戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第三回:文明が到達したところ
それは、人生のうちで、一回くらいこんな生活をしてみたい、というような、日々であった。
とりたてて、何があったというわけではない。
陸軍教育学校のカリキュラムにあわせて、朝家をでれば、正面の牧場の朝もやの中から、羊たちの姿が見えてくる。
クッカムの町を越えて、テームズ河の大きな橋を渡れば、川面から朝霧が湧いてくる。
授業が午前中だけの時は、一階の書斎で復習と予習をし、勉強に疲れたときは、庭にでる。
裏庭の見事な樫の木にしつらえたパークス氏手製の家は、僕が登るには小さすぎたが、ときおり、長い尻尾をたてたリスが、三角屋根のうえからのぞいている。
木々の下のブッシュからは、野うさぎが顔をだし、ちょっとこちらを眺めたかと思うと、大きなお尻をふって、庭をかけぬけていく。
正面の牧場に方に歩いていけば、羊たちがこわがりもせずに、そこここで、草を食んでいる。
そうやって、いつしか、夕暮れが訪れる。
午後の授業が長引いて、夕暮れ時にクッカムの町に帰ってくると、パブの入り口にはガス燈を思わせる電灯にオレンジ色の温かい光が入り、人々をいざなっている。
週末には、生まれて間もない長男を手のついたかごにのせて、テームズ河畔の町、マーロゥまで、ドライブに行く。
町の入り口には、白くて大きなつり橋がかかっていた。
その橋のたもとに、石造りの古い館風のレストランがあった。舟で来た人たちは河から直接上がれるようにはしけが出ている。河に面したバルコニーにはお天気の良い日にはパラソル付きのテーブルが用意されていた。
橋を渡ると、マーロウの小さな町並みがはじまる。その町のとっつきに小物屋があり、いつも目を楽しませてくれた。そこで、初めて、ピーター・ラビットの絵の入った、お皿や、カップと出会った。まだ、日本にまったくピーター・ラビットの本もグッズも入ってはいなかった頃のことである。
大きなおしりのうさぎが、草むらの柵の下からまん丸の目をしてこちらを見ている様が、我が家の裏庭の風景そっくりで、乏しい財布から子供用にワンセット買ってしまった。
ロシア語の勉強は、きつかった。
独身寮タワー・ブロックで過ごした最初の一年は、ほとんど、ゼロからの学習だったから、とにかく「右肩上がり」で語学の力が伸びた。今度は、上級クラスになっていたから、「限界効用逓減の法則」にしたがって、いくら机の前で、辞書とにらめっこをしていても、新しく力がついたという感じがしてこない。毎週のテストの成績も、あがってこない。
当時の研修生の給料にしては家賃の高いところに入ってしまったので、給料日の前になると、文字通り、銀行口座が底をつき、ビール一本買えなくなることもあった。
けれど、そういうことは、何も気にならないほど、クッカム・ディーンの生活は、私にとって、一枚の絵であった。
牧場におりる朝霧と、裏庭に現れるお尻の大きな野うさぎとの間で、時間だけが静かに流れていたのである。
*
1972年の二月、イギリスでの田園生活は終わりを告げ、私は、モスクワ勤務へと旅立った。
外務省でロシア語研修を命ぜられ、三年以上の歳月がたってから、初めて訪れるモスクワだった。
シェレメチェボ空港を出て見る、モスクワの夜は暗かった。
ほのかな雪明りに霞む森の中をしばらく走り、左に大きく道が折れた所から、市の中心部に向かって、幅広い街道が一直線に走っていた。
少し行くと、巨大な赤い十字形を三つ組み合わせた彫刻のようなものが道の右側に現れた。
「第二次世界大戦の時、ヒットラーがここまで攻め込んだ地点ですよ」
空港まで出迎えてくれた、先輩の書記官が言った。
