ホロウェイ論その9 時間をめぐる不思議な話
ドイツの作家、ミヒャエル・エンデの作品に「時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」という長い副題のついた『モモ』という物語があります(大島かおり訳 岩波書店 1976年)。そこに登場する床屋のフージー氏の奇妙な経験は、前回の話と深く関連します。
◇ 床屋のフージー氏
前回、私は企業利益を第一とする逆立ちした社会が、倒れまいとして、ますますその逆立ちした歩みを速めていると書きました。42歳のフージー氏は、ある日突然店を訪れた灰色の紳士の質問に答えるうちに、いつの間にかその逆立ちした歩みに引きずり込まれてしまいます。
灰色の紳士はフージー氏から毎日の生活時間を聞き出します。睡眠は8時間。仕事に8時間。三度の食事に2時間。年老いた母親と過ごす時間が1時間。インコの世話に15分。家事に1時間。週1回の映画、週2回の合唱団の練習、週2回の飲み屋、友だちと会ったり本を読む時間を平均すると3時間。足の悪いダリア嬢の見舞いに30分。寝る前に窓の前で一日を振り返るのに15分…。ここまで聞いた灰色の紳士は、今までにこうして浪費した時間が13億2451万2千秒になると宣告し、フージー氏もそれに納得します。すかさず灰色の紳士はフージー氏に、これから時間を倹約するよう勧めます。
〈仕事をさっさとやって、よけいなことはすっかりやめちまうんですよ。ひとりのお客に1時間もかけないで、15分ですます。むだなおしゃべりはやめる。年よりのお母さんとすごす時間は半分にする。いちばんいいのは、安くていい養老院にいれてしまうことですな。そうすれば1日にまる1時間も節約できる。それに、役立たずのボタンインコを飼うのなんか、おやめなさい! ダリア嬢の訪問も、どうしてもというのなら、せめて2週間に1度にすればいい。寝るまえに15分もその日のことを考えるのもやめる。とりわけ、歌だの本だの、ましていわゆる友だちづきあいだの、貴重な時間をこんなにつかうのはいけませんね。ついでにおすすめしておきますが、店の中に正確な大きい時計をかけるといいですよ。それで使用人の仕事ぶりをよく監督するんですな。〉
フージー氏はそれ以来、灰色の紳士の勧めに従って、ガラリと生活を変えます。そうすると、時間はますます速く過ぎていき、ますます死に物狂いに時間を倹約するようになりました。ほかの大勢の人たちにも同じ変化が現れます。ラジオもテレビも新聞も、時間のかからない新しい文明の利器を宣伝します。人々は余暇の時間まで無駄なく過ごそうと、せわしなく遊ぶのです。仕事への態度も変わります。
〈仕事が楽しいとか、仕事への愛情をもって働いているかなどということは、問題ではなくなりました——むしろそんな考えは仕事のさまたげになります。だいじなことはただひとつ、できるだけ短時間に、できるだけたくさんの仕事をすることです。〉
どうでしょう、私たちのまわりに似通った空気が漂っていないでしょうか。いつの間にか「忙しい」「時間がない」が口癖になり、そういう生活をすることが進歩だと思い込むようなことになってないでしょうか。でもエンデはこう言います——「時間とはすなわち生活なのです」「人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです」。
◇ 時間の花
エンデは人間一人ひとりの生きる時間を、前よりも美しく次々と咲き続ける花として描いています。他方、灰色の紳士は人々からこの花を盗み、貯蔵し、盗んだ花を乾燥させ、それを葉巻にして吸って生存を保っています。いったいエンデはここで何を言おうとしたのでしょうか。
私はこう思います。灰色の紳士というのは価値の論理、資本の論理が人の形をとったものです。灰色の紳士たちは、人々の生きた時間を奪い取り、それを価値増殖、資本蓄積に従属するつまらない灰色の時間に変えてしまうのです。そして人々は、ただせわしなく、何かに憑かれたようにより多くのモノをつくり、それを消費(浪費)し、廃棄し、地球環境を汚染し続けるように仕向けられているのです。
『権力を取らずに世界を変える』のなかで、ホロウェイは人間の生き生きとした行為が灰色の労働に変えられてしまうことについて、次のように述べています。
