戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第二回:自分の中の「原風景」

▼バックナンバー 一覧 2009 年 5 月 14 日 東郷 和彦

 原風景というものがある。
 子供時代、いつか、どこかで見た風景。
 その風景が、その後、くりかえし、くりかえし、記憶の中に登場してくる。
 そのうちに、瞼を閉じれば、すぐに浮かんでくるような、鮮明な像となって、思い出の中に蓄積する。
 人それぞれに、そういう風景があるのだと思う。
 私にとって、一つ、思い出す風景がある。
 戦後の日本。
 私と家族が住んでいた港区南麻布の家の、道を隔てた先に広がっていた焼け野原の風景がある。
 雑草がそこここに生える広大な敷地の中央に、爆撃で廃墟と化した洋館が一つ、建っていた。
 たぶん、幼稚園に入るか入らないかのころだったと思う。
 焼け野原は、私と双子の兄の茂彦のかっこうの遊び場になっていた。
 草むらの間を走り回り、棒切れを探しては「ちゃんばら」をし、時間を忘れて走り回っているうちに、日が暮れる。
 廃墟となった洋館の上に、鮮やかな夕焼けが広がっていく。
 当時の日本に一つだけ残っていた、果てしない空。その空をくまなく染め上げる赫々たる夕焼け。その下に、静まり返り、次第に黒い影となる、朽ち果てた洋館。

 それから、六十余年の歳月が流れ、戦後の日本の歩みについて考え、最後のストレッチ・コースにさしかかる中で自分の人生を振り返るようになってから、私は、頻繁に、焼け野原の洋館と、その上に赫々と耀いていた夕焼けを思い出すようになった。
 焼け野原の風景は、私の世代が、最後に帰っていく原風景なのかもしれない。
 けれども、戦後の日本も、私も、私の世代も、断じて、焼け野原の荒廃の中に立ち止まっていたいとは、思わなかった。
 そこから出発して、自分を、日本を、そして、世界を作り変えようという夢をもって生きてきた。
 私は、何を目指して、生きてきたのだろう。
 目標としていだいた原風景は、何だったのだろう。
 そういう意味での原風景を考える時、私の場合、外務省で勤務していた父に連れられて、小学校の後半をヨーロッパで過ごしたことが、とても重要な意味をもってしまったと思う。
 第一回の原稿で書いたように、父東郷文彦は、1954年、戦後初めての在外勤務として、オランダはハーグの大使館に赴任し、当時、小学校四年生だった私も家族とともに、初めての外国生活をすることとなった。
 廃墟の記憶が残る日本にくらべ、世界大戦の戦場とはならなかったオランダは、豊かであった。中世ヨーロッパの伝統が街を形作るヘーグ市街の中心にある小学校に通い、海辺に近い住宅街にあるレンガ造りの二階家に住みながら、週末には、両親につれられて、時折、ドライブに行った。
 自分の家の車をもつなど、夢もまた夢の時代であった。それでも、在外勤務では、車が必要ということのようであり、我が家でも、丸型の黒いオースティンを購入し、母は、「トンちゃん」と呼んで、嬉しそうだった。
 ドライブに行けば、運河にであう。
 緑の草につつまれた一直線に伸びる堤防と、
 規則的に列をなすポプラ並木に沿って、
 地の果てまで伸びていく銀色の運河。
 運河の上の、青い空と、
 青い空をかける、白い雲。
 そういうオランダの自然が、やがて、私の中の原風景となった。
 それは、自然と人間の協力と境界をはっきりさせながら、心を癒し、時間を忘れさせる、穏やかで満ち足りた、原風景だった。

 オランダで一年、そこから父が転勤したスイスはジュネーヴで二年を過ごし、日本に帰った私は、その後の教育はずっと日本でうけ、1968年春、外務省に就職した。
 外務省では、新しく入省した省員に、二年から三年、外国で語学を勉強させる制度がある。私が、研修希望の言葉の二番目にロシア語をあげたということもあってか、外務省の人事課からは、「君は、ロシア語を勉強するように」という指示がでた。
 思えば、私の人生にとって、これほど大きな意味をもつことになる指示はなかった。この指示が無かったら、私の参画した北方領土交渉はなかったし、外務省からの退官もなかったし、「フォーラム神保町」との出会いも無かったし、こうやって「魚の目」の寄稿原稿を書くこともなかったにちがいない。
 ともあれ、一年間を、欧亜局東欧一課というソ連と東ヨーロッパを担当する課で見習いの研修生として仕事をした後、私は、1969年夏、三年間の研修生活を送るために、故国を旅立った。
 最初の研修は、イギリス陸軍教育学校ロシア語コースであった。
 陸軍教育学校は、ロンドンと、その西方オックスフォードとのちょうど中間にある小さな田舎町、ベーコンスフィールドという所にあった。その町の外延部にイギリス陸軍は広大な土地を持ち、そこに、軍としての語学学校をつくっていた。教える語学は、冷戦の最中で最も知識を蓄えなくてはならないと考えられていたロシア語が中心であったが、更に、アラビア語のコースもあった。中国語の講座は無い時代だった。
 教育学校は、独身者住宅用の高層タワー・ブロックと、幾棟にも別れる教室棟、将校集会所、レクリエーション棟などによって構成されていた。最初の一年は、週末にベーコンスフィールドの街で買出しをする以外は、ほとんどの時間をこの小さな施設の中で過ごし、日夜をあけて、語学の勉強に埋没する日々が続いた。
 勉強は厳しかったし、英語の勉強をしながら学ぶロシア語も大変だったが、英国外務省のロシア・サービスの人たちも参加し、大英帝国の陸海軍の俊英も集まり、彼らとの友達関係も徐々に生まれてきて、楽しい毎日ではあった。
そうやって、一年目の研修が終了し、二年目はロンドンに移り、ロンドン大学スラブ東欧研究所で、ソ連の政治・経済・歴史・法律の勉強をした。三年めの研修は、前半は、陸軍教育学校にもどり、上級コースで更にロシア語の水準向上を目指し、後半モスクワに赴いて家庭教師につきながらロシア語とロシア事情の勉強をすることとなった。
 研修三年目に入った1971年夏、ベーコンスフィールドにもどると、先ずは住むところを探さねばならなかった。この年から、家族を呼び寄せることが可能になったからである。
 近辺のエージェントに半年契約で借りられるアパートはないかと、当時やっと購入していた薄緑色のオースティンの中古バンを運転しながら、探しまわった。どうも、最初は思わしくなかった。新興住宅街の単調な長屋アパートや、いかにも落ち着かない街中の屋根裏アパートしかでてこない。もうどこかに決めねばならない時が迫ってきた時、とある田舎町の小さなエージェントの横を通った。
「駄目もと」で、飛び込んでみると、年配の柔和な店主は、「こんなのどうですか」と言って、手元のファイルの一ページを開けた。
「クッカムというテームズ河沿いの田舎町があります。その先に、クッカム・ディーンという小さな村があります。その村に住んでいる作家の方が、この九月から半年、どこか外国に行かれるので、その間だけ、借家人を探しているんです」
なにか、幸先よさそうな話であった。

