戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第十五回 グロ-バリゼーション

▼バックナンバー 一覧 2010 年 5 月 18 日 東郷 和彦

 世界に打って出る、世界を日本に引き入れる、冷戦終了から二十年、元気を失い始めた日本が、本当に元気をだすには、そうやって、外界との壁を壊すことしかない。
 グローバリゼーションの下で、外との競争に勝つための競争原理は、仮借なく、進行している。
 冷戦時代、世界は、軍事力を基礎とする米ソ二極支配の下に置かれた。冷戦が終了し、軍事・政治・経済すべての面でアメリカが圧倒的な力を持つ中で、アメリカ発の経済・金融・技術・ITのスタンダードが、これまでとは質的にちがった速度で、世界を回流し始めた。
 人・もの・かね・情報の四者が、グローバル・スタンダードといわれるルールに従って、猛烈なスピードで世界を席巻し始めた。
 中国は、世界の工場として世界中から中国投資を呼び入れ始めた。9・11の後米国は、全世界を基礎にするテロへの戦いを開始した。リーマン・ブラザースの金融破綻は、直に世界同時不況に発展した。
 経済の発展も、情報の伝達も、安全保障の確保ですら、一国や一地域の問題としてのみ処理するのが、非常に難しくなっている。最終処理は、グローバルに行われて初めて落着する。
 これは恐ろしい事態である。経済的にも、政治的にも、軍事的にも、文化的にも、力のあるもの、他に比して優れたものは、グローバル・スタンダード(世界水準)というルールをつくり、そのルールに則った形でのみ、ものごとは処理されていく。
 グローバリゼーションの下で勝ち残っていくためには、この世界水準を身につけねばならない。
 しかし、それだけでは、絶対に不十分なのである。グローバリゼーションの下で真に勝ち残っていくためには、その世界水準を上回る力をもち、世界水準の下でも他を押しのける磁力を持ち、バリアをとりはらってでも世界のトップとの競争に勝ち抜く魅力を持たねばならない。
 冷戦の勝利国の筆頭におりながら、日本は、この二十年、グローバリゼーションの下で、世界のトップに立つ適応力にかけてきた。
 しかし、いま、世界をひきつける求心力をもつべく照準をさだめないならば、日本は、グローバリゼーションの下で他国の設定するルールに従うだけの縮小国になりさがる。

 今年の初め、トヨタのリコール問題が、いっせいに報道された。
 言うまでもない。トヨタは、戦後日本ブランドと昭和の成長の象徴であり、「失われた20年」の平成にあってなお、急成長してきた日本の勝ち組のトップランナーだった。市場は、欧米からロシア、中国へと拡大、世界第一の自動車産業として成長を続けているかにみえた。
 ところが、リーマン・ブラザースに端を発する世界同時不況のあおりの中で、販売台数の低下が報ぜられ、更に昨年末から、米国生産トヨタのブレーキの不具合の問題が報道され始めた。車種は、最新のプリウスからレクサスに波及し、問題はブレーキの不具合、しかも、低速航行ではなく、超高速航行になったときにブレーキが作動しなくなるという恐ろしい話が伝わり始めた。
 二月二十四日、豊田章男社長は、米国下院の公聴会で証言、電子制御の誤作動による意図せぬ加速について「様々なテストをやってきたが、問題がでていない」と証言した。しかし、公聴会では、レクサスを運転し高速制御不能におちいった体験を持つロンダ・スミス氏が、自らの体験を生々しく語った。
 更に、全米のマスコミには、高速制御不能に陥り、交通当局に必死の助けを求めつつ、フェンスに激突し家族四名が死亡した運転者との交信が直に報道され、日本のテレビでもその交信が放映された。
全世界の人々が、高速制御不能になって死んでいく人の肉声を、ほぼ同時に聞く時代に入ったのである。
 この交信は、捏造なのだろうか。
 情報操作による、トヨタ・バッシングの一環なのだろうか。
 なかなかに、そうは断定できないのである。
 豊田社長は、公聴会で、「人材育成が、経営拡大のスピードについていけなかった」ということを述べた。たぶん、そういうことなのだと思う。そうなのであれば、問題を反省し、欠陥車製造の責任を認め、今後は絶対に安全で過ちのない技術に依拠した車の生産に専念するほかはないと思う。
 しかし、問題は、それだけでは止まらないように思うのである。グローバリゼーションの下で、この種の事故が起きることに、いままでにない恐ろしさがあるように思うのである。
 テレビとインターネットを通じて、制御できなくなった車から発する人の声が、ほとんどリアルタイムで全世界に伝えられる。
 私も、日本のテレビ放送で、その声を聞いた。
 率直に言って、ぎょっとした。
 世界の中で第一位となるためには、戦後65年の血のにじむような努力があった。テレビとネットの世界は、一瞬にして、その信用を壊滅させる破壊力をもっている。
 日本と日本人がこれから世界の中でしっかりした足場をつくっていくためには、この過酷な競争に勝たねばならない。
 それが、グローバリゼーションの下で起きる問題の、必須の切り口だと思う。