〈行為は労働に還元され、資本の増殖に奉仕する行為に限定されてしまいます。これらによって、行為の内容が制限されるとともに、ある一定の(どんどん昂進している)リズムが行為の上に課されることになります。行為が労働になってしまうと、それは量として量られるようになります。ある一定の長さの時間の労働、ある価格で売られるものをつくりだす労働、価値をつくりだす労働、賃金としてのお金で量的に報いられる労働になるのです。…時間は時計の時間、チクタクと時を刻む時間、一回のチクタクという刻みがみんな同じであるような時間になるのです。〉(123頁)
同じことをエンデはこのように言います。
〈時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬と思えることもあるからです。/なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。〉
エンデの物語では、モモという女の子が秘密の倉庫の扉を開いて貯蔵されていた時間の花を解き放ったため、人々は憑きものが落ちたように元の生活に戻り、灰色の紳士たちは死に絶えるのですが、現実はそう簡単ではありません。人々は今日も、不景気から抜け出して、生産をもっと拡大するにはどうしたらいいかと懸命に考えているのですから。
◇ 競争によってさびれていく町
フージー氏は以前、若者一人を助手に使っていました。生活をガラリと変えてからはもう二人、新しい助手を雇いました。一秒たりとも無駄にしないよう彼らを監督し、手ひとつ動かすにも、正確に時間表どおりにやるようにしました。たぶん、店もずいぶん立派に改装し、最新式の機械を入れたのでしょう。フージー氏はこうやって競争に生き残りましたが、生活のなかにあった貴重なものを失いました。
私の住む町にも床屋がたくさんありますが、最近、全国チェーンの短時間で安く調髪をしてくれる店が進出しました。それ以来、通りがかりに覗いてみると、どの床屋も暇そうで、めったに客がいません。そういえば、大きなスーパーが開店して、昔ながらの乾物屋が廃業しました。おばあさんがやっていた和菓子屋もなくなりました。通りをよくみると、薄汚れた看板だけ残った魚屋、履物屋、食堂が何軒もあります。増えたのは、全国どこでも見かけるチェーン店のけばけばしい看板ばかりです。住民は次第に車を使って郊外のショッピングモールやスーパーで買い物をするようになりました。私の町でも灰色の紳士たちは活発に動いています。この町からも生きた生活の時間がどんどん失われています。
いったい何が起きているのでしょうか。これまで地域社会には、人と人との様々な結びつきがありました。祭りの日には、各町内がそれぞれ山車を出し、華やかさを競っていました。店先では、町内の出来事の情報が交換されていました。人はそれぞれ多面的な価値観を持ちながら、豊かな人間関係を取り結び、生きてきました。ところが、この多面的な価値観を押しのけて入り込んできた唯一の価値、商品価値がすべてを律するようになったのです。人と人との関係としては、同一の価値物を交換し合う関係と、この売買をめぐる競争だけが残りました。
フージー氏はコストを削減して料金を下げ、多くの顧客を獲得しました。その陰では、競争に敗れた多くの床屋が廃業に追い込まれたことでしょう。彼らは仕方なく、フージー氏の従業員になって働くことになります。しかし、自慢の腕をふるうことはもう許されません。言われた通り、短時間で仕事を仕上げなければなりません。失職した床屋はたくさんいます。言うことを聞かない従業員をクビにしても、代わりはいくらでもいるのです。このようにして競争があらゆる場面に持ちこまれました。競争にせきたてられて、人々の生活はどんどん慌ただしくなりました。
このような資本主義の競争原理を日本社会の隅々にまで浸透させたのが小泉・竹中改革以来の自公政治だったことはもはや誰の目にも明らかですが、それは資本主義とは何であるかをまざまざと見せつけてくれた点で、大きな功績を残したということもできるでしょう。しかし、そうした状況からの脱却は、様々な方面から行く手を阻まれ、迷走する鳩山連立政権の現状を見てわかるとおり、容易なことではありません。次回は、社会がこの状況から脱出するのを妨げている最大の原因がどこにあるかを考えてみることにします。