 私は、猛烈な方向音痴である。
 この時も、エージェントの人が親切に書いてくれた地図を頼りに、何回か行ったりきたり、道を迷いながら、先ずは、クッカムにたどり着いた。
 町の入り口で、テームズ河を横切る、大きな橋をわたった。
 岸辺の片側は、よく手入れされた芝生と草花の庭園が続き、それぞれの屋敷が、庭園の奥の方に見え隠れしていた。
もう一方の岸辺に、クッカムの「通り」があった。
赤いレンガの建物と、白い壁に黒の棟木を組み合わせたチューダー朝スタイルの建物が交錯し、様々なお店の間には、何百年前からあるにちがいない、パブが幾つも建っていた。
 「こういうパブに、週末には、学校の新しい仲間と飲みに来るのかなあ」
 希望ばかりが膨れ上がっていく中を、クッカムの「通り」を過ぎ、田舎道に入った。
 そこから五分くらい走ったところだろうか。
 左側に大きな牧場、右側には、そろそろ葉の落ち始めた落葉樹に、こんもりとしたブッシュと緑の葉がまぶしい木々が混ざった林が現れた。その林の中に、低い石垣で敷地をかこい、秋の草花で庭を彩った、白い壁の家屋が点在し始めた。
 クッカム・ディーンに入ったようである。
その一角に、目指す、パークス氏の家があった。
 道路に面した門から家までは、小さな芝生の庭になっていた。
 家は、真っ白な壁に数本の黒い柱が外付けされ、屋根は茅葺で被われ、古風なイギリスの農家の趣であった。
 ドアをノックすると、パークス夫妻が現れ、破顔一笑、
 「ようこそ」と言った。
 先方の事情をうかがうと、御主人は、BBCのライターで、会社の仕事で南アフリカに半年行くことになった由、夫人が南アフリカ出身なので、半年だけ家族をあげて南アフリカに行くことにした、その間、家を貸したいと言うことであった。
 一階は、居間と食堂と書斎、二階には小さな寝室が三つ。
一部屋は六畳前後。
 欧州の基準からすれば、決して大きいとは言えなかったが、まったくもって、十分の大きさだった。
 どの部屋も、小さな格子のはまった窓に薄茶色のカーテンがかけられ、簡素で居心地のよい雰囲気が漂っていた。
 感心して見ていると、案内をしてくれた夫人が、にっこりして、
 「リバティのコットンですよ」
 と言った。
 なんのことか良くわからなかったが、素朴な英国風の風情であった。
 裏庭の大きな樫の木の上には、子供たちのために、小さな家が作られていた。
 家賃は若干高めだったが、その場で、契約をした。
 「なんて素敵なお宅でしょう。もう、どのくらい住んでおられるんですか」
 「五年くらいでしょうか。実は、ここに来る前は、私たち、水上生活者だったんです」
 「水上生活者?」
 「テームズ河にボートを持っていましてね。そこで生活しながら、BBCの仕事をし、家内とも結婚したんです。今でも、時々、ボート旅行にでるんです」
 「ボート旅行?」
 「はい。息抜きをしたくなるとね。でも、子供ができたので、やはり、家を基地にしようと思って、ここに引っ越してきたんです」
 「はあ〜。良いですねえ。いつごろ、建った家ですか」
 「そうですね。確か、四百年以上たっていると思います」
 「四百年!」
 江戸幕府ができる前のことではないか。
 「随分古いんですね。なにか、不自由されることはないですか」
 「全く。家の内部のメカは、全然問題ないですよ。ご覧のように、小さな家ですが、生活するには、十分です」
 パークス氏と話をしている居間の窓からは、芝生の庭と、蔦と花に埋もれた井戸が見え、道を隔てて、その向こうは、牧場になっていた。
 牧場は、ちょうど登り斜面になっており、目隠しの樹が切れた所から、数頭の羊が、草を食んでいるのが見えた。
 夕暮れの中、牧場に霧が降りてきた。
 こうやって、半年間の、クッカム・ディーンの生活が始まったのである。

(第二回:終了)