読み物映画「ジョージとタカオ」を観て 刑事司法の病理を体現するふたりの中年男
一九六七年に茨城県利根町で起きた布川事件と呼ばれる強盗殺人事件がある。その犯人とされ、冤罪を訴え続ける、桜井昌司(ショージ)と杉山卓男(タカオ)の二人を追った「ショージとタカオ」という記録映画がある。ある日突然、誰の人生にも降りかかってくるかもしれない冤罪。この映画はその事件と裁判の経過を詳細にたどる類の堅苦しいものではない。時間が一五八分だが、長さを感じさせない。それは彼ら二人が失った時間を取り戻そうと、前向きに生きてゆこうとする映画だからだ。人生は後ろには進まず、前にしか進まない。そんな前向きな印象をこの映画は与えてくれる。
彼らが再審請求を求め、冤罪を訴えながら仮出所したのが一九九六年一一月。その仮出所の瞬間からカメラはとらえている。タカオは、すでに五十路になって頭の毛が薄くなっているが、その眼の輝きと、表情の幼さに二十歳前後の青年のような印象を受けた。それもそのはず、彼らが別件逮捕されたのが、一九六七年一〇月。ショージとタカオは、脛に傷を持つ茨城県の二〇代の不良少年だった。彼らが警察に狙われ、「自白しないと死刑になる」と密室で取調べに当たった警察から脅された。裁判で、彼らの自白が重要な証拠となっていた。その逮捕から約二九年間牢獄に入れられた。
まるで浦島太郎のように一九九六年、彼らはシャバに戻ってきた。ただ、彼らが見てきたのは、竜宮城ではなくて、牢獄だったことだ。二〇一一年の現在からすれば、一九九六年の日本社会の映像もすでに色あせている。携帯電話は普及しておらず、公衆電話があふれ、駅ではタッチパネルの券売機はなく、小銭を入れてボタンを押し切符を買う。今のようなスマートフォンやスイカなどの気のきいたものはない。町中がまだアナログだ。ウィンドウズ95の登場が世界の流れを変えるとか、一五年前に言われていたが、その頃、私には実感はなかった。浦島太郎みたいな彼らの視点が、この一五年という時間の流れを強調する。映像を通じて仮釈放後と現在のギャップすら時の移ろいを感じずにはいられないのに、ましてや、彼らの奪われた時間からとなると、私の想像の範囲を超えている。衝撃的な出所後のシークエンスだった。
出所後、支援者よりアパートを提供されたタカオの部屋に、監督の井手洋子さんが訪ねる。すると、流しの上にワンカップの清酒の空き瓶が二つとズブロッカの空き瓶が一つあった。映画ではとりたてて説明はなかったが、「ずっとお酒を飲みたかったんだなぁ」と感じた。不良だったタカオは就職活動の困難に直面し、ガソリンスタンドで時給九〇〇円のアルバイトを始め、ふと「刑務所のほうが楽だったかも」と語る。そのシーンを見て私は「そうですよね。二〇代から刑務所しか知らなかったですもんね」と、ふと人生の先輩に対して、同情というよりも、怒りがふつふつとした感情が沸きおこってくるのを感じた。
一方、ショージも出所後に工務店に勤務し、失われた時を取り戻すように堅実な毎日を過ごす。自分で廃材を利用して、かつて両親と住んでいた実家を改築する。緑色の入浴剤いっぱいの風呂に浸かる。こうやって風呂にはいり、飯を食うと、保釈されてからの幸せを片時も忘れないと言う。その静かに流れるシーンの強さから私は、涙で画面を直視できなくなった。井手監督のカメラごしに、私も支援者の一人のような視点になっていることに気がつく。そして、映画は再審を求め、ジェットコースターに乗ったように、失われた人生を取り戻そうと、どんどん加速し、新たな展開を迎えラストに突入する。
三月一九日より一般公開されるが、その三日前の一六日に再審判決が出る。井手監督によれば、判決次第で、ラストに手を加えるということだが、私もこの判決がどう出るのか注目している。それによってショージとタカオの人生に大きな影響が及ぶだろうが、この映画の存在自体が、法廷外で彼ら二人を弁護する最大の武器になっている。映画は国家権力を罵らず、ショージとタカオの存在そのものを描くことによって、この国の司法構造に疑問を持たせる作りになっている。
映画を見るだけでは、あまりにも悔しい。実を言えば、上映後、私は前売り券を一〇枚預かった。どうにかショージとタカオを応援したい。そういう思いに駆り立てられる映画だ。
松林要樹