フォーラム神保町第24回「政党政治の危機とメディア」

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開催日時:9月14日 (金) 18:30〜

勉強会レポート

「政党政治の危機とメディア」。今回のフォーラムが告知されたのは、参院選の自民党大敗後、混迷が予想される国会が始まらんとしているときだった。当然そのときには「安倍政権」を前提として話が展開されるはずだったことと思う。
しかし、開催日の2日前、9月12日に安倍首相は辞意を表明する。
 山口先生はイギリスに滞在しておられ、その一報はそこで耳にされたとのこと。9月14日フォーラムの当日はまさにロンドンから帰ったばかり、現地で購入されたフィナンシャルタイムズを片手にお話を始められた。

山口先生によると、イギリスのどの新聞においても、今回の辞任騒動は「まともな政党政治の論理からは完全にはずれている」という論調のようだ。だが、それは決して安倍首相ひとりだけがまきおこしたことではない。フィナンシャルタイムズの書き出しの一文が山口先生の印象にのこったという。「普段は羊のようにおとなしい日本のプレス」。権力に対する批判が薄弱であり、権力の片棒を担いだ報道を続けたメディアの責任も問われるところではないか。

 イギリスの現首相ゴードン・ブラウンの最大の強みは「自分に華がないことをよく知っている」ことだそうだ。高い支持率のブレア政権後をどういう役割、キャラクターでまっとうすべきかをわきまえているということ。安倍首相は自分の力量や個性の見極めが甘く、結果として多くの不信をまねいた。安倍政権崩壊の理由のひとつはそこにある。

 しかし、そのように首相の個性や振る舞いが重視されるのは、世間において政党に対する支持ではなく、「政治の人格化」というリーダーの個人的要素に政治をおとしこんでいくあり方が、日本だけではなく世界的にひろまっているからだという。この手段を利用するのが、安倍首相はうまくなかったようだ。

 政策・構造の面に関しては新自由主義と利益再分配との間で、安倍首相はどちらにも舵をきりそこね、多くの矛盾をはらんだ展開しかできなかった。
その矛盾は、小泉政権時代からの遺産でもあったが、「政治の人格化」を「劇場型政治」でうまくのりきった小泉前首相のように安倍首相は乗り切ることができなかった。

これは、今後の政権の課題でもある。パターナリズムと自立・自己責任、リスクの社会化と個人化のあいだでどうバランスをとるべきか。
今回の騒動も含め、日本はこれまで他の国と較べて選択肢の少ない国だったことによる。今後は2大政党制など、選択肢がひろがってくるはずだ。ただし、その場合も安易な二者択一に陥ってはいけない、と山口先生は警鐘をならす。
「新自由主義」ではなく、「従来の裁量的再分配政策」ではない、第3の道もあるはず。日本の旧来の再分配は恣意的すぎたが、「クリーンなルールの効率的な再分配」は可能なのだ。見も知らぬユートピアではなく、そういう国は存在しているという。

そこで、今後、より冷静に政局をみていかなければならない私たちメディアに残る課題のひとつとして、山口先生は言葉遣いの問題を指摘された。
昨今よく使われる「ばらまき」、「改革」、という言葉を、メディアはきちんと含意を理解し、定義づけて使っていただろうか。
小泉型劇場政治からの転換を、という論調も最近よく耳にする。だが、その劇場の演出をになっていたのはだれか。使いやすい言葉をイメージだけで流用していなかったか。
山口先生が「わからない言葉をそのまま垂れ流すのは罪悪」とおっしゃったことが、自戒とともに一番印象にのこった。

後半では、山口先生と佐藤優氏の対談によって、改めて安倍政権に対する意見と今後に対する意見が述べられた。お二方ならではの意見は、大変勉強になる深い洞察とともに、時に楽しく展開された。
こうしたお話はほんとうに貴重で、私自身においては、発想の転換が生まれたり、メディアの末席につらなる一員として、自身の無知を自覚し、襟をただすよい機会となっている。
こうしたフォーラムに参加する機会を経て、政治家もメディアも反省点はあるが、自分もその一員として、国民の政治に対する関心の薄さにも、「政治がおかしくなった」といわれる責任はあったと思うようになった。
山口先生は札幌で「フォーラム in 札幌時計台」という市民参加のフォーラムを開催されているとのこと。
国民が政治に直接参加をする機会は少ないが、間接的にはさまざまな手段がある。いろんな話を聞き、自分の意見をもつということだけでも、そこには大きな意味がある。
功罪はあれど、小泉政権の劇場型政治を経て、政治離れは去ったといわれている。今、これからその先をどうしていくか。
政治家、メディア、国民、すべての人にそれが問われている。

(編集者 小林妙子)