読み物最期の63時間 自宅で母をおくるとき
朝日新聞社記者 諸永裕司
あえぐような声が聞こえ、ベッドわきで仮眠していた私は目を覚ました。
「痛い、痛い! くすり」
母は手すりを握りしめて叫んだ。
会社の介護休業制度を利用して休みをとり、泊まり込みで付き添うようになって3週間。これほど激しい痛みを訴えるのは初めてのことだった。痛み止めと吐き気止めの座薬を入れたものの、効かない。
午前7時すぎ、在宅医が駆けつけてくれた。血圧は上が57。下は計測不能。安定剤を点滴で落とし込むと、ようやく眠りはじめる。しかし、瞳孔が収縮し、呼びかけにも応えず、痛みへの反射もない。
「深い昏睡に入られたようです」
父は枕元に顔を寄せ、涙声で語りかけた。
「ありがとう、澄子。旅行楽しかったよ」
「母さんの子どもでよかったよ。みんなで仲良く暮らしていくから安心して」
兄も続く。私はなんと口にしたのか記憶にない。ただ、どこか冷めたところの残る頭でこう思っていた。
ついに、終わりが始まったのだ、と。
■「わが家で最期を」 家族会議の決断
35年以上にもなる、住み慣れた家で最期を迎えたい―。
そう決めたのは、昨年暮れに開いた家族会議だった。
同居する87歳の父。離れて暮らす兄と私。そして、77歳の母。
2009年秋に卵巣がん(ステージⅢb)がわかった。近くのがん拠点病院で摘出手術を受けた後、抗がん剤治療に入った。腫瘍マーカーは着実に下がったものの、副作用が強く4回半で中止。その後、再発し、すい臓がんの疑いも見つかった。
残された時間は長くない。私と兄は主治医にひそかに会い、「化学療法をしなければ、桜の頃までだろう」と言われていた。
父が口火を切った。
「抗がん剤と緩和治療を並行してやるのが、いまや一般的なんだ」
たしかにその通りだが、卵巣がんとすい臓がんとに同時に効く薬はない。しかも、先進的な緩和ケアで知られる病院はいずれも、再発患者は受け入れてくれない。主治医のいる病院で緩和ケアを受けるとすれば、入院しなければならない。
母が口を開いた。
「じつは、桜町病院に行ってきたの」
緩和ケアの草分け的な存在である桜町病院は、東京都三鷹市にある自宅から車で15分ほどの距離にある。そのホスピス病棟を訪れ、申し込みをしてきたのだという。私はこう尋ねた。
「でも、本当は家がいいんじゃない?」
母が答えるよりはやく、父が難色を示した。やはりホスピスのほうが安心ではないか、と。
「たしかに、父さんひとりでは大変だと思う。でも、ある時期になったら僕が戻ってきて、最後まで面倒をみるから」
ずっと黙って聞いていた母がポツリと言う。
「ありがとう。迷惑かけてごめんなさい……。でも、うれしいわ」
方針は決まった。
■患者家族として在宅医を探す
しかし、在宅医が見つからなければ、自宅で最期を迎えることはできない。
私は、桜町病院を舞台に人間の尊厳ある最期を問いかけた『病院で死ぬということ』(主婦の友社、1990年)の著者でもある、医師の山崎章郎さんに診てもらうことはできないかと考えていた。山崎さんは病院を離れてケアタウン小平という施設を立ち上げ、24時間対応の在宅ケア・訪問看護事業に取り組んでいた。
事前に問い合わせたところ、条件である「3 km圏」より遠いため受け入れられないという。そこで紹介された武蔵野ホームクリニックでも、「いま130人の患者を抱え、新患は受け付けていません」と言われた。途方に暮れかけたが、切迫した思いから長い手紙を書き、直前にクリニックのポストに入れてきたばかりだった。
家族会議の翌日、クリニックの医師から電話がかかってきた。
「お母さまを最後まで診させていただきます」
幸運にも、在宅での緩和治療を受けられることになった。週2回、訪問看護師も来てくれるという。なんとか最初の、そして最大の難門を突破することができた。
このとき、私は、残り時間が1カ月ぐらいになったら教えてほしいと医師に伝えた。そのタイミングで介護休業による長期休暇をとろうと決めていた。
というのも、さきに触れたケアタウン小平のホームページに、
