メディアと知識人第二回

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2007年3月11日 「フォーラム神保町」佐藤優×和田春樹セミナー

慰安婦問題と戦後50年

和田春樹

これから慰安婦問題についてお話いたします。慰安婦問題というのは歴史問題です。私は相当早い時期から、日本の植民地支配というものが朝鮮人を苦しめていたということを意識してきました。日本が過去に対して「済まない」「申し訳ない」という気持ちを持つということは、日本と朝鮮、日本と韓国が関係を持つときの前提にならなければならないという気持ちを、高校一年のころから持っていました。日韓会談が久保田代表の発言で中断するときです。
 しかし運動は何もしませんでした。1965年日韓条約が結ばれた頃は、歴史家の団体の役員をしていて、そこで多少運動しました。一人の知識人として運動をするようになったのは、1973年金大中氏が拉致されたときからです。1974年からは「日本の対韓政策をただし、韓国民主化闘争に連帯する日本連絡会議」、略して日韓連帯連絡会議の事務局長になり、78年まで市民運動をやりました。78年から一年間ソ連に行って在外研究をしたので、帰ってきてから、80年には「金大中氏を殺すな」という運動を一生懸命にやりました。この間は、自分のやっている運動は、日本と朝鮮の関係を人間的なものにするための新しいチャンス、第三のチャンスを生かそうとする運動だと考えていました。
 それで80年代に入って、北朝鮮の問題が出てきたので、問題を広げて考えるようになり、日本の過去の植民地支配の問題をあらためて重視するようになったのです。
 1982年になって、中国と韓国から「日本の歴史教科書が歪曲されている」という批判が起こりました。そのときに日本政府は、こう申しました。われわれの態度は何も変わっていない。1972年に中国と国交を樹立したときの日中共同声明では、「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と述べている。その精神はちっとも変わっていない。教科書についてもその精神で考えている。これはいいですよ。
 だが、韓国については、1965年日韓条約を結んだときの日韓共同コミュニケでも過去の関係は遺憾であるとして、深く反省している、その精神は変わっていないと言ったのです。こちらは通らないのです。僕が見るところ、その日韓共同コミュニケは、「過去のある時期に不幸な関係があった」という言葉があり、「このような過去の関係は遺憾であって、深く反省している」という言葉が含まれているにすぎません。不幸な過去の関係とは何なのか、まったく説明されていないのです。そして、「遺憾」というのは、「残念だ」という意味で、謝罪的な意味はまったく含んでいないのです。ですから日本は韓国に対して植民地支配をしたことについて何の謝罪もしていないというのです。そこで、やはりこの際韓国に対しても、はっきりと、日韓併合は侵略であった、日本の統治は過酷な帝国主義的支配であったことを認めて、謝罪するという政府宣言を出すべきだという知識人の声明を青地晨、中野好夫、鶴見俊輔、日高六郎氏ら7~8人の人と一緒に出しました。
 その次には1984年に全斗煥(チョン・ドファン)大統領が訪日したときに、クリスチャンと一緒に同じ主旨の声明を出したのですが、その中では、はっきりと「国会決議をすべきだ」と主張しました。決議をするとどういう意味があるかというと、まずその決議の精神で1965年に結んだ日韓条約の解釈を変更することが可能になるということです。
 これはちょっと説明が厄介ですが、日韓条約は英語の正文があって、日本語と韓国語でそれぞれの解釈に立って訳文をつけているのです。第二条が韓国併合条約の無効化を規定しています。その時点が問題になりました。韓国の方は最初から条約は無効だ、日本の支配は不当であったという解釈です。日本は条約は有効であった、日本の支配は合法的であった、無効になったのは、韓国が建国した1948年のことであるという解釈です。韓国は現在形で「無効である」という正文にしたかった。日本側は「無効になった」と現在完了形にしたかったのです。それで妥協して、「already」という副詞を入れることになった。それで、日本語訳は「もはや無効である」となっているのです。韓国語訳では、「すでに無効である」となっています。
