読み物オウム事件 崩れ始めた壮大な虚構

▼バックナンバー 一覧 2011 年 2 月 22 日 魚住 昭

 この10数年、書こうかどうか迷いつづけてきたテーマがある。オウム真理教が引き起こした地下鉄サリンなど一連の事件の深層である。教祖らの裁判は終わっても、オウム事件には訳の分からぬことが山ほど残っている。
 
 その一例を挙げよう。教団がサリンを生成しているのを警察がつかんだのは地下鉄サリン事件(1995年3月)が起きる約半年も前だった。山梨県上九一色村(当時)で異臭騒ぎが起きたため調べたところ、第7サティアンの側溝からサリン分解物質が見つかった。94年6月の松本サリン事件への教団の関与を示す決定的証拠である。
 
 にもかかわらず警察は強制捜査に踏み切らず、地下鉄サリン事件を招いてしまった。なぜ警察はこんな奇妙な行動をとったのか。私の知る限り、まだ誰もその謎を解明していない。
 
 89年11月の坂本弁護士一家殺害事件も教団の犯行を疑わせるデータが多数あった。翌年2月ごろには実行犯の1人が坂本弁護士の長男の遺体を埋めた場所の地図を神奈川県警などに匿名で送った。同県警はいちおうその場所を捜索したが、なぜか遺体は見つからなかった。
 
 それから5年後の95年9月に遺体が発見された時、遺体があった場所の地下約70センチから、錆びたスプレー缶が出てきた。5年前に神奈川県警が捜索した際、地表面に碁盤の目のように線を引いて区分けするために使ったラッカーだった。
 
 神奈川県警は「たまたま遺体近くまでしか掘り起こさなかったため発見できなかった」と釈明したが、約40平方㍍の狭いエリアなのに、その一部しか掘らないのはあまりに不自然だ。もしかしたら警察は事件を握りつぶしていたのではないか。
 
 オウム事件の裁判記録を読むと、そんな疑問が次々と湧いてくる。事件の首謀者とされた麻原彰晃の人物像もそうだ。報道では麻原は自らの罪を免れるため、元弟子たちに責任をなすりつけようとした男である。
 
 だが、実際に責任逃れをしようとしたのは元弟子たちのほうだろう。麻原は彼らの悪口を一度も言っていない。彼らから糾弾されても気にせず、彼らをかばう姿勢を崩さなかった。
 
 麻原弁護団は元弟子たちの暴走で事件が起きたことを立証しようとした。そのため元弟子たちの証言の矛盾を追及した。すると彼らは言い逃れができなくなって窮地に陥る。そんな場面になると、たいてい麻原が「子供をいじめるな」と言いだし弁護側の反対尋問を妨害した。
「ここにいるI証人(地下鉄サリンの実行犯)はたぐいまれな成就者です。この成就者に非礼な態度だけではなく、本質的に彼の精神に悪い影響をいっさい控えていただきたい」
 
 読者には信じがたい話だろうが、それが麻原の一貫した主張だった。彼は自分の生死には無頓着で、元弟子たちの魂が汚されることをひたすら恐れていた。裁判記録には、そうした麻原の宗教家としての姿勢がはっきりと描かれている。
 
 としたら、なぜ麻原の教団は凄惨極まりない事件を次々と引き起こしたのか。先ほど触れた警察の不可解な動きや、元弟子たちの教団内での確執、それにオウムの教義の変遷の歴史を丹念に調べていけば、謎は自ずから解けていく。私は最近そう思うようになった。
 
 折から麻原の親族が2度目の再審請求をした。松本サリンや地下鉄サリンの実行犯・遠藤誠一の控訴審での新証言をもとにしたものだ。遠藤は両事件とも「(刺殺された教団ナンバー2の)村井秀夫が独断でやったと思う」と述べている。別の死刑が確定した元弟子は、麻原から指示されたという自らの法廷証言を一部否定する手紙を書いた。
 
 事件の真相が関係者の口からじわじわと漏れ、検察が作った壮大な虚構が崩れる兆しが見えだした。遅ればせながら、私も本格的な取材に踏み切ることにした。近いうちに本誌でその結果をお伝えできると思う。

(編集者注・これは週刊現代「ジャーナリストの目」の再録です(了)