〈最後の2、3週間は家族が大変だけど、そこをがんばれば、だれでも自宅で看取ることはできる〉
と書かれていたからだ。
それまでは週に3日ほど、仕事の後や休日に通うことにした。
■家族看護の限界と希望を知る
しかし、体力が落ち、痛みにも苦しむ母を、母より10歳も年上の父が看ることには限界もあった。
とくに深夜から明け方にかけて、三度、四度と重なるトイレが問題だった。寝室のベッドからトイレまでは5mほど。手すりを伝いながら、なんとか行くことはできるが、用を済ませた後、一人で部屋に戻り、ベッドに上がることはできない。
耳が遠く、別室で眠っている父は、母のトイレに気づかない。母も気を遣って知らせようとしない。このため、父が自分のトイレに立ったついでに寝室をのぞくと、下半身をさらしたままの母が床に横になっているのを見つけるということが続いた。
「もう無理だ。これじゃあ、母さんもかわいそうだ。病院に入れよう」
私のもとに、悲鳴にも似た電話がかかってきた。しかし、夜になると、父はこう言った。
「台所で母さんと朝食を食べていたとき、母さんにこう言われたんだ。『お父さんと一緒にごはんが食べられるのがうれしい』って。だから、もう少し頑張ってみるよ」
その声は涙でかすれているように聞こえた。
■訪問看護師たちのアドバイス
東北での大震災と大津波による混乱が少しだけ落ち着きかけた4月はじめ、私は医師から「そろそろではないか」と声をかけられ、実家に泊まり込むようになる。
まもなく、訪問看護師のUさんから声をかけられた。
「お母さまのベッドの向きを変えてみてはどうでしょうか。空が見えるようにしたほうが、気分も軽くなるのでは」
ベッドを窓際に寄せると、確かに流れていく雲が見えた。また、どこからでも介護ができるように、四方を壁から離した。これも訪問看護師のアドバイスだった。24時間付き添うため手すりは外した。写真を飾り、花瓶を置くスペースもつくると、見違えるような空間に変わった。
さらに、机と椅子のセットを持ちこんだ。3食をベッドわきでとるためだ。もはや、ほとんど食べることはできなくなっていたが、せめて料理の匂いや家族の会話が届くように、と考えたのだった。
あるときは、春巻きのかけらを口にした後、吸い口でビールを飲んだ。
あるときは、ピザは受けつけなかったが、赤ワインで唇を濡らした。
そして、飲み込むのが難しくなってからは、4種類のシャーベットを用意した。水、オレンジジュース、紅茶、カルピスをそれぞれ凍らせたものだ。口の中に入れれば、自然に溶けるから、嚥下障害でも水分を摂れると教えられた。
なにより、訪問看護師の仕事ぶりには驚かされるばかりだった。
「きょうは、髪の毛を洗ってさっぱりしましょうね」
Nさんは、ベッドに横になったままの母の髪の毛をシャンプーで泡立てる。いったい、どうやって流すのだろう。見ていると、ペットボトルに、100円ショップで買ったというじょうろの口をつけて水をかける。枕の上にはおしめを敷いているから、流れた水を全部吸い込んでくれるというわけだ。
そのほかにも、石けんをつかって手足を洗いながらのマッサージ、着替えやシーツ交換の手際のよさに目を見張った。ベッドわきに仮設風呂を持ってきての訪問入浴では、安心して湯の中で体を預けられるネットにも感心した。
体だけでなく、心のケアにも心を砕いてくれた。
大切な客人が来る前には化粧を施したり、日によってネックレスのペンダントトップを変えたり、マニキュアを塗ってくれたりもした。その献身的な姿勢に、家族も心がほぐれていく。
最後まで、会いに来てくれる友人や知人が絶えなかった。同じ時期に抗がん剤治療を受けていた〝がん友〟や、ホストファミリーとして25年前に世話をしたアメリカの〝息子〟も訪ねてくれた。
死を待つはずの母が眠る部屋には、母を想う人々のあたたかさに満ち、贈られた花もあふれていた。あれほどまでにやわらかい空間を私は知らなかった。
■家族ケアの現実と向き合って
とはいえ、痛みと闘う母にとっては必ずしも、おだやかなだけの空間はなかった。