 これはそれぞれの国の国会で説明され、承認されているのです。こういう手品みたいなことをやってごまかしたわけです。この手品みたいなことで、自分たちの解釈を通すという解決を獲得するのに、韓国人は15年間闘ったのです。日本側は植民地支配を反省することは一切認めなかったのです。それで1984年の私の考えでは、国会で植民地支配を反省し、謝罪する決議を出せば、ここは日韓条約の韓国側解釈を採用したらいいじゃないかということでした。そうしないと歴史認識が統一されませんから。私はそれが一つ。
 もう一つは、国会で決議したら、その国会の決議をもって北朝鮮のドアを叩くということが可能になるということです。当時は「二つの朝鮮」論反対という立場を北朝鮮がとっていました。つまりどっちかしかない。韓国を取るか北朝鮮を取るかだというわけです。実は1972年の日中国交樹立は、台湾を捨てて、北京を取ったのです。中国も「二つの中国」論反対だったんです。北京と外交関係を結ぶために日本は台湾と断交したわけです。北朝鮮はそれと同じことを要求していたわけです。韓国と国交をもっている日本にとって、そんなことができるはずはありません。だから、北朝鮮とは話ができない状態が続いていました。
 だけど、「朝鮮植民地支配を反省する。お詫びしたいのだ」と言ってドアを叩けば、北朝鮮が問答無用だ、「来るな」とドアを閉めたままにするということはできないはずだと私は考えました。そういうふうにドアを叩くべきだというのが、このときの私たちの提言です。この提言は当時各政党に出しました。社会党は「支持する」と言ってきましたが、当時の石橋委員長は「これが国会で通るのは夢物語だ」と言っていました。
 それから4年後の1988年、社会党委員長は土井たか子さんでした。土井さんが二つの国家の建国40周年にあたって声明を出しました。1948年の8月にまず大韓民国が、それから9月に朝鮮民主主義人民共和国ができたのです。それから40年経ったということで土井さんが声明を出すことになりました。これは岩波書店の「世界」編集長だった安江良介さんの助言に拠ったものでしょう。声明も安江さんが書きました。
 安江さんは「朝鮮植民地支配反省の国会決議が必要だというあなた方の主張を土井さんの声明に入れておいたよ」と私に言いました。当時韓国のある新聞は、ごく少数の知識人の声が日本の代表的な政治家の声になったのは驚きだと取り上げてくれました。そのころは私は安江さんと組んで、北朝鮮と日本の関係を正常化する運動を考えていました。北朝鮮と関係を開くには、植民地支配の反省ということでドアをたたくのが一番いいと私は考えていましたが、安江さんもそういう考えでした。
 1989年に昭和天皇が亡くなられ、私は非常にショックを受けました。昭和天皇の時代にあの戦争もあり、植民地支配もあり、朝鮮人との関係でもいろいろなことがあったにもかかわらず、何も清算されずに昭和天皇が去ったわけです。とすれば、その時代のことはわれわれが清算しなければダメだと思いました。そこで朝鮮植民地支配謝罪国会決議を求める国民署名運動というものを、1989年3月1日、昭和天皇が死んでから1カ月ちょっとで立ち上げたわけです。
 一方、安江さんは社会党の田邊誠副委員長と話して、説得に成功しました。そして竹下登総理大臣が応じて、北朝鮮のドアを叩こう、それには植民地支配で被害を与えたことについて反省すると表明しようということになりました。竹下さんの手紙をもって金丸・田邊両氏が訪朝したのは1990年のことです。金丸さんは自民党の副総裁だったのですが、「植民地支配について申し訳なかった」と平壌で謝罪したんですね。そうしたら、金日成が「わかった。それでは国交交渉に入ろう」となったわけです。もちろんソ連が韓国と国交を結ぶ直前でしたから、北朝鮮も必死だったということもありますね。それも影響していますけれど、しかしやっぱり表向きに言えば、日本が「過去を反省する」「植民地支配の歴史を反省する」と言ったので、北も「わかった」と言って、国交樹立に向かったということです。少数の知識人の良心的な声にすぎないと考えられた主張が日本の外交の舞台をつくることになったのです。
