戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第八回:ゴン太の散歩

▼バックナンバー 一覧 2009 年 10 月 20 日 東郷 和彦

 私の両親は、無類の犬好きだった。正確に言えば、母が犬無しには生活できないくらいの犬好きで、これに影響された父が、また、大の犬好きになったということかもしれない。
 そういうわけで、子供時代から、家庭に犬のいないことがなかった。小学生の時に我が家に現れた、リーゼとフランツという二匹のダックスフンドに、中学生のころ、グレートデンのディナが加わった。この三匹が死んで、私が外務省に入ったあとは、ノビというダックスフンドの時代となった。八五年に死んだ父の後を追うようにノビが死んでからしばらくして、母は、ペット・ショップの隅で震えていた、形の悪いヨークシャー・テリアと出会い、ジェニーとなずけて、引き取った。
 最初は見るからにみすぼらしかったジェニーは、母の愛情を一身に集め、やがて、毛並みのふさふさした、母以外にはあまり関心を示さない元気な犬に育っていった。癌を患い、自分の死が近いと知った母は、自分が死んだあともしジェニーが生きる力を失ったら安楽死させてくれとかかりつけの獣医さんに言い置いて、九七年に他界した。
 自分に一番元気をくれる人が消えたジェニーは、しばらく悄然としていたが、食事だけはきちんと食べ続け、安楽死の話は、立ち消えになった。結局、私の家でひきとることとなり、家族一同によくなつき、二〇〇一年には、一緒にオランダに赴任した。犬好きのオランダ人たちの間でも人気者になり、退官のあとは、つらいことが重なる中、しばし、元気をくれる源のようになっていた。けれども、ロンドンにおける検察からの事情聴取という、私にとって、一番難しい局面が終わるのを見届けるようにして、六月の太陽が燦燦とした夏を告げる頃、ジェニーは十五歳の天寿を全うして、遠い世界に旅立った。
 ジェニーとの別れはあまりにもつらく、外国を転々とする生活の中で、次の犬を飼おうという気持ちにはならなかった。
 ところがである。
 二〇〇五年、プリンストンでの勉強が佳境に入ったころ、東京の留守宅から、連絡が入ったのである。妻と義理の妹が、たまたま通りがかったペット・ショップに、小さな黒い毛糸の玉のようなヨークシャー・テリアの子犬がいたのだそうである。
 できそこないで、死んでしまう可能性が高い子犬を、安くブリーダーからもらってきたようだった。保育器のような小さなケージに布をかけ、保温された中に入っていたそうで、目方はなんと670グラムという小ささで、たぶんこのまま売れ残り、そうしたら、処分されることになるのだそうである。
 妻も、義妹も、その犬のことが気になって、どうしても頭から離れないと言う。
まだ、いつ日本に帰るとも解らない時期であり、どこで責任をもって飼うともはっきり言い切れない時ではあったが、なにか、このまま薬殺させてしまうことはできない、縁が生まれたようである。
 かくて、その小さな半病犬のヨークシャー・テリアは、我が家の犬となり、「名無しの権兵衛」からとって、「ゴン太」と名付けられた。
 ゴン太は、外国との間をいったりきたりする妻よりも、東京の留守宅を守っていた義妹を自分の主人と心得たようだった。
 もちろん、皆のあふれる愛を一身に集めて、ゴン太は、まもなく毛並みのつやつやした、元気で、お茶目な犬に育っていった。地震・雷・花火がきらいなことは、天国の先輩ジェニーとよく似ていて、大きな音が炸裂すると、世にも情けなそうな顔をして、もよりの大人の所にかけつける。食卓から何か食べるものが落ちてくるという気配を感ずると、そう大きくない瞳を、ふだんの倍くらいにひろげて、キラキラと見あげてくる。
 同時にゴン太は、無類のいたずら好きで、何事によらず、口に入るものは、しっかり咥えて、大得意で走り回る。私の書斎に山積みされた本にはさんだポスト・イットを食いちぎっては、口の中でくちゃくちゃやりながら、「それ取ってみろ」と言わんばかりの目つきでこちらをチラチラ見る。これを手で取ろうとするものなら、強烈なダッシュで逃げ周り、それでも手を伸ばすと「ワウッ」と噛みつき、これにはちょっとオオカミ的な鋭さがある。やめさせるには、超食い気がはっている彼の弱点をついて、ドッグ・フードとかビスケットを床に落とすしかなく、そうなれば、口の中に咥えていたもののことは瞬時に忘れて、床の上の食べ物のところに突進する。
 留守宅では、病弱な上、そういう意地汚くて危険な兆候も持った犬だったので、最初は、散歩に連れ出すことは控えていたそうである。
 そうはいっても、やはり、外の世界も見せなくてはということで、赤いしっかりした首輪と紐を買ってきて、しばらくたってから、義妹が、最初の散歩に連れ出した。
 そうしたら、「世界が、こんなに魅力のあふれるものだとは知らなかった」というぐらい、ゴン太は喜んだそうである。
 路上で見るもの、ふれるもの、会う人、会う犬、皆初めて目にふれる、新鮮な驚きの連続だったらしい。
 かくて、ゴン太は、「散歩大好き人間(犬)」になったのである。