時とともに足が弱り、次第に立つこともできなくなると、夜間はオムツをつけた。飲み薬だと負担が大きいことから座薬に変えたのは、私が付き添いはじめて間もなくのことだった。
薄手のゴム手袋をして、オムツを下げる。海老のように膝を抱えるような姿勢で横向きにさせ、背中には丸めたタオルを入れて体を支える。肛門にゼリーを塗り、指先で座薬を指し込む――。
Nさんから手順を教えてもらいながら、私は怖れていた。
「もし、嫌悪感を抱いてしまったら嫌だなあ」
自分を産み、育ててくれた母とはいえ、こんなふうにして体に触れるのは、いったいいつ以来だろうか。もちろん、下半身など目にしたこともない。
最初は不安だった。言われたとおりの手順で、きちんと入れることができるのか、と。しばらくすると、いかにすばやく、負担をかけずに入れられるかを考えるようになった。
とはいえ、素人のつたない介護がかえって母に苦痛をもたらしてしまったのではないかとも思う。3時間ごとの体位交換でも、痛みをこらえてうめくような声を漏らすことがあった。
ある晩、床の上に横になっている母を見つけたこともある。ベッドから落ちたのか、トイレに立とうとして倒れたのか。私は仮眠していて気づかなかった。
週4回、資格をもつ介護ヘルパーにも来てもらっていたが、母は見知らぬ人に体を預けることへの抵抗があった。このため、家事に専念してもらい、身体介助は訪問看護師に任せるか、私たち家族が担っていた。
■思い描いた「おだやかな最期」との落差
そのうえ、当初、想定していたほど緩和ケアがうまくいったわけではなかった。母はよく、こう漏らしていた。
「残された時間を自分らしく過ごしたいと思っていたんだけど、どうしても眠くなっちゃって元気がでないのよねぇ」
モルヒネの貼り薬を使っていたのだが、痛みにあわせて増やすとどうしても傾眠傾向が強くなり、麻薬が足りないと苦しみにあえぐ。医師は薬の調整に智恵をしぼってくれていたが、週2回の訪問ではきめ細かく痛みをコントロールするにはやはり限界があるのだろう。思い描いていた「おだやかな最期」との落差に、もどかしさが募った。
その意味でも、百点満点には遠く及ばない。及第点に届いているかさえ心許ない。それでも、家で看取ることを選んでよかった、と私は思う。
なぜなら、家にいると、母にしてあげられることがたくさんあったからだ。直接的な介護だけでなく、となりで食事をとったり、アルバムを開いて笑ったり、思うことを思うようにできる。訪問看護師のNさんにはこう言われた。
「ご家族は『ただ、いる』だけでいいんです。それは、私たち看護師ではどうやってもできない、大きな仕事なのです」
ある朝、母はめずらしく気分がいいと言った。庭の花々を見てみないかと父がもちかけると、「いま、見たい」という。
私たちはあわてて、レンタルしていたリクライニング式の車いすに母を乗せた。準備してあったスロープを縁側に渡して、車いすを庭へ下ろす。ツツジや空木が咲き誇る小さな庭を転がして白いバラの木の前に来ると、母は花鋏を求めた。すでにスプーンさえ満足に口に運べなくなっていた母が重い鋏を手にパチンパチンと枝を切り、葉を切り落としたのだ。華道の師範だった母は左手でバラの枝を掲げると、満足そうな表情を浮かべた。
それが、部屋から外に出た最後となった。息を引き取る6日前のことだった。
■家族同士が死と向き合うなかで
死へと向かう途上で、どういうことが起きるのか。未知の世界を手探りで進むほかない私たちに、先の見通しをあらかじめ教えてくれたのが、訪問看護師であり医師だった。だからこそ、あらかじめスロープを借り、父と二人でもなんとか庭へ連れ出すことができたのだった。
「今晩か、明日がヤマになる」
そう告げられてから2日半、私は変わらず母に語りかけ、顔を拭き、口の中をぬぐい、痛み止めの座薬を入れた。そして、夜を徹してマッサージを続けた。昏睡となってもなお、できることがあることに救われるような思いだった。
5月3日の夕方、母の呼吸が弱まってきた。