 しかしこれは結局うまくいきませんでした。それにはいろいろな条件が絡みますが、それはひとまず置きましょう。1991年になりましたら、韓国で金学順(キム・ハクスン)さんという人が登場してきました。金学順さんは「私は慰安婦だった」と言って登場してきたのです。私たちがやってきた「植民地支配反省の国会決議を求める運動」をしている者は、慰安婦の存在を認識していました。1989年3月1日に署名運動を開始したときの集会の決議文には、「娘たちは慰安婦として戦場へ送った」と書かれています。慰安婦が植民地支配のもとでもっともむごい苦しみを受けた存在だということを忘れることはなかったんですね。しかし現実に慰安婦だった人が前に出てきて「私が慰安婦だった。私に対する謝罪と補償を要求する」と言ってくるとはまったく思っていなかったんです。だからわれわれは反省、謝罪ということばかり言っていましたが、被害者に対する補償ということはまったく考えていなかったのです。
 そういうことになって。90年代に入ると、単に謝罪だけではなくて補償ということが問題になりました。一方、1993年には、慰安婦問題について、自民党政府が河野官房長官談話を出しました。これは日本政府としては本当に珍しいことだったのです。宮澤喜一首相のリーダーシップがあったのだろうと思います。慰安婦の問題があると韓国から言われたら、慰安婦の問題について調査しようと決定して、国内及び外国で二度にわたって調査したのです。その上で被害者16人からの聞き取りを行なった。そのほかに慰安所を設営した経営者や軍人などからも聞き取りを行なった。そして、それを総括して、慰安婦問題はこういうふうに考えると結論を出したのです。軍が直接関与して、慰安所の開設や人員の輸送をやってきた、甘言をもって欺いたり、意に反して連れてきたということも多くあったと認め、謝罪したのです。
 率直に言うと、日本政府というものは、不人情なものだったのですよ。自由民主党の独裁の最後の政府となった宮沢内閣がそれまでとはまったく違う行動をとったのです。私は河野談話は非常に立派な声明だと思います。やり方も立派だと思いますよ。それで声明を出したらすぐ宮澤内閣がつぶれて、5日後に細川内閣になったのです。だから細川首相も黙っちゃおれませんよ。首相就任の会見でいきなり「あの戦争は間違っていた」と言ったわけですよ。そして「侵略戦争だ」とも言った。韓国に行って、「朝鮮の植民地支配も反省する」とも言ったし「創氏改名もいけなかった」と言った。これは個人プレイ的ですが、宮澤内閣のレベルが高かったので、次の非自民連立政権の首相もがんばったのです。
 そうしたらどうなったかというと、従来大手を振っていた保守の勢力が猛然と立ち上がって、「こんなことは許されない。英霊に泥を塗るのか」と言い出したのです。細川首相攻撃の国民的署名運動が始まったのです。それで細川内閣は結局何もできずに終わりました。結局自民党がわずか1年ちょっとで政権に戻るのです。しかし、1994年にできたのは村山内閣、自社さ連立内閣でした。社会党と新党さきがけは戦後50年の国会決議をやるという共同政策を決めていたのですが、自民党がそれをまる呑みしましたので、戦後50年の国会決議をやることになりました。それから、このさい、未解決の問題を解決しようということになり、その筆頭に慰安婦問題があがりました。しかし雲行きも怪しかった。村山内閣と言ったって、総理大臣と官房長官が社会党なだけで、本体は自由民主党ですからね。自由民主党の中には、そういうことはいけないという勢力があったんですよ。それでどうなるだろうかということだったんですけど、村山内閣ができましてから2カ月か3カ月ぐらい後でしたかね。慰安婦問題については、国民から募金して、基金を作ってお見舞い金を出すという方針だということが報道されました。朝日新聞一面のスクープです(1994年8月19日付)。
