読み物土井淑平という記者がいた
私が共同通信の社会部記者だったころ、カリスマ的な存在感を持つ先輩記者が社内に二人いた。外信部の辺見庸さんと鳥取支局の土井淑平さんである。
辺見さんについては読者もよくご存知だろう。世界的特ダネを連発した辣腕記者であると同時に芥川賞作家だった。共同を退社する直前の1994年に書いた『もの食う人々』は大ベストセラーにもなった。
その辺見さんが「共同で唯一人、尊敬する記者」と言っていたのが実は土井さんだった。
土井さんは70年代前半の東京社会部時代に共同労組の反合理化闘争の先頭に立った。その後、名古屋・福岡支社などを経て80年に郷里の鳥取に戻った。以後、退職までの21年間、鳥取支局の記者として働きながら、人形峠(岡山・鳥取の両 県境。50~60年代にウランが採掘された)のウラン残土撤去運動をはじめ反核・反原発の市民運動に取り組んだ。
共同の経営陣にとっては厄介な存在だったらしく、私の耳にも「土井は運動にかまけて仕事をしない」「鳥取支局に居座って異動を拒んでいる」といった幹部間の悪評が聞こえてきた。
にもかかわらず現場の人望は極めて厚く、土井さんを慕う者は多かった。私は直接薫陶を受けたことがなかったが、彼の噂話を聞くたびに、記者としての栄達と訣別して生きる姿に畏怖の念を抱いた。その一方で「十年一日の如く反核・反原発でもないだろう」という冷ややかな気分も私の心の隅にあった。
96年に私が共同を辞めてから彼にまつわる記憶は次第に消えていった。それが、後悔の情 ととともに突然甦ったのは、福島第1原発で水素爆発が相次いだ直後のことだった。
土井さん、どうしてるかな。と思ってネットで調べてみると、01年に共同を退職してからも人形峠のウラン残土撤去運動をやめていなかった。京大原子炉実験所助教・小出裕章さんの協力で深刻な環境汚染の実態を暴いて、06年の最高裁決定を勝ち取り、3000立方メートルに及ぶウラン残土の撤去を実現させていた。原発関連では初の全面勝訴だった。
反核・反原発運動の理論的支柱としても執筆・講演活動を活動をつづけ、昨年2月の都内の集会では、40年代に始まった米国の核開発・マンハッタン計画の犠牲になった先住民族の例を挙げてこう語っていた。
「原爆製造には先住民の土地であるアリゾナ州 の鉱山のウランも使われ、採掘に動員された先住民が肺ガンで次々と死にました。米国公衆衛生協会の推計では、6000人の鉱山労働者のうち600~1200人が肺ガン死を避けられない。つまり10~5人に1人の割合で肺ガン死すると報告されています」
土井さんによると、広島と長崎に原爆を投下された日本だけが被曝国なのではない。米国自身がウラン採掘の犠牲者や、核実験に参加した兵士や復員軍人らも含め、百万人の被曝者を抱えた“被曝大国”なのだという。
土井さんは自ら経験した人形峠の闘いや、核実験場となった太平洋諸島などの惨状にも触れながら「原子力開発は軍事利用と商業利用の別なく、文字通り先住民や弱い立場の人間を根こそぎにする棄民政策の産物以外の何物で もない」と指摘し、原発事故に対する切迫した危機感をこんな言葉で訴えていた。
「近年、原発が地球温暖化防止のクリーンエネルギーであるかのようなまがまがしい一大デマ宣伝が内外でなされていますが、地球汚染をもたらした86年の旧ソ連のチェルノブイリ原発の爆発事故は、いったいいつ歴史から抹殺されたのか!」
繰り言めくが、土井さんのように長年にわたって警告を発してきたジャーナリストは少数ながら確かに存在していた。もし私たちがその声に真剣に耳を傾け、原発取材に精力を傾けていたら、フクシマの惨事は避けられたかも知れない。それを考えると慚愧の念にたえない。(了)
(編集者注・これは週刊現代連載「ジャーナリストの目」の再録です)