 冷戦後の「失われた20年」を生き抜いてきたはずの日本の最高技術がグローバル化の下で直面するもう一つの問題がある。
近来、「ガラパゴス化」と表現されている問題である。
私が、最初に「なにかおかしいな」と思い始めたのは、携帯電話の普及についてであった。
 私にとって、最初は、電話といえば家にあってりんりんなるもの、ダイヤルはぐるぐる廻すもの、せいぜいが、赤い公衆電話に10円玉を入れてかけるものという時代だった。それが、たぶん、八十年代の在外勤務を終えて帰ってきたら、家の電話はプッシュホンに変わり、街角に緑色の公衆電話や、場所によっては黄色い大型電話が入った電話ボックスが立ち、そこでお金の必要のないテレフォン・カードが使われ始めていた。
 「日本って、すごいなあ」と思ったものである。
 九十年代前半の外国勤務でようやく携帯電話が現れたが、当初は、ウォーキー・トーキーのようなもので、巨大でものすごく高価だった。在外勤務を終えて外務本省で最後に勤務した九十年代の後半、日本での携帯の普及率は、まだそれほどではなかったと思う。
 携帯電話が、本当にあちこちに出回り始めたのは、2000年を越えてからだった。2002年に外務省を退官してオランダに戻ると、気がつくと、誰もが小型のノキアの携帯を持って歩いていた。アメリカでは、ブラックベリーという機種を、皆がもっているようだった。
 2006年に日本に帰り、ほとんどの日本人が、どこでも何をしていても、少なくとも一台の携帯をもっていることに驚愕した。街角の緑の公衆電話は、あとかたもなく消えていた。しかも、携帯電話は、もはや、しゃべる機能だけではなくなっていた。ほとんどの人が街中や電車の中では大声で話をしないつつしみ深さを備えていた。代わりに、誰しもが熱中しているのが、メールのやりとりとネットを通じて参画している情報や娯楽の入手のようだった。
 2008年初め帰国を決めて、私も携帯を買った。
 「どのくらいの機能のついたものになさいますか?」
 購入に訪れた店の店員は、とても親切だった。
 「いえ、一番基本的なもので。電話と、あと、メール。ほかになにがありますか?」
 親切な店員は、私にはわからない機能を山ほど説明してくれたが、結局、写真を取る機能が付加されたなるべく簡単なものを買って、今でもそれを使っている。
 その後、年に数回世界の各国に出張に行くようになった。
 どこにいっても、街角や電車でであう人たちが、日本ほどたくさん携帯を使っている例はない。韓国が、もしかもしたら、日本並みかと思ったが、欧米は少なくとも日本の比ではない。
 その中で、ぎょっとすることに気がついた。
 日本製のブランドや機種が外国では、まったく見られないのである。
 日本の技術は、優秀ではなかったのか。
 ノキアやブラックベリーがあって、どうして、日本のブランドがないのか?
 日本で携帯があれほど普及し、日本の携帯についた技術は、あれほどすごそうなのに、なぜ日本の携帯がまったく輸出されていないのか?
 帰国してしばらくしてから、教鞭をとり始めたテンプル大学で、同僚のアメリカ人教授に、その疑問をぶつける機会があった。
 「どうして、日本の携帯って、世界で普及していないんでしょう?」
 相手は、当時の私としては、びっくり仰天するようなことを言った。
 「トーゴーさん、それはね、日本の携帯って、複雑すぎて、役にたたないからですよ」
 「えっ。機能が多いって良いことではないのですか?」
 「人によっては、そうでもないのですよ。自分の必要に応じ、簡単に使える廉価な機種をつかう。ノキアなんて、グローバルに、なかなかのセールスをやっていますよ。日本の携帯は、日本人の関心と能力には、たぶんぴったりなのです。でも、あそこまでのものを持とうと思わない世界マーケットの人も多いのです。しかも、割高ですね」
 ガラパゴス化の問題を、初めて理解したのは、この時である。
 この稿を書いている直前に、吉川尚弘氏の『ガラパゴス化する日本』(講談社現代新書、2010年2月20日発行)が発売された。私の頭の中で考え続け、ここで述べようと思っていたことを、実に明確に述べておられる。

