戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第七回:変化の時が訪れた

▼バックナンバー 一覧 2009 年 10 月 6 日 東郷 和彦

「本当に日本の風景は蘇りつつあるのだろうか」
 八月の十二日に書いた前回の記事の末尾で、私は、そう述べた。
 それから、気がついてみたら、もう十月になっていた。
 この五十日の間に疾風怒濤のように起きていることは、私が「戦後日本が失ったこと」というテーマで述べようとしていることと、本質的に関わっている点が余りにも多い。
 私は、これまで、特別に民主党の支持者ではなかった。むしろ、憲法九条の改正論者で日米同盟の支持者であったことからすれば、民主党の外交・安全保障政策には、違和感があったと言うべきだと思う。
 私がこの連載で述べようとしている「戦後日本が失ったもの」の回復は、どちらかといえば、リベラルで進歩的な党が実践することというよりも、真正保守の立場から考えた方が、わかりやすい課題のように考えてきた。
 しかし、現実には、前原誠司国土交通大臣の下で出されているいくつかの政策は、私がここで述べようとしていることに、見事なまでに着手されつつあるのである。
 更に昨日十月二日、昨日広島地裁が発出した鞆の浦景観保護判決は、画期的な内容を持つものだった。民主党の政権掌握と、鞆の浦判決の間になんらかの関連があるのかないのか、私は承知しない。しかし、両者あいまって一つの時代の潮流が描かれているのである。
 民主党なのか、自民党なのか、行政なのか、司法なのか、これは、本稿の主要なテーマではない。
 ここで私が本質的に述べたいのは、戦後日本は、敗戦によって国民全体がはめ込まれてしまった一定の鋳型の中で、何か大切なものを失ったということなのだ。
 そのことに気がつき始めた人がずいぶんたくさんでてきているように見えるということを前回の記事で書いた。
 にもかかわらず、その実現は遅々と進まず、事態は、悪化の一途をたどっているようにも見えたのである。
 この点に、変化の兆しが現れたと言うことが、決定的に重要なのだ。
 ダム建設の見直しと、鞆の浦景観保護判決の二つは、事態の進展の遅さに、あるいは肯定的変化の脆弱性に焦燥感を感じていた人たちにとって、大きな朗報だった。

 先ず、ダム建設について、述べてみたい。
 前々回に、紹介したアレックス・カーの「犬と鬼」から私は、次の部分を引用した。
——「国土交通省河川局は、一三三の河川のうち、三つを除くすべてにダム建設や流路変更を行っている。—_一九九〇年以降、全米で七〇を越す大規模ダムが壊され、更に何十ものダムが撤去される予定という。ところが日本は、すでに二八〇〇を越すダムがあるというのに、さらに五〇〇も造ろうとしている」(22ページ)。
そうなのである。
 私たちが祖先から受け継ぎ大切にしたい、子供たちに伝えたい日本の風景、それは何か、それを守り、育てていくにはどうしたらよいか、それこそ、今日本が考えなくてはいけない課題なのだ。
その思考を無意味にし、更に歯止め無くこれまでの規定路線を、「ブレーキの無い戦車」のように突進させてきたもの、それをいったんは休止させ、もう一回何が本当に大事かと言うことを考えねばならない時に、随分前から来ているのだ。
 八ツ場ダム、川辺ダムの建設中止と、「全国で建設中、または計画段階にある直轄ダムや導水路、補助ダムなど計百四十三事業すべてを見直す」(九月十八日、共同)ということが今まさに必用なのだ。
すでに、マスコミの議論の中に、ダムに依拠する治水について厳しい批判が登場している。日本の河川は急流であり、多量の土砂を川下に運ぶ。それが川下の岸辺を守り、河口に平野をつくり、私たちの祖先は、そういやってできた平野のうえで生活してきた。
 ところが今大部分の日本の河川を覆う二千箇所のダムは、上流からの土砂をその中にためこみ、下流への土砂の回流をなくしてしまう。
下流の河川の岸辺が、来るはずの土砂が来ないことにより、脆弱化する。それを覆うために、下流河川の岸辺と海への出口が巨大なテトラポッドの固まりで覆われることになる。
 これだけでも、大地が河川が岸辺が海辺があげる、苦しみと悲しみの悲鳴が聞こえてくるようではないか。
 更に恐ろしいのは、ダムの底に堆積してくる土砂が逃げ場がなくなってくるということである。湖の底深く堆積した土砂は、やがて、ダムの底で腐臭し、ヘドロ化する。ダムは、廃棄不能な公害を作り出す場所だったのか。
 もちろん、これまで言われてきた数々の理由によって、造ることの意義が関係者の間で本当に確認されるものについては、続けると言うことあろう。
 けれども、その判断は、そういう治水の全貌についての幅広い議論のうえで、明確になされるべきではないか。
 そういう議論の中で、私たちは、もう一歩先を考える時期に来ていると思う。それは、造りすぎたダムを除去することである。
 建造中・計画中の百四十三のダムの見直しだけでも、日本社会は激震に見舞われている。
 すでに稼動しているダムを取り払うというのは、現実離れした空論か、狂気の沙汰なのかもしれない。
 けれども、すべての漸進的な改革は、先ずは「進行をとめる(スタンド・スティル)」それから時間をかけて「押し戻す(ロール・バック)」という形でしか進められない。どこまで「押し戻す」か、それに対して固定観念をもって臨んではならないと思う。
 ダムに対して指摘できることは、これから公共事業によって造ろうとしている、道路、高速道路、新幹線、空港、あらゆる箱物についてあてはまる。先ず、歩みをとめる。そこで考える。本当に必要なものを残す。他のものは中止する。それから、不要になっているものは、撤去する。この単純で基本的な方策しかないと思うのである。