できるだけ自然に逝かせたい。私たち家族だけでなく、医師や訪問看護師も同じように考えていた。点滴があふれてしまい、もはや点滴の針を入れる場所が見つからなくなったときに、そんな話をしていた。だから、私は訪問看護師のNさんに電話を入れると、こう尋ねた。
「もう、酸素を外してもいいですよね」
「はい。いいと思います」
私は、鼻から酸素吸入のチューブをはずした。母はどんな管にもつながれず、体ひとつで横たわる。
家族と、親しい友人たちがベッドのまわりを囲んだ。手を握り、足をさする。母はあえぐように口を開き、荒い息を吐く。しかし、ゴロゴロと喉元にたんがからんだような音が止まらない。
しばらくして、父が言った。
「苦しそうだ。これじゃあ、かわいそうだ」
「いや、苦しんでいるように聞こえるけど、実際には苦しいわけではないらしいよ」
医師から渡されていた、死の直前の兆候について書かれた冊子の内容を私が復唱した。しかし、父は譲らない。とにかく医者に確かめろと言われ、私は医師を呼びだした。
「ゴロゴロという音がしても、ご本人は苦しんでいるわけではありませんから。酸素をつけても、変わりません」
その言葉を伝えても納得せず、父は再び、酸素チューブを母の鼻に当てた。
しかし、ゴロゴロという音は変わらない。やはり、医師の言ったとおりだった。とはいえ、もう一度取り外すこともできない。
張り詰めた空気をほぐしてくれたのは、生まれて2カ月になろうとする孫だった。兄の妻が、もう自分で動かすことのできない母の右腕に抱かせてから語りかけた。
「お義母さん、ちゃんと大きく育てますからね」
しばらくして、父はベッドから離れると、孫を抱きとった。目尻を下げ、「バァ、バァ」と高い声を出してあやす。その場違いな振る舞いに、思わず笑いが漏れた。
■臨終間際の風景
最期の別れを覚悟してからすでに3時間がすぎ、一度は泣きはらした頬もすっかり乾いている。気がつけば、腹も減っている。時が止まったような、不思議な感覚の中で、いやに現実的な自分がいる。
「母さん、強いなあ」
臨終が間近だろうというのに、どこかで死を待っているかのような気持ちになる。
このとき、私の祖母、母にとっての実母が臨終を迎えたときのことを思い出した。
もう20年近く前、家族や親戚10人ほどが病院のベッドを取り囲んでいた。病室には心拍を示す電子音だけが聞こえる。それぞれが駆けつけてから1時間以上がすぎ、だれもがモニターを流れる波形を横目で追っていた。
目の前に横たわる肉体ではなく、心拍数を示す数字と血圧を示す波によって「死」を確かめるかのような、奇妙な風景だった。
いま、この部屋にはモニターもなければ、医師もいない。住み慣れた家のなかで、家族に囲まれている。
午後9時すぎ、母の呼吸の間隔が長くなってきた。
「もう、いいよ。そんなにがんばらなくて」
「ほんとうに、長い間、ありがとう」
口々に声をかけると、不思議なことに、母の両の目尻からすうーっと糸を引くように涙が落ちた。二筋、三筋と、耳元を濡らす。
まもなく、呼吸が止まったように見えた。口は半開きのまま、動かない。枕元にいた私は静かに手をかざして、母の両の瞼を閉じた。続いて、父親が立ち上がり、ベッドを囲む十数人に向かって頭を下げた。
「ありがとうございました」
死を認めたのは、結婚45周年を12日後に控えた父だった。
■最後に涙を流したということ
35年以上暮らした家で、母は逝った。
ただ、本当に家で死ねてよかった、と母が思ってくれたかどうか、私にはわからない。
もっと苦しみを取り除くことができたのではないか。もっと望んでいたことがあったのではないか。いまも、永遠に答えをえられない問いを繰り返してみることがある。
そんな思いを漏らしたとき、臨終間際に看てくれた呼吸専門の理学療法士が、こう言ってくれた。
「最後に涙を流したというのは、苦しまなかったという証拠です。人間、リラックスしていないと涙は出ません。お母さまは心を開いていらっしゃったのです」
(止)
編集者注・これは『訪問看護』11月号(医学書院)に掲載された原稿の再録です