「ガラパゴス諸島は、南米エクアドルの西方の南太平洋の沖合い約900キロにある火山性の島々で、独自進化した動物、たとえば、ガラパゴス・イグアナ、ガラパゴス・ゾウガメなどが生息することで有名である」―――吉川氏『前掲書』
(17-18ページ)。

 狭い生息地で独自成長をとげたガラパゴス・イグアナ、ガラパゴス・ゾウガメなどは、その地域以外どこにも生息できない、脆弱な天然記念物的な存在になっていく。
 日本はいま「ガラパゴス化」しているのである。
 吉川氏『前掲書』の冒頭に最初に示されている例が、携帯電話である。

「日本企業がつくりだすモノやサービスが海外で通用しないことを、本書では『日本製品のガラパゴス化』、あるいは製品をつくりだしている企業にも要因があるという意味で『日本企業のガラパゴス化』ということにする。
携帯電話端末はその代表例であり、目の肥えた日本人向けに、非常に高度で洗練された端末が開発されているが、こうした商品は日本以外では通用しない。そのため世界市場における日本製品の市場占有率が極めて低い。日本企業のつくりだすモノやサービスが独自進化しすぎたゆえに海外では通用しないという点では、ガラパゴス諸島の動物と似ている」吉川氏『前掲書』(18-19ページ)。

 吉川尚弘氏も必死に主張しておられる。―――なんとかしなくてはいけない。日本が、ガラパゴス化して衰退してよいわけがない。世界に通用し、世界をリードする科学と技術を、これから「日本製」として開発・応用していかねばならない。
 そのための投資と教育と概念変更がいまほど求められている時はないと思う。