 二〇〇八年一月、西麻布の自宅に居を移し、生活し始めてから、原則として、ゴン太を朝の散歩に連れて行くのは、私の役割になった。
 朝の七時を過ぎると、ゴン太は、もう待ちかねている趣である。
 「いく?」と声をかけるだけで、眼の輝きがぱっと変わる。
 お得意になった赤い首輪をしっかりつけて、糞を始末するためのビニール袋を持って、私たちは、朝の散歩に出る。
 今私が住んでいる場所は、戦後、両親が住み始めた、南麻布の家と、北条坂という坂を隔てた反対側にある。
 ゴン太と私は、その日の気分や、時間の有無によって、北条坂を渡って、南麻布に入る。
 そうすると、いまはマンションに建て替わった、生まれ育った家があった敷地の前を通る。
 その敷地の前は、子供時代、一面の焼け野原だった。
 草や石ころや棒切れが散らばるその広大な土地に、爆撃によって廃墟となった洋館があり、私は、双子の兄と一緒に、ひがなその野原を駆け回っては遊んだ。
 廃墟の上に赫々と落ちる夕焼けが、私の心の原風景となった。
 焼け野原は、やがてきちんと整備され、廃墟となった洋館は取り壊され、立派な日本家屋がたった。やがて、そこに、広壮な庭園と瀟洒な洋館がたち、その洋館は、ある時、更に眼を奪う堅牢豪華な御殿風の建物に代わった。その御殿風の建物も今は壊され、今そこには、全敷地を覆い天空をきる億ションが聳え立っている。
 焼け野原が億ションに代わったように、たぶん、この南麻布の一角は、戦後日本の繁栄を象徴するように、発展してきたと思う。
 「外縁西通り」や「テレアサ通り」に面した所には高層マンションが立ち並んでいるが、その内側は、概ね三階建て建築として、しっかりした素材を使って建てられ、高さ、色調、形の点で、一定の調和を保っている。ガラス素材を多用したり、赤みの強いレンガで曲線の壁をつくったり、個性的な建物もあるが、総じて、違和感はない。
 角をいくつか回ると、スイス大使館、ノルウェー大使館がある。両大使館のある通りは、道幅も広く、その向かい側には、有栖川公園の緑が見え、いくつかのマンションの高層階からは、さぞかし、借景がすばらしいだろうなと思える場所もある。
 北条坂を西麻布側にもどると、こちらは、庶民の息吹を感ずるところも多いが、笄(こうがい)小学校、笄公園という伸びやかな空間がある。これまで空き地だった場所には、新しい建物が踵を接して建築中で、南麻布側よりも、一層活気を感ずる風情である。
 まだ冬の気配のあるころに始まった散歩に、春が訪れた。木々が緑の息吹につつまれるころ、笄公園の桜がいっせいにほころび始めた。南麻布の通りのそこここでも、「こんなところにこれほど美しい桜があったのか」と思わせるような、優雅な古木が花を咲かせ始めた。七年ぶりに見る日本の春は、典雅に風に乗り、花びらが舞い、陽春の中で、時間がながれていった。

