フォーラム神保町宮崎学ゼミ「1ドル50円時代」と「華僑的生き方のススメ」

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開催日時:2010年 12月3日(金) 18:30〜20:00

レポート

 浜矩子さんを対談相手として迎えた宮崎学ゼミに足を運んだ。なかなか意外な取りあわせである。題目は、「1ドル50円時代」と「華僑的生き方のススメ」。今が旬の二つのキーワードを、どう切り結ぶのか興味津々である。
 
 浜さんには、私が編集に携わっている月刊誌『福音と世界』2010年7〜12月号に、「エコノミストの聖書日記」という連載を担当していただいた。連載中はメールでのやり取りが主であったため、私にとってはしばらくぶりにお会いできる貴重な機会でもあった。

はじめに(宮崎さん)

 
 今回のゼミは、『白狼伝』の出版記念イベントでもある。『白狼伝』は台湾のヤクザについて書かれたもの。『白狼伝』には現代中国論についての改題を附している。そこにも触れられているが、華僑のあり方を中心に現代の経済について考えてみたい。

 最近改めて読みかえした経済関係の本に、サミュエル・スマイルズの『自助論』(Self-Help)がある。こちらは小泉‐竹中の愛読書である。これは1870-71年出版の本であり、マルクス『資本論』(1867-1894年)とほぼ同時期である。同じ経済学の著作でも性格が対照的である。

 私は、「自助」ではなく、「相互扶助」の方に関心を持っている。結局、小泉‐竹中路線は、「相互扶助」よりも「自助」を選んだ。文字通り「自己責任」が流行になり、日本はすっかり「自助」の国になった。それに対して、華僑は「相互扶助」的である。華僑は、各国に若者たちを送り込むのだが、例えばアメリカの西海岸の地に降りたったときに、「所持金が10ドル」ということがあるということである。しかし、華僑の同胞たちが何とか面倒を見てくれ、自前で生活できるようになるまで支えてくれる。まさしくこれは「相互扶助」である。中国は一見「自助」的で冷淡に見えるが、実は「相互扶助」的である。翻って、日本は一見「相互扶助」的だが、実は「自助」的で冷淡である。外国で所持金10ドルになってしまっても同胞は助けてくれない。すっかりそういう国になってしまった。

「ドングリの四つの物語」(浜さん)

 
 たしかに、そうした相互扶助的な「華僑的生き方」はグローバル時代にふさわしい。そのグローバル時代を表す「ドングリの四つの物語」について語りたい。

1.ドングリのせいくらべ

 前近代=帝国vs周縁(その他大勢)。これが「パックス・何某」である。人・モノ・カネが帝国に移動していく装置が働いている。よってドングリではない。古くはパックス・ロマーナ。19世紀においてはパックス・ブリタニカ、20世紀においてはパックス・アメリカーナ、そしてパックス・ジャポニカ。 帝国とは「突出している」ということであるが、21世紀の現状は「ドングリのせいくらべ」である。つまり「パックス・誰でもない」。

2.ドングリの悪あがき

 そう言うと必ず、 「パックス・チャイナではないのか?」という反論がある。答えは否である。パックス・ブリタニカにはポンド、パックス・アメリカーナにはドルという強力な基軸通貨があった。そしてパックス・アメリカーナにはフォード方式、パックス・ジャポニカにはトヨタ方式という、「人・モノ・カネが帝国に移動していく装置」があった。現代の中国にはそれがない。そう言うと、「中国は世界の工場になっているではないか」という反論が出る。しかし正しくは、「世界が中国を工場にしている」のである。「世界の奴隷」さながらの状態である。21世紀に帝国はありえないのである。そうであるにもかかわらず、帝国であろうとする。それが悪あがきである。

3.ドングリの泥仕合

 悪あがきが泥仕合に転ずる。このグローバルジャングルにおいての泥仕合には3つの戦争がある。すなわち(一)通貨戦争、(二)通商戦争、(三)開発戦争である。日本にとっての(一)とは通貨安競争、すなわち「円売りドル買い」である。これはまさに「ヤブ医者の処方箋」である。目に見える対処しかせず、副作用が大きい。何より中毒性がある。国庫は「明日には紙切れ」のドル紙幣で一杯である。これも、特定の理念の下考えた末の術ではなく、「長いものには早めに巻かれよう」的あり方の極北である。なぜこのようなことを続けるのか。(二)は保護主義(保護貿易)である。どのような保護かというと、金融的、人的保護である。前者はTPP(環太平洋パートナーシップ協定)、FTA(自由貿易協定)に代表される保護主義的協定である。自由貿易協定というが、その本質は地域限定排他協定だ。後者は人種主義的保護である。すなわち「日本人以外は雇用しない」という差別である。(三)は、資源開発、インフラ整備受注競争。殊に原発に関しては「オールジャパン」と称して奔走している。この3つに共通することは、「勝者不在の消耗戦」であることである。この意味での泥仕合を、21世紀の諸国家であるドングリたちはしているわけである。

4.ドングリの分かち合い

 そして、これらの泥仕合を超えて分かち合いをし、平和へと至るところでこの物語はフィナーレを迎える。我々は無事、このフィナーレを迎えることができるだろうか。

まとめ(宮崎さん)

 (三)開発戦争のインフラ整備受注競争に関して、私も関心を持っている。例えば、今回のアメリカに対する新幹線のインフラ競争(韓国、中国との)は、軍事とつながっている。日本を代表してアメリカに新幹線を売り込んだのは前原である。そしてそのアメリカ側の窓口は他でもなく、アーミテージであった。私は、アーミテージと同様、前原にネオコン性を感じている。

 華僑的発想とは「もうかる所へはどこへでも行く」という発想である。そうしたあり方を支えるものに、宗教的なほどの相互扶助がある。そうした相互扶助のあり方にいま関心を持っている。

 宮崎さんがスマイルズ『自助論』をネガティブに取り上げたことで、「自助」ではなく「相互扶助」を志向し、「相互扶助」を探求すべくヤクザや華僑を追っている宮崎さんのスタンスがよくわかった。「自助」と「相互扶助」、明らかに「自助」に傾いている日本である。現在、「自己責任」はまるで正論のごとく日本中に響いている。そんな今こそ、クロポトキン『相互扶助論』を読まなければならないのかもしれない。ちょうど、現在ジュンク堂書店池袋本店にて開催されている「湯浅誠書店」の棚にあるのを目にした。

 いつも思うことだが、浜さんは言葉の使い回しやたとえはとても詩的だ。従来のエコノミストのイメージとはあまりに違う。さながら言葉の魔術師である。ハッとさせられる表現を冒頭に使い、聞き手をぐっとひきつけて離さない。そしてその表現からは良心と救いが強く感じられる。最後に浜さんは、「保護は救済につながらず」「排除からは何も生まれない」という主張を付け加えた。とくに後者は佐藤優さんもなされている主張であり、キリスト教徒の属性かもしれない。

(倉田 夏樹/新教出版社『福音と世界』編集長)

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