Nさんへの手紙第1信 破局の予感
先日は私の長い話を辛抱強く聞いてくださり、ありがとうございました。後から思い返すと、筋道もなく思いつくまま喋りまくったので、「いったいこいつは何を言いたいんだ」と思われたことでしょう。改めて言いたかったことを整理してお伝えしたいと思います。内容が多岐にわたるので、何回かに分けて書きます。気付いたこと があればコメントをください。
今回は私の現在の問題意識がどの辺にあるかを書いてみます。ひとことで言えば、それは「この時代をどう見るのか、その中でどう生きるか」ということです。「その歳になって、何を今さら…」と笑わないでください。
川を船で下っている場面を思い浮かべてください。いつの間にか流れが速くなり、岩にぶつかる水流が白いしぶきを上げています。遠くからは雷のような音が響いてきます。このまま行くと、巨大な滝に飲み込まれ、船ごと滝壺に叩きつけられるのではないか──そんな恐怖が頭をもたげてきます。今の私の心境はこれに近いものです。日本だけでなく、世界全体がそんな状態に陥り、とてつもない破局が迫っているのではないかとい う予感が頭から離れないのです。
以前、私は新自由主義という資本主義の新たなバージョンが(それが快適なものかどうかは別にして)ある安定状態に達するものと考えていました(『「帝国」に立ち向かう』五月書房2003年)。私は、資本主義が様々なバージョンを生みだし、進化しながら生き延びていくというイメージを抱いていたのです。しかし、ここ10年くらいの時代の流れを見ていると、安定状態どころか急速にひずみを拡大する方向に向かっており、その加速度がどんどん増しているようなのです。プレートのひずみが増大するとやがて大地震が起き、それまでに溜まったエネルギーを放出します。同じことが人間社会でも起きるように思えてきたのです。危機が深まり 、破局が近づいているのではないかという私の恐怖心はそこから生じています。
危機には二つの種類があると思います。ひとつは我慢して耐えているうちに過ぎ去る危機です。もう一つは、耐えているうちに状況がどんどん悪化し、破局に至る危機です。ここでは仮に前者を「循環的危機」、後者を「構造的危機」と呼んでおきます。
まわりを見ると、多くの人も危機の存在には気付いているのですが、それを循環的危機と思っているようなのです。デフレを終わらせれば、輸出が拡大すれば、経済成長が軌道に乗れば、国際的な発言力を強めていけば、きっと状況は良くなるはずだと思っているように見えるのです。でも、そうした判断にもとづいて行う施策の一つひとつがひずみ をさらに拡大し、構造的危機を深めているのではないでしょうか。
いつ、どのような形で起きるかはわかりませんが破局が迫っている――実体経済の規模をはるかに上回るまでに膨れあがった金融資産が一挙に紙くずになり経済が麻痺する、内戦や地域戦争が強国間の戦争に発展し核戦争が起きる、非合理的な暴力とテロが世界の隅々にまで広がる、巨大な自然災害と環境汚染、疫病が襲いかかる、あるいはそれらが複合して起きるという悪夢のような現実が身近に迫っている──そのように思った時、人はどう生きたらいいのでしょうか。
山の中に移住して自給自足の生活をするというのもひとつの選択肢です。実際にそうしている人もいます。でも、核戦争や巨大災害からは山の中 にいても逃れられないでしょう。どうせ残された人生もあまり長くはないのだから、そんなことを思い悩まず、せいぜい楽しく生きるという選択肢もあります。正直言って心を惹かれるところもありますが、私は今のところこれらの選択肢をとりません。やはり、近づく破局を見据えながら、その流れを阻止する努力をもう少しは続けたいと思うのです。同じ不安を持つ人と議論を重ね、できるだけ正確な認識を練り上げ、力を合わせてできることをするほかないと思っています。
こうした思いで、これまで考えてきたことを少しずつ書いていこうと思っています。回り道をしたり、袋小路に入ったりすることもあると思いますが、嫌がらずに、しばらくお付き合いください。
(2015年4月15日)