現代の言葉第8回 観光立国

▼バックナンバー 一覧 2012 年 10 月 4 日 東郷 和彦

 日本のこれからの発展のために、観光をもっと重視すべきだという意見が聞かれるようになって久しい。自民党下でも、2004年に景観法が創られ、 08年国土交通省の中に観光庁が設置された。民主党下でも、10年6月の新成長戦略で「観光立国」は、「地域活性化戦略」と組みあわさった形で、七つの成 長分野の一つとして顕示された。

 これらの動きには一定の意味があると思うし、関係者の努力も多としたい。けれども、「観光」ということが今後の日本の国家建設にもっている、文明論的な意義に照らして考えると、官民ともに、問題の本質への理解が十分ではないと思う。

「観光」とは、「光」を「観る」ことである。

「光」 とは何か。世界遺産か、神社仏閣か、息をのむ富士山の姿か。それもあろう。しかし、遠い距離と時間をかけて外国から見に来たいと思うのは、いわば、そうい う、「額縁」に入った風景ではない。おいしい食事と買い物と快適なホテルか。それもあろう。しかし、世界のトップの観光客が、本当にふれてみたい、できれ ばそこに住んでみたいと思わせる一番の「光」は、そういうお金をだせば得られる快適さに起因するものではない。

「光」とは、自然と伝統と技術と人々の心によって人々がつくりだす、世界中にそこにしかない生活空間自体なのである。

  パリに世界の人々がかくもたくさん引き寄せられるのは、そこにある歴史的建造物と博物館の見事さによるのではない。それも、大きな魅力である。しかし、パ リの本当の魅力は、大通りから一歩入ったところに広がる路地の上に広がる屋根の美しさと空の透明感であり、気なしに入ったカフェから眺める街路樹の言葉に つくせない佇まいなのだ。パリに流れる生活空間自体なのだ。ローマでも、フィレンツエでも、イギリスやフランスの田園でも、魅力の根源は、その地域にしか ない生活空間自体なのだ。

 そういう視点で考えるなら、我が日本のどこに、そういう、ただそこで生活してみたいと思わせるような、自然と伝 統と新しい技術と街並みが調和する生活空間をもった場所があるか。残念ながら、戦後の日本の発展の中で、日本はそういう文明論的な文化と風景の創出に、到 達しなかった。

 日本の「観光立国」の最大の課題は、日本を、そういう「生活空間」をもった国に作りかえることにある。生活空間自体から発する本当の磁力を創り出すことは、今後の日本の文明論的な国家目標になる。

 たぶん気の遠くなるような課題であろう。

 しかし、このことは、すばらしく「楽しい」課題ではないだろうか?

 一億二千万が皆「アマチュア建築家とランドスケープ・デザイナー」になる。

 今自分の住んでいるところから、どうやって、新しい日本にふさわしい生活空間を作るかを考える。

 全員で力を合わせる。自分の住んでいるところから始める。少しばかり、自分の趣味を我慢して、新しい公共をみんなで考える。

 そういう課題を本当に実現しようとするなら、日本人が元気をなくしている暇はないのではなかろうか。
(2010年9月13日、『京都新聞夕刊』掲載)

 

<現在からの視座>

 2012年の夏、ヨーロッパで仕事があり、久しぶりに、スイスとパリを訪れた。
スイスはジュネーブからレマン湖ぞいに北上し、湖の西岸にきりたつ山上にできた20世紀初めからの豪華リゾートホテル「CAUX城」でのセミナーに出席した。ホテルからレマン湖を見渡す見晴らしは、圧巻の一言につきた。

 アルプスの鋭鋒を遠くにのぞみ、手前の山並みに入る細い平野の中に、細く小さく町並みが溶け込み、夜はそれがキラキラと星のように輝いていた。そこには、類まれな自然の中に溶け込んだ、おだやかな生活の香りがあった。

 パリは、更に圧巻だった。セーヌのほとりも、サンジェルマンの教会も、カルチエラタンも、ホテルの横に広がっていたルクセンブルグ公園も、すべてが美術館であった。

 同時に、その何処を歩いていても、それは、生活の場所であり、パリに住む人にとっても、私のように束の間にそこを訪れる人にとっても、同じように開かれた懐かしい空間だった。

 丁度二年前に書いたこの文章に、一言も付け加えるものがない。
(2012年10月2日)