やがて、真四角なアパート群が道の両側に見え始めた。ほとんどの窓の明かりは消え、建物は真っ暗だった。街の中心部に近づくにつれ、聳え立つ両側の建物の、重々しい量感が迫ってきた。建物の上の方で、『労働者万歳』『レーニンに栄光を』『五カ年計画の達成を』といった赤旗のスローガンだけが、浮かんでは消えた。
この夜私は、社会主義文明の、言葉に言い尽くせない重さを、初めて感じたのである。
二十年後、ソ連社会主義は、自らの重さに耐えかねて、自壊する。
しかし、その晩、私には、この例えようも無い重さが、世界を二分する社会主義帝国ソ連の、文明と権威を物語っているように見えた。
そして、私は、このソ連社会の重さの中にさしこむ光と影を探しながら、二年間の大使館勤務をすることとなった。
1974年二月、モスクワ勤務を終え外務省に帰り、最初は、調査部の分析課でロシア情勢や中ソ関係など国際情勢の分析の仕事を担当。そのあとは、三年半、条約局条約課で仕事をした。
小和田恒、斉藤邦彦、柳井俊二と、後にいずれも外務次官にのぼりつめた三人の条約課長につかえ、仕事の面でも、省内の人間関係の面でも、まったく思い残すことのない、三年を過ごし、そろそろ、在外勤務の番がまわってきた。
外務省では、年末に、「身上書」という一枚紙を人事課に提出する。
その中に、次回のポストについての、希望欄というのがあった。
この年私は、そこに、「経済分野で、マルチ(多数国間交渉)をやる国際機関」と書いた。
今までやったことのない、全く新しいことをやってみたかったのである。
希望は、「駄目もと」でも、言ってみるものである。
1979年の春もおそくなったある日、柳井課長に、ちょっと話があると言われて、呼ばれた。
「夏にOECD代表部のポストが一つあくんだ。エネルギーを担当する國際エネルギー機関(IEA)というのが最近できたのだけれど、そこの担当官として行ってもらいたい」
願ってもない仕事であった。
時あたかも、第二次の石油危機が始まろうとしていた。
1973年十月、私がモスクワに勤務していた時に、田中角栄総理のモスクワ訪問とブレジネフ書記長との領土交渉という大仕事があった。
しかし、日本にとってのこの大交渉は、訪問と同時期におきた第四次中東戦争の影響をうけてしまった。ソ連首脳部が、会談で一時「心ここにあらず」的な状況になっただけではなく、この戦争の結果アラブ諸国が発動した石油戦略によって、第一次石油ショックがおき、日本も世界も、戦後有数の社会・経済的な大混乱を起こした。
その後、消費国連合としてのIEAの設立、七カ国サミットによる政策協調などにより、世界のエネルギー・経済情勢は回復基調に入った。
しかし、中東産油国の雄、イランで、積年の王政への国民の不満が爆発、イスラム・ファンダメンタリズムの指導者ホメイニ老師にひきいられた革命が起き、石油価格が暴騰していた。
この激動の世界情勢にどう対応するか、これは、とびきり面白そうな仕事であった。
「ありがとうございます。私でよろしければ、一生懸命やらせていただきます」
「OK」
にこりと笑った柳井課長は、一言付け加えた。
「OECD代表部は、パリにあるしね」
*
誰から聞いたのか、忘れてしまった。
しかし、人類は、二つに分かれるのだそうである。
「パリを訪れたことのある人と、パリを訪れたことの無い人と」
パリを訪れたことのある日本人が、いまや、非常な多数にのぼり、パリに焦がれる人達が、いろいろな形でパリに住み、ブログやネットで溢れるようなパリ情報が送りこまれる世の中である。
この、人類二分論は、格別珍しくないのかもしれない。
しかし、1979年七月から1981年九月までのパリの在勤を経て、私も、心からそう思うようになった。
カルチエ・ラタンにさざめく、芸術家と若者たちのかもし出す活気の中で、ふと見上げる窓と、壁と、その上の屋根が、なぜにかくも心にしみるのか。
モンパルナスの坂をパリ音楽院に向かって登って行ったとき、どこからともなく流れてきたピアノの調べが、なぜにかくも忘れ得ないのか。