 それでは、「失われた20年」の中で、日本が、ガラパゴス化することなく、グローバル・スタンダードを乗り越えて、本当に世界に向けて伸びてきている分野はないのだろうか。
 私が、直接経験した例が一つある。
 日本人の若い女性である。
 外国の大学で教鞭をとっているとき、日本人の学生にほとんど会わなかったということは、前回の記事で書いた。その中で、例外があるとすれば、博士課程、あるいはそれを超えるような場所で生き生きと仕事をし、生活している日本の女性たちであった。
 オランダでも、ワシントンでも、ソウルでも、台湾でも、そういう女性たちと話す機会があった。
 この人たちすべてに、共通する点があった。
 一つは、自分の研究やその延長としての仕事に、強烈な、専門意識をもち、非常な努力をし、外国社会の中にしっかりと食い込み始めているということだった。
 もう一つは、その過程で、人生の伴侶たる魅力的な男性をしっかりつかまえ、単なる仕事人としてではなく、家庭人としての自分を、しばしば夫の全面的な理解と協力の下でつくりあげていることだった。
 2007年秋に、ジョージ・ワシントン大学で東京裁判についてのセミナーが開催された。主催者は、ワシントンにおける日本研究のリーダーの一人、マイク・モチズキ教授であった。私は、この会合に、昼食会のスピーカーとして参加した。
 この種の会議では、通常会議への基本的な参加までは、担当教授との連絡によって決められる。一度基本的な参加の態様が決まると、そのあとは事務的な部分を担当する人からの連絡が中心となる。それは、大学の事務職員、主催教授の秘書業務をしている人、博士課程を終えたポスト・ドクの学生、大学の課程を終了しこれからの方向性を考えているインターン生など、各大学によって、様々な人が担当していた。
 この東京裁判セミナーでは、日本名の女性(仮にAさんとしておこう)が、ある時期から連絡をとるようになった。
 Aさんから、きちんとした英文で、過不足の無い連絡がくるようになり、すべての事務的な問題をクリアして、2007年11月、ワシントンに到着し、さっそくジョージ・ワシントン大学に赴き、マイク・モチヅキ教授を訪れた。教授の部屋の前の作業室のようなところでPCに向かっている、日本人らしき女性がいた。
 「マイク・モチズキ先生のところにきました。トーゴーというものですが」と言うと、先方はすぐに日本語で
 「あー、東郷先生、私Aと申します」と自己紹介した。
 それから二日間の会議の最中、旅費の清算とか、謝金の支払いなどの話し合いをしながら、彼女がいまなにをしてジョージ・ワシントン大学で会議の準備をしているか、聞くことができた。
 ―――Aさんは、日本の大学を卒業したあと、一年発起してアメリカに来て、修士から博士の論文を書き上げたそうである。
 専門は、国際関係論で現下の世界の潮流になっている「構成主義」の研究をしたそうである。
 現在ポスト・ドクで、ジョージ・ワシントン大学で、モチズキ教授の補佐をしながら、次の研究と就職の準備を考えているそうである。
 アメリカで勉強中、インドネシアから留学していた現在の夫君としりあい、彼は経済畑の仕事をし、いま国際企業に就職し、インドネシアで働いているそうである。
 次のステップとしては、二人で日本で仕事をみつけ、日本で生活をすることを計画しているそうである。―――
 なんと伸びやかな活躍をしていることだろう。
 そういえば、このころ、日本の停滞という話をしていると、何人もの人から「だけど、女性は別じゃない」とか、
 「最近国連職員への日本人の採用率がものすごく増えたけど、名前を見てみると、全部女性だってね」、
 というような話を聞いた。
 すばらしいことだと思う。
 けれども、そこに、ひとつ、ぎょっとするようなことがある。
 Aさんに思わず言ってしまった。
 「世界に雄飛して、すごいですね。でも、どうして日本に帰られるのですか」
 Aさんは、少し寂しそうに微笑んで、答えた。
 「いま私たち女性が、元気がよい、グローバルに仕事をしているって、時々言われます。でも、私たちが、外に出ようって思うのは、一つには、日本社会がまだまだ男社会で、私たちがやりたいようなことをやらせてくれないからです。
 友達も家族も日本にいます。
 日本社会が、もう少しオープンになって、働く女性の力を引き出すようになれば、もっと多くの日本人女性は、日本で仕事をすると思いますよ」
 そうなのである。
 グローバル化の一つの姿は、境を設けることなく、世界にうってでることである。
 しかし、それは、様々なバリアによって、国内では活動しえない人たちを世界に追い出すための姿であってはならないのである。
 女性に社会を開放し、同時に、世界のすぐれた頭脳と、需給関係に合致した様々な労働力を日本に引き入れる、そのことと併行した対外進出を進める、それが真のグローバル化なのではないだろうか。