 僕らはそのとき、村山内閣ができたので、国会決議をやってほしいということでそちらに集中していたんですが、すでに私はもうとにかく「この内閣でできなければ何もできないだろう」と思っていました。戦争が終わって50年目にできた内閣ですから、この内閣がやれるということがマキシマムなのだろう。この内閣が何かすると言ったら、それに賛成した上で議論して、さらに前へ前進してもらうというようにしなければ無理だろう。そう思っていました。というのも、決議がなかなか難航しそうだったからです。
 それで私は、朝日新聞にスクープが出るとき、朝日の記者に談話をとられました。「基本的にこの案に賛成する」と言いました。まず国民がお金を出すのはいいじゃないか。僕の考えは、まず国民がお金を出して、その後に政府に出してもらおうというものです。ポンプの呼び水というのがある。ポンプから水を出そうと思ったら、水を少し入れなければ出てこないというのが私の考えでした。1994年の12月になって、村山内閣が作った戦後50年問題の3党プロジェクトのヒヤリングに呼ばれました。3党で戦後50年の諸問題を解決するために議論しているわけです。そこで慰安婦問題を議論している小委員会が何人かの人を呼んでヒアリングをするというのです。私が言ったことは、「基金を作るのは結構だ。しかし基金を作るのを国家の法律でやってもらいたい。つまり議会を通してやってもらいたい。そしてこの基金に政府のお金と国民のお金と両方を入れてもらいたい」ということです。その意見は通りそうにないと思っていましたし、もちろん通らないわけですよ。
 そのころにできましたのが、奥野誠亮氏が会長になっている終戦50周年国会議員連盟です。この議員連盟は、この前の戦争は自存自衛のための戦争、アジア解放の戦争だった、したがっていかなる謝罪も反省も必要ない、そういう文言を入れた決議はまかりならんという主張に立っていました。奥野誠亮氏が会長で、幹事長が村上正邦氏、事務局長が板垣正氏、そして事務局次長が、われらの総理大臣安倍晋三氏です。若い人ですから、彼の名を会員リストで見たときには、「ああ、この人はお父さんの果たせなかった夢である総理大臣になる気がないんだなあ」と思いましたね。というのも、こんな議連の幹部になった人は総理大臣にはなれないだろうと、そのときの私は思っていたんです。
 そういう議連ができて、またたく間のうちに拡大しました。最終的には95年の5月には、自由民主党の国会議員の3分の2がこれに入ってしまいました。自民党の3分の2がその議連に入っていれば、国会決議なんて出るはずがないわけです。私たちは95年の3月に「世界」(95年3月号)に論文を出しまして、国会決議の内容について提案しました。私たちが考えた国会決議は、国会議員の最大公約数の意見、国民のコンセンサスが反映されたものであるはずです。だから生ぬるいとか不十分だとかいうことがあってもいい。最低必要なのは何だと言ったら、朝鮮に対する植民地支配を反省する。それから中国に対する侵略戦争を反省する。これが最低必要だ。太平洋戦争、大東亜戦争については侵略戦争だと言わなくてもいい。しかしあの戦争が結果としてアジアの人々に被害をもたらしたことについては反省するということがあれば、それでいい。それからあの戦争で死んだすべての人、日本の兵士、日本の銃後の国民もアジアの人々も、全員の死を弔う。この人々の死が我々の平和を支えていると認める。日本国憲法に立って平和のために努力する。こういう決議がいい。決議は橋本龍太郎厚生大臣も賛成するものでなければならない。こう書いたわけです。
 そうしたら、幾人かの人が現われまして、「何を言うか」、「知識人たるものがそういう政治家のやるようなことをやっていいのか」と言うわけです。「どういう内容なら決議案がまとまるかというのは、政治家に任せるべきじゃないか」と言うわけです。しかし国民のコンセンサスなのだから、政治家だけの問題じゃないのです。国会決議というのは、国民の総意を表わすものとしてやらなければ意味がないのです。国民が考えて意見を言うのは当然だと私は思いました。でもそういう批判が出ましたので、「ああ、ずいぶん考えが違うなあ」と思いましたね。知識人というものは、政府批判の立場に立っていなければダメだ、政府に関係をもてば堕落するという考え方です。中には「国会決議についてなど考える必要はない。民間で国民の宣言を出したらいいじゃないか」という意見もありました。自分たちだけで宣言を出すんだったら、ずっとやっているんだから、それはやればいいことです。