 花吹雪が去って、雨季が訪れる少し前、そろそろ紫陽花が咲く頃かなあという時だった。
 少しどんよりとした空の下を、その日私は、考え事をしながら歩いていた。
 ゴン太の歩くペースは、だいたい決まってきた。オスなので、やたらとあちこちで、片足をあげては、示威運動をする。チビなので、一回にでる量は、とても少ない。でも、回数だけは、多い。糞のほうは、毎回の散歩で、必ず一回と、ほぼ決まっている。なので、私が気をつけなくてはいけないのは、糞をしそうになって背中を亀の子ように丸め始めた時に、グイと引っぱたりしないことである。後は、糞をしたら、持参の紙でとって、ビニール袋に入れる。
 その日は、もう糞もすませていたし、私は、仕事と人生について、もの思いにふけりながら、歩いていた。
 その時である。
 突然、すさまじい声が天から降ってきた。
「ちょっと、あなた、御宅の犬ですね、いつも、私の家におしっこをかけているのは」
 瞬間何が起きたのか分からなかった。
 ゴン太は、私の足下にいる。
 大きい声は嫌いだから、なにがしか、不安そうな顔をして、こちらを見ている。
 ゴン太のすぐ横に、上の方から怒声を降らせている方の家の、大理石風の石でできた塀の角がでていて、その角に、どこかの犬がしっかりとかけたオシッコのプールができている。
「いえ、でも、うちの犬はチビなんで、こんなには、でない。。。。」
「何を言うんですか、あなたは!私はずっと上から見ているんです。やっぱりあなたのところだったんだ。なんでそんなこと、させるんですか!人の大事な家にオシッコかけさせるんですか!人の気持ちが分からないんですか!」
「いえ、、、でも、、、家のは、、、もうずっと歩いてきて、、、そんなには残って、、、、」
「まだそんなこと言うんですか!!!あなたは、どこの誰ですか!!!私は毎日上からずっと見ているんです!!!区役所に、いいますよ!!!」
 明らかに形勢不利だった。なによりも、物思いにふけっていて、肝心の現場をしっかり見届けていないのである。相手の言うことも、本当に現場を見ていたかどうかは、一抹はっきりしない。けれども、ゴン太の横には、この家の大事な大理石の角に、プールができているのである。ここは、素直に兵を引くしかない。
「解りました。私もきちんと見ておりませんでした。今後は、しっかり監督しながら散歩させますので」
 天から怒声を落とした人は、まだ不満そうだったが、とにかく、私は、ほうほうのていで、謝ってその場を退散した。
 しかし、この日の朝、私はたくさんのことを教えられ、また、考えさせたれた。
 確かに、それまで、なにも考えずに歩いていた、公道と、その横の私道と、更に建物の間には、かなり複雑な関係がある。人間にとってかなり複雑なので、ましてや、ゴン太にとって、どこでオシッコをすればよいのか、彼がいかに怜悧で狼の血筋をひいていても、判断がつくはずはない。
(1) まず、普通は、道路の中心には「公道」があるが、これが、車道と歩道と、段差つきで分かれている場合がある。この場合は、この段差を利用してオシッコをすることは、安全性は別として、一応問題なさそうである。
(2) しかし、この公道が、特定の建物に属する私道や、或いは、車庫への導入スペースのような空間に接している場合がある。そういう、個人に属する、道路的な部分で、オシッコは、どの程度やってもよいのだろうか。
(3) 次に、公道に対して、直接建物の壁が張り出している場合がある。雷が天から降ってきた上述のケースが、そうである。この場合は、見合わせた方がよさそうであるが、現実に、どのくらい、守られているのだろう。
ゴン太が判断できない以上、人間が決めたことは、人間が識別してあげねばならない。
 爾来私は、例の家の前を通る際は、必ず道の反対側を通るようにする一方、どこを歩く時も、少なくとも、道にそのまま乗り出してきている家の壁には、オシッコをかけさせないように務めながら散歩している。
 ゴン太は、当然のことながら、私の論理が未だに全く解らない。なので、時にはちょっと恨めしそうになったり、不満そうになったりして、ぶつぶつ言っている(最近では、ゴン太は、声帯を使い分けることによって、何種類かの見解の表明をするようになった)。

