Nさんへの手紙第2信 破局後の反省
前回のお便りで、「近づく破局を見据えながら、その流れを阻止する努力を続けたい」などと偉そうに書きましたが、こうすれば阻止できるという特効 薬があるわけではありません。いま私にできることといえば、どうしたらよいかを懸命に考え、それを誰かに伝えて討論の輪をつくり、広げていくところまでで す。そこから出発するしかないと思っています。
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破局といえば、まず思い浮かぶのは第二次世界大戦でしょう。悲惨な経験をした後で、なぜこの悲劇を事前に阻止できなかったかと悔やんだ人は少なくなかった と思います。ドイツでナチに抵抗して捕えられ、強制収容所に入れられた牧師、マルチン・ニーメラーの次の言葉が、折に触れて引用されます。
〈ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、
私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、
私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、
私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のため に声をあげる者は、
誰一人残っていなかった〉
ヒトラーが独裁体制を築くために邪魔者を排除していく過程で、多くの人は「やられているのは一部の特殊な人たちだ」と思い見過ごしました。そうしたら、とうとう自分まで排除の対象になってしまったという痛切な反省です。
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日本では映画監督の伊丹万作が、敗戦から間もない頃に書き残した次の言葉が よく引用されます。
〈だ まされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされた とさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。〉
〈「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から 解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の 将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。〉(「戦争責任者の問題」『映画春秋』創刊号 1946年8月)
正義の戦争だ、聖戦だと率先して語り、戦争に協力してきた者が、敗戦を迎えると「自分は軍部にだまされただけだ」と言って責任回避に走ったことを、伊丹は、だまされること自体が悪だと言って批判したのでした。
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これらはきわめてまっとうな反省だと思います。2011年3月11日から続 く福島第一原発事故を思い起こしてください。事故発生直後には、原子力ムラがつくりだした「安全神話」にだまされていたと言われました。ところが今では原 発の再稼働が当然のことのように語られはじめています。原子力規制委員会による新しい「安全神話」がつくられ、それに人々はだまされはじめているのです。
先頃、高浜原発の再稼働差し止めという画期的な仮処分決定を福井地裁が行ないましたが、それでも多くの人は規制委が次々と再稼働を認めるのを他人ごとのよ うに思っているのではないでしょうか。それをいいことに、菅官房長官は 「粛々と(再稼働を)進める」、安倍首相は「(再稼働は)政府の一貫した方針だ」と語り、関西電力は異議申し立てを行なって地裁決定を取り消すのに奔走し ているのです。ニーメラーならこう言うかも知れません。
〈川内原発が再稼働されるとき、
私は声をあげなかった
私は鹿児島県民ではなかったから
高浜原発が再稼働されるとき、
私は声をあげなかった
私は福井県民ではなかったから…〉
今の状況に照らしてみれば、破局へ向かう流れを事前に阻止することがどれほど困難であるかがおわかりいただけると思います。私たちは、どうすればだまされることなく、破局への流れに抵抗することができるのでしょうか。
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この問いは、敗戦直後の日本で「主体性」の問題として議論されました。他者からの働きかけによって動かされる「客体」ではなく、自らの価値観と判断によっ て動くのが「主体」です。自分が客体として時代に流されていくのではなく、どこまで主体として流れに抗して生きられるかという問いが「主体性」という言葉 に込められていました。
次のお便りでは「主体性」をめぐる議論を、改めて現在の視点から考え直してみたいと思います。
(2015年4月22日)