 日本社会のバリアをへらす。
 世界の一番優れた人とものを、日本に引き寄せる。
 世界の中から、いまの日本では需給関係で人手が集まらない職種に人を集め、世界に向けての日本の立ち位置を開放的で粘り強いものにする。
 グローバル化の中で、これに伍して生きていくには、それしか途はないのいではないかと思う。
 日本の開放という視点で考えると、十五年前、忘れられない苦い経験がある。
 1995年秋のことだったと思う。私は、モスクワ日本大使館の次席公使をしていた。
 私たちの家では、前任地のワシントンで働いていてもらった、レニータというフィリピン人のメイドがいた。明治の日本人がもっていたような、勤労意欲と禁欲精神を身につけた人で、ワシントンで連日やっていた自宅設宴のすべての仕事をやり、モスクワでも、料理の準備からロシア人のバトラー、メイドの指揮監督まで一言のロシア語の知識無しにやってのけるつわものだった。
 ワシントン、モスクワと、彼女無しには外交活動ができなかった逸材のレニータがある晩、怒りに震えて、必死に家内になにか訴えていた。
 なにか個人的なトラブルでもあったのかと思い、その晩、家内経由で聞いた話は、モスクワでのレニータの友人についての話だった。
 モスクワの外国人コミュニティーでは、フィリピン人のメイドを使っている人たちがけっこういる。彼女たちは、皆熱心なカトリック信者で、日曜日には教会にあつまったり、どこか集会をする場所を決めて語らいのひと時を過ごしたり、情報交換をよくし、総じて皆なかがよいのである。
 そういう同僚の中で、CNNのモスクワ支局長のところで働いている、年齢や仕事でレニータとよく似た経験を持つ人(Bさんとしておこう)がいた。
 CNNは、世界のCNNである。アメリカのどのテレビ局よりも、国際政治のホット・スポットへの食い込みはすごかった。ロシアのメディアも、エリツィン大統領の下で、言論弾圧や言論統制はしないという明快な方針があり、しかも、ちょうどロシア軍のチェチェン侵攻というテレビ取材には最もドラマティックな舞台の幕が切って落とされ、CNNはロシアの新進メディアと競争しながら、気鋭の報道を送り続けていた。
 CNN支局長は、女性であり、何人かの子供をつれ、前任地は東京だった。Bさんは、東京時代から子供たちの世話をしながら、多忙の支局長夫妻を助けて家事をきりまわし、なくてはならない人になっていた。
 そのBさんが、フィリィピンに一時帰国の帰り、まだ友人がたくさんいる日本で数日を過ごしてからモスクワにもどる計画をたてた。日本での滞在先は、新しい東京のCNN支局長であり、Bさんは、その支局長からの正規の招待状をもらい、日本滞在のビザ手続きを整えて、なつかしの日本への期待に胸を膨らませて、マニラからの帰途、成田空港に到着したわけである。
 ところがである。
 入管の検査で、なにかがひっかかったのである。
 Bさんからパスポートと関係書類の提示をうけた係官は、しばらく検討した結果、彼女を別室に誘導し、種々の質問をし始めたそうである。質問の矛先は、彼女が不法滞在を図るために虚偽の申請をしたのではないかという点にあるらしかった。
 事態の意外な展開に驚愕したBさんは、自分の身分を説明し、モスクワのCNN支局長の保証状を見せ、なによりも、東京のCNNオフィスに連絡をとり、招待状どおりの人間であることを確認してほしいと懇願したが、雲行きはますますおかしくなり、外部との連絡は一切許されなかった。
 結局Bさんは、一本の電話を外部にかけることも許されず、帰りの切符を活用し至近のアエロフロート機でモスクワに送り返されてきたのである。
 あまりのことに、Bさんは激怒し、CNN支局長も唖然とし、Bさんの話を聞いたレニータは、根が直情傾向的なところもあるので、Bさんを上回って、怒り心頭に発していた。
 私にとってもこの事件はショックであった。話に聞く限り、Bさんが入国のためにとった準備は、過不足のないもののようであった。それをして、何故入国を認めなかったのか。しかも今日本の当局が相手にしてしまったのは、世界のメディアの中核にいる、東京とモスクワのCNNの両支局長だった。日本についてマイナス・イメージを作り出すには最悪の人たちであった。
 熟慮の末私は、Bさんに対する入国拒否の件について、本省に公電をうった。入管当局に照会し、場合によっては日本の国際的信用を損ないかねない事件の真相を解明してほしいと要請したのである。
 予想されたことではあったが、回答は、法務当局に照会したが、「適切に処理されたものであり、それ以上いかなる付け加える点もない」というものであった。
 「疑わしき外国人は入れない」。はっきりした日本の国家意思があり、出入国管理という外務省も関与する官僚組織の判断によって、呵責なくそれが実施されたのだと思う。
 世界の中で、日本がどう生きていくかについて、時代の条件に適合した検討が行われているという形跡はみられなかった。

