Nさんへの手紙第5信 ミスをしたら処分は仕方ないか

▼バックナンバー 一覧 2015 年 8 月 19 日 四茂野 修

 前回は追伸が二つも付いた締まりのない手紙になり失礼しました。お伝えしたかったのは、不正に怒り、抵抗するところに主体性の源泉があるというこ とです。前回紹介したように、松崎明さんは「抵抗とヒューマニズム」を組合運動の基本に置くと言いましたが、そうだとすると、労働運動とは主体性を集団的 に貫くものだとも言えると思います。今回はその観点から労働運動について考えてみます。

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  私は賃金闘争の動機を「もっとお金が欲しい」という欲望に求めると間違うと思っています。たとえば、自分たちが厳しい労働に耐えなが ら、わずかな賃金で食うや食わずの生活をしているとき、経営者やその取り巻きが贅沢三昧を尽くしているのを見れば、労働者は「許せない」と感じます。その ような人間として許せない現実の是正を求めるところから賃金闘争は始まったのだと私は思います。
 労働組合が取り組むのは賃金闘争だけではありません。労災や職業病が頻発する劣悪な労働環境の改善、労働者に不利な法律の阻止、戦争への抵抗など、その領域は様々です。しかしすべてに共通するのは、人間として許せないことへの抵抗です。
  労働運動は、業界団体のように自分たちの既存の利益を擁護し拡大するものではないと思うのです。ただ、そうは言っても、企業の壁を衝立にして、自分たちの 特権的地位を守ることに熱心な最近の 大企業労働組合の多くは、業界団体に限りなく近い存在になってしまいました。しかし現状がそうであっても、かつて厳 しい弾圧や迫害の中で、命がけで労働組合を創ってきた人たちは、不正をただし、正義の実現を求めるやむにやまれぬ思いから行動したのだと思います。今でも そのような闘いに触れたとき、組合員は労働組合の存在を感じるのではないでしょうか。

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 こう言うと「何を根拠に?」と問われるかもしれません。私がそう思うのは、 私自身の体験からです。JR発足直後のことです。当時の運転職場では、後にJR西日本などで有名になった「日勤教育」が当然のように行われており、JR東日本でもその状況は同じでした。
  1989年の春、私はミスをした現場労働者を処罰するのではなく、ミスを生んだ背後要因にさかのぼって事故原因を究明し、確実に再発を防止する手立てを講 じるべきだと中央経協で主張しました。当時「50センチの停止位置不良や30秒の遅れで乗務を降ろされるのではたまったものではない」「誰でもやりかねな いミスの責任をネチネチ追及し、これまでやってきた自分の仕事のすべてを否定するような会社の態度は許せない」という声が多くの職場から出ていたのです。
  その頃まで、私は「ミスをしたら処罰 されるのは仕方ない」となんとなく思い込んでいたのですが、よくよく考えてみるとその根拠はあいまいです。いろいろ調べるうちに、航空業界ではミスの責任 を問わず、起きた事実を正確に報告することを求めていることを知りました。再発防止の観点からすれば、そのほうがはるかに有益だからです。処罰されるおそ れがあれば、現場はあったままの事実を明らかにするのを躊躇します。まず事実を正確につかむことが大事なのです。 「これだ」と思い前述の発言になったのです。
 その後、組合内で月1回のペースで会議を開き、「責任追及から原因究明へ」 の議論を繰り返しました。驚いたことに、およそ半年の間にほぼすべての運転職場にこの考えが広まりました。職場組合員の腹の中に、もやもやと鬱積していた 不当な扱いへの疑問と怒りが「責任追及から原因究明へ」の主張に具体化され、ひとつの運動となったのです。

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 先ほど、労働組合の取り組む課題には様々あると言いましたが、やはりなんと言っても日々働く職場が労働組合の運動の基盤です。職場は経営者の意志としての業務命令と、労働者の人間としての思いがぶつかりあう最前線だからです。
  企業の最高意志決定機関は株主総会であって、従業員である労働者には、もともと企業の意志決定に関与する機会は与えられていません。労働者は雇用契約によ り賃金を受け取るかわり に定められた時間を、業務命令に従って働く義務を負っています。業務命令に違反すれば懲戒解雇されることだってあります。つまり企業から見れば、かけがえ のない構成員ではなく、いくらでも取り替えのきく被雇用者なのです。
 しかし労働者も人間である以上、不当な扱いをされれば怒ります。生活のため に仕方がないと我慢しても、時には我慢できないことがあります。この弱い立場の労働者が抵抗のために仲間として集まったのが労働組合です。労働者の団結は 長い間禁じられていました。長い時間をかけ、数え切れない犠牲の上に、ようやく経営者に団結を認めさせ、労働組合が公認されるようになったのです。
 ですから、組合員が少しでも油断をすると、労働組合は形だけのものにされてしま います。経営側は、組合掲示を勝手に剥がしたり、会議室の使用を不当に抑制したりしながら、労働組合の活動を抑制することを常に狙っているのです。

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  やっかいなのは、労働者の中にも経営側の価値観に同調する意識があることです。私自身「ミスをしたら処罰されるのは仕方ない」と思っていたことは先述した とおりです。経営の側からすれば、規程どおりに作業をせず、業務命令に違反して事故を起こし、会社に損害を与えたのだから、労働者を処罰するのは当然とい うことになります。こうして処罰が繰り返されるのを見ているうち、労働者の側にも処罰はしかたないものという常識ができ、労働者の意識を縛るのです。
  この染みついた常識から脱出するのは容易なことではありませ ん。列車が30秒遅れたのは、ダイヤの設定に無理があったからかもしれません。オーバーランはブレーキ性能に問題があったからかもしれません。それがミス として処罰されても、「ミスをすれば処罰はしかたない」という常識に縛られ、不満を感じても抵抗できないのです。
 前回の追伸で触れた梅本克己の 言葉を使えば、この常識に縛られた状態が「被限定」です。そして心の中に生じた不満や疑問によって「能限定」に転じる可能性が生まれます。「責任追及から 原因究明へ」の主張は、被限定を能限定に転ずる主体性の出発点だったのです。しかし組合員の多くはまだ経営側の常識に縛られた状態にあります。組合員の心 に、呪縛から自らを解き放つ過渡を呼び覚ますことがまず課題になりました。それに 失敗すれば、わけのわからない変なことを言う奴がいるということで終わりになるだけです。
 幸か不幸か組合員の不満が臨界点に近づいていたことも あって「責任追及から 原因究明へ」の主張はJR東労組の中に瞬く間に広がり、経営側も受け入れることになりました。少しでも油断すれば「ミスへの処罰は当然」という常識に引き 戻される危険は今も常にありますが、主体性を貫こうとする労働組合の営みのひとつの成功例と言えると思います。
 次回は職場闘争について、もう少し書いてみたいと思っております。
 2015年6月19日