 それで、私たちが最初につくった国会決議の案文には慰安婦問題も入れました。それを、結局社会党に持っていきました。社会党が三党の話し合いに最初に出した決議案は、ほとんど私たちが出した決議案と同じものでした。ところが自由民主党はもちろん受け付けないのです。すぐダメだということになる。それからがらりとかわった第二次案でもダメだということになって、第三次案になって通った決議文というのが、「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いを致し、我が国が過去に行なったこうした行為や、他国民、特にアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」という非常にわかりづらいものです。
 世界中の国が侵略や植民地支配をやっていたし、我が国もこうした行為をやったというわけですね。それで他国民、アジアの諸国民に苦痛を与えたことを反省する。そうなっているわけです。自分が反省するのに、他人もやっていたといわなければならないというのは、情けない次第ですが、とにかく植民地支配と侵略的行為をしたと認め、反省しているのです。しかしこれは衆議院で単純多数で可決されたわけです。社会党と自由民主党とさきがけで通したんですね。共産党は反対票を投じました。奥野議連の幹部たちはみな欠席しました。新進党は、修正案が受け入れられないということで欠席しました。参議院は、村上氏や板垣氏ががんばって、かかりませんでした。だからさんざんの結果であったわけですが、それでも通ったということは前進だというのが私の評価でした。惨敗というのもあるが、これは惨勝だと書いて、「世界」に出したら、「これは載せられない」ということではねられてしまいました(笑)。
 それで間の悪いことですが、そのような評判の悪い国会決議の5日後に、アジア女性基金の設立が発表になったわけです(95年6月14日)。国会決議はひどく印象が悪かった。日本の新聞も、こんなものはダメだというわけですから、アジアの新聞はもちろんみんなダメだと言っています。そんな中でアジア女性基金の発表になりました。アジア女性基金のコンセプトというものがどんなものかというと、政府がアジア女性基金という財団法人を作る。そして国民に募金を呼びかけて、国民の拠金から慰安婦とされた人たちに対して償い金を出す。そしてその際、政府として何らかの謝罪の意を表明する。一方政府はこの慰安婦の人たちのために、医療福祉支援活動を行なう団体を援助する。アジア女性基金を通じて援助する。こういう内容です。
 呼びかけ人20人が発表になりました。私もその一人です。当時は引き受けるか引き受けないかでものすごい争いがありました。名前が出ると、電話が殺到して、「引き受けるな!」と言うわけです。宮城まり子さんはいったん引き受けましたが、すごい圧力が女性団体からかかって、宮城さんはとうとう「辞退させてください」と言って辞退されました。さすがに僕のところには言って来ませんでしたけれども。もっとも僕と一緒に運動していた人たちは、みな反対でした。
 政府の案は確かに曖昧なんですよ。しかし私の考えは、戦後50年経って村山内閣でこれだけのものしか出せないとすれば、この先これ以上のものが出る可能性はまったくない。だったらこれが我々のレベルであって、これが我々の到達した水準であれば、これに対して責任を取らなければならない。政府の呼びかけを受けたら、そこに入っていって、その中で改善できるように努力する。そしてこれ以上は後退しないようにする。こういう責任があるんじゃないか。そういうふうに思いました。