 私は、そういう視点で海外から日本を見続けていた。
 日本がこれから自分のビジョンを持ち、本当に造りたい国家をつくる、その中で、祖先から受け継いできた自然と歴史を大切にする。戦後六十年の間に、自然と歴史に対してやりすぎたこと、歯止めがきかなくなったことは、先ず歩みをとめ、再検討し、やりすぎのものを中止し、最後につくりすぎのものを撤去する。そういうビジョンをはっきりと提示する政治家はいないかと、考えながら日本からの報道を眺めていた。
 私の知る限り、小泉時代の後半くらいから、そういうビジョンをはっきり語った政治家が、自民・民主を通じて一人だけいた。
 中川秀直氏である。
 中川秀直氏は、安倍内閣の時の自民党幹事長として、二〇〇七年参議院選挙をしきられた。当時カリフォルニア州立サンタ・バーバラ校にいた私は、日本からの報道を見て、「私有財産権よりも自然美や歴史的景観が優越する新しい価値観(四月二〇日、沖縄県石垣市)、「美しい国土づくり。コンクリートで固められた国土を美しく再生し、公害から自然美を守り、歴史的景観を再現する(五月五日、中日新聞インタビュー)」、「NPOなどが官民挙げて昔からの環境、景観を大切にし、その上に新しいコミュニティーの姿を探求している(五月二十八日、徳島市)」などの発言を見て、新鮮な驚きと期待をもった。
 しかしながら、この選挙は安倍内閣の大敗に終わり、中川氏は惨敗に終わった選挙の責任をとってその直後に幹事長職を辞されたが、翌二〇〇八年五月「官僚国家の崩壊」という、同氏の政治的マニフェストのような本を出版された。
「公共事業によるコンクリートの撤去」という勇気ある発言はこの本の中で述べられている。
 少し長いが、関連箇所を引用したいと思う。
「昔は多彩だった日本の地方都市の風景も近年、とみに画一的になっている。国道沿いは、大規模店舗やファミリーレストラン、ファストフード店、大型量販売店、消費者金融の看板で埋め尽くされている。全国どこでも同じ光景しかない。
 幕末に日本を訪れた欧米人はその美しさに驚嘆し、息を飲んだ。人数的にも来日した人が多かった英国では、帰国した人によって日本の美しさが伝えられ、日本への観光ブームが起きたほどだった。また、英国がその後、進めた庭園都市構想は、日本の美しさがヒントになったといわれている。
 当時の欧米人が現在の日本を見たら、どう感じるだろうか。あれほど景観を大切にしてきた幕末の日本人と同じ民族なのか、と仰天するにちがいない。
 地域が急速に醜く、かつ、無個性化している。これを「ファスト風土化」と呼ぶ人もいるようだが、「ファスト風土化」は、日本のデザイン力を衰えさせることになるだろう。
 だからこそ、私は「美しい国」を掲げる安倍総理の下で自民党幹事長を務めた時に、美しい国土を唱え、公共事業をするなら、むしろ、コンクリートをはがし、自然の美しい光景を取り戻すために行おうではないか、そのためであれば、都市住民も公共事業に反対しないはずだ、と訴えた」(「官僚国家の崩壊」131ページ)

