フォーラム神保町第12回 「鈴木宗男事件とは何だったのか〜第2弾」

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開催日時:4月18日 (水) 18:30〜

勉強会レポート

片や437日、もう片や512日。

長きに及んだ獄中での日々を無事、生き延び、
その経験をへて、
一人は地域政党の代表、
もう一人は言論界の寵児となって、
「新たな生」を、
自らの手でもぎとった男たちが語った二回目。

「鈴木宗男・佐藤優事件」として、
獄に陥れられたファクターの多くは
嫉妬に根ざした謀略であったにもかかわらず、
鈴木、佐藤の両氏からは 一切、
繰り言が聞かれなかった。

印象に残ったのは、両氏が反省として挙げた「権力に近づきすぎ、前しか見ていなかった」(鈴木氏)、「東西冷戦が終わったことは、頭では分かっていたのに、体で分かっていなかった」(佐藤氏)の弁。

後付けにすぎないが、事件は、役者に事欠かない中で起きた。田中真紀子という、国民的な人気は高かったものの、決して他人に心を許さず独自の世界観の信者だった孤高の外相。こうした厄介な大臣を頂いたことで疲弊の極みにあった、ある意味、脆さを抱えた外務省というエリート集団。世論の在りかについて類い希な嗅覚を持った変人宰相・小泉純一郎。世間の耳目を集めたのも自然の成り行きだった。

冷戦時代にしか意味を持ち得なかった「北方四島一括返還」からの軌道修正は、二元外交の批判を浴び、米国との関係につねに軸足を置く外務省内のアメリカン・スクールや条約局マフィアからも快く思われなかった。歴史に「(あのとき、こうしてい)たら・(こうしてい)れば」はないが、いまであれば、鈴木、佐藤の両氏は、おのおのの属する世界での世論形成に力を注いでいたであろう。

ただ、事件によって露わになった検察なり外務省なりといった権威の失墜は、メディアの側にも、刃を突きつける。「果たして何を伝えるべきか」という刃だ。

たまさか、今回は朝日新聞社刊の雑誌アエラの記事が俎上に載せられたが、誤解を恐れずに言えば、「書く」という行為そのものが、客観から逸脱することを意味しているのだと思う。だからこそ、「書く」にあたっては、「どこまでなら責任を負いきれるのか」という自問はつねにあり、その圧力に耐えられなければ、当然のことながら、書いたものは鈍く、凡庸なものになる。

佐藤氏が問うた「書き手の想像力の問題」は、まさに重い指摘だが、こうした議論によって、われわれメディアに携わる人間が、よりよい方向へと誘われていくことを信じてやまない。

(朝日新聞 be編集グループ 鈴木淑子)