 それから10年以上の歳月が流れた。
 少子高齢化が劇的に進行する日本で、外国人労働者の導入を真剣に考えなくてはいけないのではないかという声は、日本社会の一角で間違いなく強まってきたように思える。
 その一つの表れが、インドネシアとフィリピンから看護師・介護福祉士を招き入れ、人手不足が懸念される日本の介護の一環をになってもらおうという動きだった。両方とも、東アジアにおける貿易・投資・経済協力の拡大をめざす、経済連携協定締結の流れの中で行われた。
 インドネシアが一歩先行、2007年8月に経済連携協定を署名、2008年7月にこの協定が発効、その直後の同年8月に208人の看護師・介護福祉士が研修のために、日本に到着した。
 その次がフィリピンだった。2006年9月に経済連携協定を署名し、発行は2008年12月、最初の候補者273人が日本に到着したのは、2009年5月だった。
 両国とも、2年間で最大1000人の看護師・介護福祉士の育成をめざすという。しかし、広く報ぜられている採用条件を見ると、ぎょっとすることがある。
 とてつもなく、ハードルが高いようにみえるのである。
 どの計画でも、最初に現地と日本で半年ていどの語学教育をうけ、日本の実際の介護施設で仕事をしながら、語学の勉強と実地の学習をつみかさね、看護師は3年、介護福祉士は4年の間に、日本人と同じ条件で、日本語による国家試験を通らねばならない。しかも、失敗は許されない。滞在期間中に試験に通らなかったら、滞在の権利は失われ、帰国しなければならない。
 高校または大学で、日本語をしっかり勉強した人なら、必ずしもハードルは高くないかもしれない。しかし、日本語の素養がない人が、三年から四年で、この種の国家試験を突破できるのだろうか。直感的には、ほぼ不可能なのではないか。
 案の定、3月26日厚生労働省は、二人のインドネシア人と一人のフィリピン人の計三名が初合格したと発表したが、これは、254名の受験者のなかの1%にすぎなかった。「日本人を含めた全体の合格者は4万7340人で合格率は90%だった」(朝日新聞、2010年3月27日)。
 新しい企画を国をあげて開始したのは、時代の潮流に合致した正しい方向だと思う。けれども、その最初の第一歩を見てみると、10年前に私が感じた、「よそもの入るべからず」という国家意思が、まだしっかりと根を張っているように見えるのである。

