Nさんへの手紙第6信 職場闘争がもつ重要な意味
破局へと向かう時代の流れに抵抗しようとする時、私たちは主体性の問題に直面します。主体性は、歴史の必然性を洞察することや、主体成立の神秘を 解き明かす論理を体得することによって得られるのではなく、非人間的な現実に抵抗し、立ち向かう生き方として貫かれるのです。労働運動はこの主体性を貫く 集団的な営みのひとつの姿であり、松崎明さんはそのことを「抵抗とヒューマニズムをこの労働組合運動の基本に据える」という形で表現したのだと思います。 労働運動がそのような方向に発展する中から、破局へ向かう時代の流れを押しとどめ、転換する力が生 まれてくるのではないか──私はここに一筋の希望の光を見ています。
前回は「抵抗とヒューマニズム」を基本とした運動の実例として「責任追及か ら原因究明へ」を掲げたJR東労組・JR総連の安全の追求を紹介しました。事故は現場で起きます。「責任追及から原因究明へ」がまず問われるのは職場で す。JR東労組では、事故が発生すると職場に「原因究明委員会」がつくられます。事故への対処を経営側による一方的な労働者への「責任追及」に委ねず、自 ら原因を究明し、確実な再発防止策を明らかにする活動が行われています。その出発点は、一方的な責任追及を「おかしい」と感じた現場労働者の抵抗です。そ の意味で安全の追求は労働組合の行う優れた職場闘争であり、現場労働者の手による 集団的な主体性の追求だと私は思います。
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「職場闘争」という言葉には個人的な思い出があります。1977年に動労東京地本の委員長だった松崎明さんと初めて会ったとき、私は二つの宿題をもらいま した。その一つが「職場闘争論」でした。当時、松崎さんは職場闘争について、きちんと理論的に整理したいと考えていたのだと思います。後で知ったことです が、職場闘争をめぐって動労の中では様々な経緯がありました。
全国大会の流会にまで至った激しい対立もありました。その発端は、1966年の暮 に起きた、ビラ貼りをめぐる管理者とのトラブルで組合員が逮捕された事件(門司港事件)です。逮捕された組合員への犠牲者救済規則の適用をめぐって、組合 内の秩序を重んじる 多数派の同志会と、職場組合員による創意的な職場闘争を擁護する少数派の政研が激突したのです。中央からの統制が大事か、職場の自発的な闘いが大事かを 争ったこの論争で、松崎さんは政研の側で討論をリー ドしました。
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同志会執行部による一方的な議事運営に抗議して政研の代議員が退場し、動労の第18回全国大会が流会になるのですが、その後も論争は続きました。同志会所 属の本部役員が職場闘争を「自然発生的または偶発的に行われるものでなく組織的系統的に」行われるべきだと機関紙『動力車新聞』に書いたのに対して、松崎 さんは「階級的視点の確立を」と題する論文を投稿して次のように反論しました。
〈 職場闘争は生産点の闘いであ る。そこでは「自然発生的または偶発的に行われる」ことがごく普通にありうる〔…〕。職場(生産点)では職制との対立、対決は日常茶飯事的に行われるもの であり、支部〔委員〕長がいるとき、あるいは 地本・本部役員がいる間だけ闘われるものではない。職場闘争の偶発性はむしろ 相手のしかける攻撃(ある時には挑発)に対する防御あるいは反撃の形をとるのが一般的であろう。その意味で触発的でもありうる。〔…〕職場闘争をこのよう な〔「組織的系統的」な〕ものとして枠にはめこむとすれば、従来先進的に職場闘争を闘い抜いてきた尊い経験は否定されるべきものとならざるをえない。端的 にいえば、指令による職場闘争以外は認めないということになる。真剣に職場闘争を闘い抜いている者は、今日の段階で自然発生的、偶発的な職場闘争の幾たび かの経験をもっているであろう。当局側から山猫呼ばわりされ、ハネ上がり呼ばわりされながら、それこそ一進一退のきびしい闘いをおこなっている。〉(『松 崎明著作集』第1巻275~6頁)
実際、ほとんどの職場闘争は偶発的、自然発生的に起きます。それに「組織的 系統的」という枠をはめれば、事実上職場闘争そのものを否定することになります。このような上意下達の指導は「完全に誤り」だと松崎さんは批判したのです。
〈 職場闘争は多種多様な形態と内容をもっていつでもどこでもおこなわれるべきものであろう。もちろんそのことは「これらの攻撃に対して、指導者はこれに 乗じられないよう常に配慮し組織指導を行なうこと」を否定するものではない。 しかし「職場闘争の組織化は各級機関の指導によって進めること」が総評大会でも確認されたからといって、それ以外のものは職場闘争の範疇に入らないという ことを意味していないし、そうであってはならない。いずれにしろ「一部の先進的闘いは、組織全体の前進にプラスしない」との考えは先進的な闘いを抑える思 想であり、完全に誤りである。遅れたところを先進的なところにまでどう高めるかがわれわれに必要な組織指導というものではないか。組織指導は上意下達式の ものであってはならないのだが、全組織を一線に揃えようとする考え方は生きた労働運動の前では形式主義となり、官僚主義となって上意下達を固定するものに なるであろう。〉(同276~7頁)
こうした見解は、この時はじ めて語られたものではありません。たとえば1965年に政研機関誌『労働者の科学』に書いた「合法主義で職場闘争はできるか」という論文で松崎さんは次のように述べています。
〈 ある所のある役員が言った、「俺の所は組合員の意識が低いからダメだ」 と。そんな時、われわれはこう答える。「テメーの意識はどうなんだ」と。職制と酒をくらいながら、職場闘争がどうの、あれはやり過ぎだのとホザク野郎がま だまだいる。大物ヅラをして高みの見物をきめこむ奴もいる。人のやることへの非難はするが自分は一向に動かない。こんなのもいる。
時として青年 部の闘士たちがハネ上がることもあるだろうし、「やりすぎだ」と見えるときもあろう。だが、職場闘争は概してそんなものだと言える。青年部がハネ上がると 非難する人々に一言モノを申させてもらえば、ハネ上がらざるをえないようなテイタラク、ハネ上がりとしか映らない状態には誰が責任を持つべきなのか?
なすべきは、言うまでもなく自己との闘いを放棄した幹部が自分の汚れた血を切 開すること。青年部の闘いはある場合には他者が、全体としてわれわれが、責任をもって階級闘争のルツボの中で発展させるべきものだ。その意味においてしか 責任を語ることはできない。〉(同200~201頁)
これを読んで思うのですが、松崎さんにとって主体性と は、自ら貫こうとするものであると同時に、他の仲間、とりわけ現場労働者が貫いていくべきものでし た。言い換えれば、職場の仲間が日々の労働に根ざして行う抵抗において発揮する主体性に学ぶことをも含めて、自らの主体性を貫いていくという姿勢が松崎さ んの職場闘争論の根底にあると思うのです。これは後に、「リーダー論」や「オルグ論」の形でさらに具体化されていくのですが、それらについては改めて論じ ることにしたいと思います。
2015年6月27日