 だが、天から降ってきた怒声は、もう少し、別のことも考えさせてくれた。
 怒り方のテンションが余りにも、凄まじかったのである。確かに自分の家にオシッコをかけられるのは、よい気持ちではなかろう。だが、その後、注意深く近辺の家を見ていると、道路に待ったなしで壁を突き出している所では、コンクリートの壁だろうが、白いタイルや大理石風の壁だろうが、どこでもみな、雄の犬の示威行動に会っていない所は、ほとんど無いようなのである。そういう日本的な状況の中で、どうして、あそこまで、激しく怒ったのだろう。
 その方個人の生活に起因することには、もちろん、私には全く関心はなかった。しかし、社会の規範、価値の問題として考えると、もう少し腹がたつことが他にないのかと、考えてしまった。
 数日間、私は、考え続けた。
 そのうち、ふと、思いついた。自分で考え出したか、以前どこかで読んだことが蘇ったのか、判然としない。
———そうか。日本人にとって、自分の家って、とても大事なんだ。
 戦後の復興の中で、家を持つこと、マイホームを持つこと、それは、究極の目標だった。
 だから、家を持てるようになったら、なんとしてでも、それを守る。
 家を持ったものは、自分にとって、ほんとうに大事な場所だから、オシッコをかけるなど、とんでもない。
———日本人にとって、家が余りにも大事ということは、絶対他人には介入させないということなのだ。戦後日本が与えてくれた権利の範囲内でならば、建てる時に「公」、つまり、「周りにいるみんな」の意見はまったく斟酌しない。斟酌する余裕も無かった。
「建物の外観は公共財」という観念を、DNAの中から取り落とした戦後日本の住宅観念は、天から怒声を落下させた方が思っているように、自分の家は自分のものであり、それに理不尽に介入しようとする人たちを許せないという感情と表裏するのではないか。
———そういうふうに考えるなら、例えば、西麻布から南麻布にいたる、戦後の豊かさを象徴しているようなこの地域で、一本の電線も埋設されていないと言う、「公共の欠如」に、まったく腹のたたない人たちが、自分の家にかけられたオシッコに激怒する理由は、よく解る。

 ゴン太と歩く街並みは、決して醜い街並みではない。特に、南麻布は、建物一つ一つをとっても、全体の調和にしても、世界レベル見ても、決して低い水準にあるとは思わない。
 しかし、歩けば歩くほど、我慢ができないほどに、醜いことがある。
電信柱と電線である。
 家の周りを歩き始めてから二年になろうとしている。
 このごろ、私は、時々元気がなくなってきたように思うことがある。
 一つの理由は、あの電信柱だと思う。
 南麻布の電信柱は、私がこれまで見たものの中でも、特に醜い形をしたものである。巨大なゴキブリのような塊が鉄柱にはりつき、無数に散った女郎蜘蛛が、その周辺にへばりついている。
 配水管とガス管は地面の中にあるのがまったく当たり前の日本で、電線だけは、その感性に対する暴力に誰一人怒声をあげない。
 自分は、毎日、毎朝、桜の吹雪がまう春のうららに、秋の透明な光が天から地球を祝福しているこの朝に、どんな時にも、決して消えることなく介入してくる、あの醜悪さに対して腹が立つ。
 というよりも、あの醜さを、醜いと感じて、なんとかしようと言い出さない私たち日本人自身に対して、腹が立つ。
 この頃は、散歩の時は、前を向いて歩く。天を見上げると、どうしても、張り出した電信柱を見ないわけにいかないからである。
 自分には、ここに、戦後日本が「公」を失ってしまった象徴があるように、見えるのである。
 犬好きであるがゆえに、そう見えるのだろうか。
 それとも、戦後、どこかで、私たちは、「公」と「私」の境界を、間違えてしまったのではないだろうか。
 あの、紫陽花を待つ日の朝、天から降ってきた怒声を聞いて、私は、そんなふうに考えるようになった。

 東京について、語らねばならないことは、きっと、余りにもたくさんあるのだろう。
 東京の風景ということを考えた時、世界の中心にもっていっても胸を誇れる、幾つかの成功例があると思う。私が今行動している範囲でも、表参道は、いつも爽やかな風景が活気を生み出し、皇居の周辺も、何かを感じさせるものがある。
 しかし、週一回、京都産業大学に新幹線で通う時、品川駅をでて新しいマンモス・ビルの森をぬけてから、延々と続くコンクリートの塊となった家並みは、これが、戦後日本が目指してきた、文明の行き着く先かと考えるなら、ただ、眼をつぶりたくなるのみである。
 しかし、私は、東京について余りにも知らない。
 机の前を離れて、街を歩き、自分の感性に訴える場所を、もっともっと見なければと思う。
 しかし、そうやっているうちに、時間はたち、私の持ち時間も限られてくる。
 机を離れて、街にでる。
 できるだけそうしよう。
 でも、今できる範囲で、私が発信しなければいけないと思うことは、述べていきたいとも、思うのである。

(了)