 そう思ったので、私のところに依頼に来た政府のお役人に言ったのは、「私には条件がある。一つは、スタートするときに新聞に全面広告を出してもらいたい。アジア女性基金をやり、政府はこれを支援してやっていくのだという政府の決意を示してほしい」と言ったのです。そうしたら、「それはできる」というのです。実際そうなりました。1995年の8月15日、戦後50年のその日に、村山談話が昼の12時ころ出るんです。国会決議よりはるかにはっきりした文章の総理談話が出るんです。その朝に朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日経、産経の各紙に全面広告が出たのです。産経新聞も「私のところにも出してくれ」と言ってきたそうです。5大新聞にこれが載ったんです。それで総額1億3000万円かかったんですよ。それだけかかると言われて僕らもひるみましたが、僕らは全面広告がいいと主張しました。政府は不退転の決意を日本国民と全世界に示さなければならないとということです。アジア女性基金の呼びかけ文と村山総理のご挨拶の文章、それに村山さんの写真と村山さんのサインを載せたんです。逃げられない証拠ですよ(笑)。総理の写真とサインまで出しているんですから。被害者が名乗り出てくる限り償い金を出し続ける。国民からの拠金が集まらなければ政府がカバーするのは当然だ。そういう意思を表示するためにやるのだと了解して、あの広告を出し、基金はスタートしたわけです。
 基金の達成の中で一番大きいのは、総理大臣のお詫びの手紙です。初めは「国としての反省とお詫びの気持ちを表明する」とだけ言って、総理大臣のお詫びの手紙とは決まっていなかったのです。私たちは、一人ひとりの慰安婦に対して総理大臣が自署してお詫びの手紙を出してもらいたいと主張しました。三木睦子さんは、それが出そうにないというので、辞表を提出して橋本首相に圧力をかけました。橋本さんは遺族会の会長で、難しいところに立たされていたんですよ。私たちも、ただの呼びかけ人ですが、その手紙が出なければ全員が辞表を出すつもりでした。総理大臣のお詫びの手紙が出るか出ないかが、我々の条件でした。それで橋本さんはついに決断して、これを書きました。これは立派な決断だったと思います。手紙はだいたい河野談話に沿って書かれました。もちろん文章についても「こういう内容にしてくれ」と私たちは提案したのですが、政府のほうで原案をお書きになったわけです。
 それから、政府から出る医療福祉支援というものがありました。被害者のために医療福祉支援活動をする団体に援助するということになっていましたが、そうではなくて、医療福祉支援というのは被害者個人に対してやってほしいと修正を求める運動を基金の中でやりました。それで、その通りになりました。これも基金側でがんばったことです。ですから韓国で申しますと、最終的には国民の拠金から200万円の償い金が出たのですが、政府資金から出る医療福祉支援は300万円です。政府のほうがより多く出していることになります。フィリピンでは、国民の拠金から200万円、政府の医療福祉支援が120万円です。これは生活水準が違うということでそうなっています。オランダでは国民の拠金からの償い金はなく、すべて政府からの医療福祉支援300万円です。オランダは被害者が79人、フィリピン、韓国、台湾合わせて385人、それだけの人が受け取ったわけで、成果は最初思ったよりは多かったとも言えるし、やっぱりまだ少ないとも言えます。基金はそういう結果になり、解散することになりました(2007年3月31日)。
 広告には「基金は政府と国民の協力で」というスローガンを入れました。これは初めてのケースだったと思います。政府と民間が協力して、会議には基金の呼びかけ人や理事のほかに、必ず政府の役人も出ています。基金でこういう文章を出していますが、こういう文章は政府が全部一語一語点検しますから、私が原案を書いたパンフレットも出るまでには1年半くらいもかかりました。そういうふうにして、政府と国民が協力して12年間やってきたわけです。現在日本政府を批判しているアメリカ議会の決議においても、アジア女性基金は評価されているのです。これは、日本にとっては貴重な資産だと思います。ある意味では、こういうふうにやってきたことは、安倍首相を助けていると私は思います。そういうふうにやってまいりました。あといろいろな問題がありますが、省略しましょう。以上です。