フォーラム神保町第14回「メディアと公共性」
勉強会レポート
テレビで「やらせ」が相次ぎ発覚する一方、一国の総理が個人とメディアに対し法的措置をとるという驚くべき事態……。メディアと公共性の関係はまさに今日性を孕んだテーマといえる。
従来の公私二元論に代わって、公、私、そして「民の公共」という視座が追加されたのが公共哲学のニュー・パラダイムであるという。伝統的な日本の言葉で表現すれば、「滅私奉公」でも「滅公奉私」でもなく、「活私開公」という、個人を活かしながら民の公共を開花させ、政府の公を開いていくという社会観だそうだ。興味深い。そもそも公共哲学という言葉は、アメリカのジャーナリスト、ウォルター・リップマンの提唱によるもの。「『言論の自由』が、それ自体目的として存在するのではなく、真実を発見するという望みと意図からのみ公共的な意義を持つ」というリップマンの教えは今日でも全く色褪せていない。
以上、公共哲学というアカデミックなアプローチでメディアと公共性の関係を山脇氏がレクチャーする。後半はよりジャーナリスティックな立場から、服部氏が、今起きているメディアと公共性の問題を提示した。
その問題とは、たとえば国民投票法に放送法の適用が加わったことである。虚偽報道の禁止など放送に対する権力介入がより一層強まる畏れがある。また、この適用が一般放送事業者、つまり民放と定められている点も見逃してはならないという。「NHKは国の広報機関であると国が認めたのか?」(服部氏)また、みのもんたの朝ズバッ!の不二家報道問題をめぐるTBSの対応について。TBS側は不二家取材テープを出せないと主張するが、セレブ妻によるバラバラ殺人の際に容疑者の男友達が録音テープを民放各社に売りつけたところ、TBSもそのテープをOAしている…などなど。
メディアと公共性を考える際に、対・公権力の関係と、発信するメディアに内在する問題とがあると思う。そしてなにより、受け手(視聴者、読者)がこうした「問題を抱えたメディア」が発信する情報をそのまま鵜呑みにしてしまう状況が怖い。私は三年間民放で報道記者をしていたが、現場レベルに「公共性」という考え方があったかといわれると、正直「ない」としか言えない。情報には歪みがあること、みのもんただろうが、学者だろうが、メディアの発信をまずは疑う精神を、より一般的に、養っていく必要性を感じた。
(幻冬舍 第三編集局 大島加奈子)