 実際のところ、いかなる分野でも、外国人に国を開くということは、大変難しいことである。
 痛切の思いなくしてはフォローできないニュースは、他にもある。
日本語を勉強し、親戚一同の期待をうけて中国の故郷から日本に留学、しかし志望の大学入学に失敗、持ってきた資金は底をついた。中国人が集うネットカフェでつかのまの憩いを感じているうちに、そこの仲間と犯罪に手をそめ、2003年調布市で一家4人殺害事件を起こした。一緒に犯行に加わった一人は、中国で逮捕され2005年に死刑を執行され、本人も一審、二審で死刑の判決をうけ、いま福岡刑務所で最高裁の判決を待っている(朝日新聞、2010年1月31日「在日華人」)。―――日本政府も民間の学校も、いま中国人留学生を必死に増やそうとしているように見える。けれども、十分な体制がないままに、日本社会の中で転落していく外国人留学生にどう対処するのか。
 全く別の、ぎょっとするような報道もある。
 中国の巨大資本が日本の土地を買占め、そういう土地が安全保障や国防上の要諦をしめていたら?すでに、長崎県の五島列島沖にある姫島という無人島が売買交渉の対象になり、島の真向かいには航空自衛隊のレーダー基地があることから、国防上の問題点も指摘されたというではないか(SAPIO,2010/3/10,22ページ)。―――この取引は日本のマスコミの関心の増大や、日本側関係企業の内紛によって、取引は進んではいないらしい。けれども、外国からの土地や資産の買占めにどう対処するのか、複合的な視点にたった準備は皆無ではないのか。
 たまたま中国に関係のある例を二つあげてみた。しかし、中国に限らない。外国に日本を開く。―――言うは易く行なうは難しい問題がたくさんあるにちがいない。
 けれども、それでは、国を閉ざし、外国から遮断された日本をつくるのが解決策なのだろうか。
 どうしてもそうは思えないのである。
 これからの世界、日本の外に、日本一国をしては到底及びもつかない富と力と勢いがある。そのグローバルな勢いを、日本の中に引き入れ、日本において活用し、日本のエネルギーに変えていくことが、これからの最善の方策。
 問題は、外国の富と力を入れること自体にあるのではない。
 その入れ方にあるのである。
 では、その入れ方をどうするのか。ルールをつくればよいと言っても、それでは、そのルールをつくろうとする時に、何を基準につくればよいのか。
いまの日本人の生活に迷惑が及ばないようにすればよいといっても、それだけで、問題の解決に至るのだろうか。
 まずもって、日本人の生活の何を守らねばならないのか。
 生活習慣も考え方も食事の嗜好も皆違う外国人を隣の家に呼び寄せる。場合によっては、自分の家に呼び寄せる。彼らの持っている潜在力を引き出す。彼らのもっているエネルギーを借りて、これからの日本をつくる。
 そうするためには、日本人自身が、これからどういう生活をし、どういう国をつくろうとしているかについての、はっきりしたビジョンを持っていることが必要ではないか。
 そのビジョンにしたがって、日本人自身が、自分の責任でなすべきところはなす。
 そうであってこそ、そのビジョン実現のパートナーとしての外国人を呼び寄せて、調和のある社会をつくっていける。あらゆる側面で彼らの力を借りる。看護師から物理学者、あらゆる局面の人たちの力を全面的に引き出す。借りるに当たっては、もちろん、十分の待遇をする。
 「日本に来てよかった。日本に行きたい。一生に一度でよいから、日本に行ってみたい。一生に一度でよいから、日本で仕事をしてみたい。日本に住んでみたい」
 外国人がそう思えるような、そういう日本をつくりあげる。
 いまの日本は、そういう國だろうか。
 日本には限りない素晴らしい点がたくさんある。
 けれども、世界中の人たちが「一生に一回でよいから日本に住んでみたい」というような日本を、私たちはつくってきたであろうか。
 私には、そうは思えない。
 足りないものがある。
 何が足りないのか。足りないものを足すにはどうしたらよいのか。
 それが、これからの日本の国家ビジョンの作成という課題だと思う。

(了)