現代政治の深層を読む欧州議会選挙と左派の混迷
前回に続いて、ヨーロッパからのレポートをお送りする。
6月14日、イギリスを除くEU各国で、欧州議会選挙が行われた。その結果は、中道右派の堅調、左派の不振、極右の台頭というものであった。特に、労働党政権が満12年を超えたイギリスでの左派(今の労働党が左派と言えればの話だが)の没落は激しかった。得票率はわずか15%で、EUからの脱退を唱える泡沫政党とも言うべきイギリス独立党(UKIP)にさえ抜かれて、第3位に転落した。また、イギリスではネオファシズムの政党と言われるイギリス国民党(BNP)が議席を獲得して、大きな衝撃を与えた。大陸諸国でも、押し並べて左派は前回よりも得票を減らした。
昨年秋の世界金融危機以来、新自由主義の時代は終わったと言われてきた。しかし、そのことが、本来市場経済のひずみを批判してきた左派への追い風になっていない。さらには、移民排斥や保護主義を唱える極右政党が人々の不満や不安の受け皿になったという現実をどう見るべきか。今回の欧州議会の選挙は、投票率も主要国では50%以下で、盛り上がりを欠いたが、現在の民主政治の動向を考えるうえでは、重要なものである。
英紙ガーディアンは、6月9日付の紙面で早速、「ファシズムの再来か」という特集を組み、著名な歴史家の寄稿、インタビューを並べていた。世界的な恐慌の到来と、人種主義的な極右政党の広がりを重ねれば、現在と1930年代が似たような状況に見えるというのも、決して杞憂ではない。しかし、歴史家たちはおおむねそこまで悲観的ではなかった。ヒトラーとナチズムの台頭は、第1次世界大戦における巨大な犠牲とドイツの疲弊なしにはあり得なかった。深刻な不況が直ちにファシズムの台頭を生むわけではない、というのが大方の意見である。
パリやロンドンを歩いていると、英仏両国がもはや多民族国家であることは自明である。今更人種主義を唱えても、1930年代のような大規模な大衆動員は不可能であろう。また、様々な民主的政治制度の定着の度合いも、あの時代と今では全く異なっている。今回台頭した極右勢力がさらに増長し、政権を狙うという事態は考えにくい。イギリスにおけるBNPの議席獲得も、1980年代フランスにおける国民戦線(FN)の台頭と似たようなものだという見方が的確なように思える。
問題は、これらの極右政党を不満や不安の受け皿にさせた既成政党の混迷、特に左派の腐朽、混迷にある。ガーディアンの特集の中で、エリク・ホブズボームは、今回の極右の進出は、極右の問題ではなく、社会民主主義の衰弱であると看破していた。
私自身は、1997年、イギリスでトニー・ブレア率いる労働党が政権を奪還して以来、ヨーロッパの中道左派政治こそグローバル化時代における社会民主主義再生のモデルと考え、日本でも中道左派政治を担う政党を作りたいと考え、論壇で発言してきた。しかし、本家本元のヨーロッパの左派がこの体たらくでは、モデルがなくなってしまう。左派の何が問題なのか、この機会に検証しておく必要がある。
新自由主義の破綻が左派の追い風にならないことは、ヨーロッパにおいては、ある意味で当然である。そもそも、大陸ヨーロッパ諸国は、新自由主義にそれほど染まっていなかった。政策の中身で比べれば、フランスの保守、サルコジ政権を日本やアメリカに移植すれば、保守どころか、極左に位置付けられるに違いない。社会保障の手厚さ、労働者の持つ権利の大きさ、鉄道や郵便などの公共サービスにおける政府の管理、税や社会保険料負担の大きさ、どれをとっても小さな政府とは無縁の世界である。アメリカ発の金融危機は、資本主義のアメリカモデルと距離を置いてきたヨーロッパの常識を再確認する機会となっただけである。
問題はイギリスである。私は、日本にとって参考になるモデルは、大陸ヨーロッパではなく、イギリスだと考えてきた。ドイツやフランスは確かに労働者にとっては生活しやすい国だが、同時にそれは高負担によって支えられている。日本で付加価値税を20%にまで引き上げることなどできるわけはない。アメリカ的小さな政府と、大陸ヨーロッパ的大きな政府の中間であるイギリスを目指して、日本も政府の役割を拡大すべきだと考えてきた。
1997年に誕生した労働党政権は、一方でグローバリゼーションに棹差して、金融ビジネスで英国経済を引っ張り、同時に、医療や教育などの公共サービスの再建に努力し、雇用政策や若い親たちの支援では大きな成果を上げた。これをアングロソーシャルモデルと呼んでいる。
労働党が壊滅寸前まで追い込まれているという現状は、このアングロソーシャルモデルの信憑性をも疑わせている。進歩派のコラムニスト、ポリー・トインビーは6月9日のガーディアンの寄稿において、労働党政権が一貫して平等という理念を明確に立てず、遠慮しながら再分配をしてきたことに、今日の苦境の原因があると論難している。労働党が経済界や富裕層にもいい顔をして、市場経済のひずみを是正するという強い姿勢を打ち出してこなかった以上、新自由主義が破綻しても、この党が自分の出番だと主張することはできない。彼女は、労働党が誰のために何をするのか、誰から負担させ誰に還元するのか、明確にしなければ、この党の未来はないと、悲痛な叫びを発している。
こうした批判にもかかわらず、イギリスのブラウン首相は続投することになった。来年の選挙までに態勢を立て直すことは不可能であろう。
さて、日本にとっての教訓は何であろうか。小泉政権以来の構造改革の破綻を批判し、政権交代を迫っていくというところまでは、私の考えたシナリオの通りであった。政権を取って、誰のために何をするか、具体的な手ごたえを国民に感じさせることができるであろうか。民主党政権がどのような社会を目指すか、その思いを国民と共有することができるだろうか。思想のない政党は、国民から信頼されることはないというのが、われわれにとっての最大の教訓である。