、ソマリア人が2人死亡。隣のアメリカ大使館職員の自宅の壁が損傷し、現場では、起爆装置などの爆弾を製造する部品、拳銃、そしてエチオピアのサッカーのチームのジャージーが見つかり、サッカーのゲームで爆撃テロを計画していた可能性が高いと、政府が発表する。「やっぱりなー」と内心思いつつ、その日撮った写真を編集・電送しながら、ニュースのアップデートを待つ。
「我々は、襲撃者を打倒し恥をかかせた(We have ashamed and defeated our attackers))とケニヤのケニヤッタ大統領が24日の夜、テレビ演説を行う。21日に隣国ソマリアのアルカイダ系イスラム武装勢力「アル・シャバブ」による、ケニヤの首都ナイロビのショッピングモールを襲撃が発生後、テレビやネットにかじりついた。
私が暮らすエチオピアは、ケニヤと同様にソマリアと国境を接し、暫定政府を機能させるために軍隊を進駐させており、アル・シャバブによる武力攻撃・テロの確率は十分にある。国際機関で働く妻は、ナイロビで殺害された女性にも一度会合で会ったことがあり、ナイロビには取材を行っている知り合いのカメラマンも数人いるので、重く複雑な心境でニュースを追っていた。
「アル・シャバブはエチオピアならばどこを襲撃するのだろうか?」よく訪れるスーパー、レストランや建物の名前が頭に浮かぶ。エチオピアの経済発展はケニヤに比べれば遅れており、ナイロビにあるような大規模なショッピングモールなどはまだない。可能性が高いのは、首都アジスアベバにある平和維持軍を送っているアフリカ連合や、国際連合アフリカ経済委員会の本部だろうと妄想した。アジスアベバに来てすでに3年、来年には他の都市に転居する予定で、国際機関のアフリカ本部や国際メディアのアフリカ支部が集中しているナイロビに移る可能性も高い。もしナイロビにすでに移住していたとしたら、「子供の日」と称されて子供向けのイベントが行われていたあのモールに、わが子たちをつれて行っていたかもしれない。そう想像するだけで背筋が冷たくなる。マシンガンを 連射するテロリストを前に、はたして家族の命を守ることができるのだろうか? そう考えながらテレビのスイッチを切り、夜ベッドに横たわり眼をつぶると、子供たち、妻と一緒にテーブルを囲み、ハンバーガーを食べている様子が頭の中に浮かぶ。突然、銃声が響き渡り、振り返るとモールの入り口に子供や女性の別なく機関銃を連射するテロリストの姿が見える。 瞬時に子供たちを抱きかかえて床に腹ばいになる。銃弾がどの方向から飛んできているのかを確認した後、逃れるためのバリケードになるような壁を探して 移動。その後、脱出できる非常口、それが見つけられなければしばらく隠れることができる家具店に逃げ込む。同じシナリオが、24時間のニュース番組のように繰り返され、過敏になった神経を徐々に疲労が包み込み眠りが訪れる。
絶望と教育の光
偶然にも、テロ事件の前の週に、ソマリア難民のキャンプを訪れた。難民キャンプにある学校に通う女生徒への援助のレポートに伴った写真を撮る仕事。教材、制服、靴、そして 家事を終えた後の夜に宿題ができるよう、太陽電池のLEDランプなどが、アメリカの学生による募金によって寄付されていた。教室に集まった女生徒に質問をすると、ほとんどが内戦で肉親を失い、着の身着のままこのキャンプに流れてきていた 。生徒たちのインタビューが終わった後、学校に通うことができなかった女性たちをインタビューする。二十歳のネムハさんは、家族を全員失い、一人でこの難民キャンプに避難してきた。今は同じような境遇にある独り身の若い女性たちと身を寄せ合って 同じテントで暮らしている。「ソマリアでは、内戦、貧困のために学校に通えませんでした。このキャンプでは学校がありますが、私は二十歳になのでここでも通えません。私は子供たちのように、教育を受けたかった」と、涙が瞳からこぼれないように天井を見つめながら語った。
ソマリアの情勢が安定し、難民たちが帰国できる目処はまったくたっていない。アル・シャバブの勢力は、ケニア、エチオピアが参加しているアフリカ連合軍によって、首都のモゴディシュ、本拠地の港町のキセマヨやソマリアの第三都市バイドアから排除されたが、内陸地方 に広がり活動を続けている 。内戦勃発から22年。暫定政府は未だに国全体の支持を得られていない。もしアル・シャバブが打倒解体されたとしても、ソマリアの情勢が安定しないかぎり、新たなグループがアル・シャバブの後を継ぐことになる。アル・シャバブは2007年に主にエチオピア軍の介入によって打倒解体されたイスラム法廷会議から分散したグループだ。アル・シャバブの影響が弱化したことにより、部族間の争いが増加し、国のほとんどはいまだに無法状態だ。
キャンプの学校を離れ家庭を訪れる。数年前に配給されたテントは過酷な環境の下に崩壊し(寿命は一年ほど)、難民のほとんどが古着をパッチワークのように縫い合わされたキャンバスのテントで暮らしている。故郷ソマリアで一番恋しく思うものはなんですかと聞くと、「魚」、「野菜」、そして「果物」という返答が多い。キャンプでの毎日の食事のほとんどは支給される乾燥した穀物でしめられているからだ。もちろん、電気や下水も入っていない。1日、1日を生き延び、将来が見えないほぼ絶望状態に難民は置かれている。
ではこの絶望状態になぜ「学校」なのだろうか?
先日16歳のパキスタン人のマララ・ユサフザイさんの国連での演説をテレビで見る。「 アフガニスタンやテロによって病んでいる国々に、武器や戦車を送る代わりに、本を送ってくださいInstead of sending weapons, instead of sending tanks to Afghanistan and all these countries which are suffering from terrorism, send books」とマララさんは訴えた。昨年の10月、登校中にタリバンによって銃撃され頭に重傷を負った彼女は、 子供たち、特に少女たちの教育の必要性を訴える、若年ながら国際的な人権運動家・唱道者となった。「兵士の代わりに教師を送ってくださいInstead of sending soldiers, send teachers」。彼女の熱弁を聴いていると、熱い何かが胸を満たし、難民キャンプの少女たちのイメージが浮かぶ。
長期滞在を強いられているソマリア難民たちは、小、中、高等学校の他に、地元の専門学校に通うことが許され、援助団体が費用を出しているが、エチオピアでの就労は許されておらず、教養や技術を得ても生活の糧にはならない。学校で女生徒たちに将来何になりたいのかと聞くと、「私は医師になりたい」、「私は弁護士になりたい」、「人道団体で仕事をもらって活躍したい」という返答がほとんどだ。彼女たちにとって、教育は闇夜にテントで輝く太陽電池ランプと同じく、こころの中に灯る、将来を照らす唯一の希望の光なのだと、戦争や暴力に打倒されず、情熱に満ちた瞳が輝く彼女たちの写真を撮りながら確信することができた。将来、平和が訪れたソマリアで活躍する少女たちを訪れてみたいと、ソマリアの将来に否定的になっていた自分の心にも、希望の火が「ぽっ」と灯されたような気がした。