なによりも、パリの屋根のかなたに天高くひろがる空が、なぜにかくも心に悲しく響くのか。
世界は、イラン革命とアメリカ外交官の幽閉事件とソ連のアフガニスタン侵攻でゆれ続けていた。私は、その中で忙しく仕事をしながら、パリの風景と、その中で今、文明がつくりつつある無数の魅力の虜になっていた。
1981年7月29日。
英国と世界は、沸いていた。
チャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式が、ロンドンで行われる日である。
OECD代表部での勤務も二年になったこの夏、私は、この日にあわせて、家族をつれてイギリス旅行をすることにした。
ダイアナ妃の婚礼の前夜は、ハイドパークの前夜祭を見に行き、あまりの人ごみに圧倒され、婚礼の当日は、沿道に行くのは止めにして、ロンドン郊外の大学時代の友人でロンドン駐在の特派員をしていた旧友のお宅にお邪魔し、旧交をあたためた。
その翌日、この旅行のハイライト、クッカム・ディーンへの「センチメンタル・ジャーニー」に旅立ったのである。
*
クッカム・ディーンを旅立ってから、ちょうど九年の歳月が流れていた。
ロンドンから西方にオックスフォードへの道をとり、ベーコンスフィールドで高速道路を降りてからしばらくテームズ河に向かって走り、クッカムの町が河の向こうに現れてきた。
九年の歳月を経て、テームズ河を渡る風景は、何一つ変わっていなかった。
橋を渡りきり、クッカムの「通り」を過ぎ、林の中に白い壁の家屋が点在し始め、羊が草を食む牧場の前に、懐かしのパークス家が、咲き群れる草花の中にあった。
秋から冬の風景が、夏の日に変わっていただけであった。
なんの予告もなしに訪れて、果たして在宅であろうかと思いながら小さな木のドアの、銅のノックをコツコツと叩くと、開いたドアの向こうには、九年前と同じ背の高いパークス氏の細長い顔に笑みが広がった。
夏休みであったため、子供達は留守であったがパークス夫妻は暖かく迎えてくれ、是非泊まっていくように勧められた。
間取りを知っている私たちが、どうして4人の家族を泊まらせられるのかと戸惑っていると、「とにかく用意するまでそこらを散策してきなさい」と言われた。
9歳と5歳の息子たちをクッカムの河岸や野原を駆け回らせ、2時間ほどして戻ってみると、前庭には大きなテントが出来ていた。子供達は裏庭の木上の家に大喜びし、早速そこで遊び始めた。
かつてウサギが顔を出したブッシュからは亀がのそのそ現れた。
夜はパークス夫人の手料理で旧交を温めた。
「九年前と何も変わらない!ほんとうに、素晴らしいですね」
「ええ、でも、私たち、もう少ししたら、ここを引っ越すんです」
ショックであった。
「え~~。どうしてですか?」
「今度、両親をひきとることになったんです。そうすると、この家では、どうしても手狭になるんで、引っ越すことにしました」
「でも、こんな素敵なところ……お庭にちょっと建て増ししたら、十分皆さんで生活できるんではありませんか?」
「いや、クッカム・ディーンでは、緑の地域に対する建物の基準が決まっています。それを超えることはしたくありません。そんなことをするんだったら、喜んで、この家を次の人に使ってほしと思うんです」
なにかが、私の中で、弾けていた。
実際問題、他の人の目にはまったくふれない裏庭に寝室を一つ建てましたからと言って、この風景になにほどの変化がおきるとも思えなかった。
しかし、そうではなかったのである。
クッカム・ディーンの風景に、これ以上人間の手を、何も加えてはならなかったのである。
文明は、これ以上何も変えてはならない、人間と自然の間の調和点を見出していた。
そして、それを可能にしているのは、この文明が到達したところを、一人一人の心の節度によって守っていこうという、人間の意志であった。
(第三回:終了)