 二〇〇九年十月一日、広島地裁は、地元住民らが県を相手取り、知事が鞆の浦の埋め立て免許を県と市に与えないように求めた訴訟について、住民側の請求を全面的に認め、知事に埋め立て免許の交付をしないように命じた。(十月一日、朝日夕刊)
 本当によかったと思う。
 日本民族が太古から預かってきたものは、この日本列島という国土と、そこで営々と営まれてきた民族のたたずまい、歴史の二つしかないのである。
 私たちは、日本民族にとって、自然と歴史の二つが持つ意味を、本当に考えなくてはいけないと思うのである。
 一連のダム訴訟が自然に対するこれからの対応を示しているとすれば、鞆の浦判決は、歴史的な風景についてこれから私たちが考えるべき方向性を間違いなく示していると思う。
 鞆の浦の話を初めて知ったのは、二〇〇八年三月二四日の朝日新聞記事、論説顧問の高橋郁男氏の「無言の問いに耳を澄ます」という記事によってだった。
 万葉の昔から日本人の心を捉えて離さなかったという鞆の浦、大伴旅人が歌に詠い、朝鮮からの通信使が「日東第一景勝」とたたえたというこの浦を、湾岸の交通渋滞を解消するために湾沿いの土地を埋め立て、高速道路を乗り入れる計画があるという。
 日本民族に、古からの自然と伝統を大切にする心があるなら、なんとしても、この計画は許してはならないことのように思われた。
 そうしたら、三日後の三月二十六日の朝刊に、日本イコモスの事務局長矢野和之氏が、高速道路の乗り入れに対して反対運動をしている住民が裁判を提起、鞆の浦の景観を守れるどうか、これから大変重要な事態を迎えると書いておられた。ネットで調べると、イコモスとは、International Conference on Monuments and Sights、 1965年ワルシャワで発足した国際NPOで、文化財の保存のために活動し、世界遺産の選定に重要な役割を果たし、1974年以降は、UNESCOとも緊密に連携して活動しているとのことであった。
 この時は、やみくもに、何かしないではおられなかった。朝記事を読んでからすぐ、イコモスの事務局に電話をかけた。矢野事務局長が電話にでられ、簡単に自己紹介し、鞆の浦の話をすると、「それではとにかく一回お越しください」ということになり、翌二十七日、事務局を訪問した。前野まさる委員長、矢野和之事務局長としばし懇談し、鞆の浦案件の概要をさらに詳しくうかがうとともに、なんのお役に立つか解らなかったが、ともかく、日本イコモスに入会することとした。六月、委員長と事務局長の推薦をえて、約三百人の日本イコモスのメンバーとなった。
 日本イコモスのメンバーとしての私の活動は、誠にお恥ずかしい限りである。いろいろな会合の案内をいただくのだが、出席できたためしがない。けれども、昨年の十二月十三日、年次総会にだけは出席した。
 日本イコモスは、約十個の分科会に分かれており、その中の一つに、鞆の浦に特定して活動しているグループがあった。
 全体会議での発表のあと、若干の自由懇談の時間があり、鞆の浦分科会の関係者の方から非常に興味深いお話をうかがうことができた。
その全部をここに記すのは適当ではないと思うが、私が思っていたのとは異なり、問題の根幹は、中央よりも地方にあるというお話だった。中央政府は、国土交通省にせよ文部科学省にせよ、文化遺産としての鞆の浦の景観価値を認めており、特に金子一義国土交通相は高速道路の乗り入れに反対の意向である。問題はむしろ長い経緯をへて利害が錯綜してしまった鞆の浦自体で、高速道路建設による利権を持つ人たちが、建設推進を譲らず、ここに、地方の利権を得ようとする様々な人たちがからんでいる。これらのいわゆる地方利権と全日本、全世界レベルでの価値を対比させ、最終的には、全世界レベルで勝ち残ることが鞆の浦自体のために有益であるかを、どうやって納得してもらうかとう話だった。
 それから一年弱、今回の判決である。
 各報道機関は、概ね今回の判決に対して好意的であり、これが、日本にとって景観を見直すきっかけになるかどうかに、着目しているようである。
 ダム建設をめぐって民主党と自民党との間には当面かなりの考え方の違いがあるようだが、鞆の浦問題をめぐっては、両党の考え方は、十分近接したものになりそうである。
「九月十七日、前原誠司新国交相への引継ぎで、金子善国交相はこう言い残した。『八ツ場ダムは攻守を変えて(議論を)やることになるでしょう。大事な歴史を残す鞆の浦を是非残していただきたい』」(朝日十月二日)。
 是非ともこの判決が、日本人にとって景観を見直すことがいかに大切かを考えるきっかけになってほしいと思うのである。

(了)