読み物清武の乱に思う

▼バックナンバー 一覧 2011 年 11 月 28 日 魚住 昭

12月4日は7年前に亡くなったノンフィクション作家の本田靖春さんの命日である。
 
 できれば今年も富士山麓のお墓に参りたいと思う。雄大な自然に包まれながら本田さんの墓前で手を合わせると、なぜか心がスーッと落ち着くからだ。
 
 本田さんは読売社会部の黄金時代を担った記者だった。1962年から足かけ5年にわたって彼が繰り広げた「黄色い血」(ウィルス汚染された売血)追放キャンペーンは、日本の献血制度確立の起爆剤になった。
 
 71年に読売を退社、フリーの作家になってから上梓した『不当逮捕』や『誘拐』は戦後ノンフィクションの金字塔として今も広く読み継がれている。
 
 その本田さんの絶筆『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社文庫)の冒頭に社会部記者 気質という言葉が出てくる。「権威とか権力とかに、おいそれとは恐れ入らない」精神のことで、本田さんが生涯保ち続けた姿勢でもある。同じ本の中にはこんな言葉も記されている。
 
「記者はおのれを権力と対置させなければならない。これは鉄則である。権力の側に身をすり寄せていけば、そうでなくても弱い立場の人びとは、なおのこと隅っこに追いやられる」
 
 これほど社会部記者にこだわり続けた本田さんが読売を辞めたのには理由がある。社主・正力松太郎氏による紙面の私物化に我慢がならなかったからだ。
 
 正力氏は読売グループの企画や事業を、その進捗状況に応じて逐一記事にさせ、あるいは自分に「賓客」があるたび自己宣伝の記事を書かせた。こうした正力物がひどいときには3日 とあげずに社会面に掲載され、読者からの苦情の電話が殺到した。
 
そんな提灯記事を書かせられる記者だってたまらない。職場の空気は見る見る荒廃した。
 
 たまりかねた本田さんが「正力物取材を全員で拒否しよう。辞表をそろえて徹底抗戦し、みんなで記者会見すれば他紙もきっと取り上げてくれる」と社会部の仲間たちに必死で訴えた。
 
 だが、この提案は受け入れられなかった。逆に「生活がかかってるのに辞表をそろえろというのは不穏当だ」とたしなめられた。本田さんは仲間に失望し、ついに退社を決意した。
 
 やがて正力氏は亡くなり、「販売の神様」と言われた務台光雄氏が読売の全権を握った。その務台氏が91年に死ぬ前、後継者として指名したのが現読売新聞主筆の渡邉恒雄氏で ある。
 
 渡邉氏は政治部記者時代から中曽根康弘元首相ら政官界の要人たちと密接な関係を築き、社内の派閥抗争を勝ち抜いてのし上がってきた男だ。彼が実権を握って以来、読売の論調は右旋回し、“渡邉社論”に反する記事の掲載は許されなくなった。 抵抗する記者は排除され、社内民主義は機能しなくなった。
 
 本田さんはそんな読売の現状を憤り、生前こう語っていた。
 
「僕らの不幸は最も優秀な経営者をボスとして頭にいただいていることだと、いつも思っていた。正力さんは天才事業家だけど新聞をチラシ広告と同じぐらいにしか考えていなかった。務台さんも『販売の神様』であってジャーナリストじゃない。その後を受けた渡辺さんもジャーナリストというより政界の人間ですよね。だか ら読売でジャーナリストであろうとすると必ず上とぶつかることになる」
 
 11日に渡邉さんを“告発”した巨人軍GMの清武英利さんはかつて読売社会部の敏腕記者として名を馳せた人だ。『週刊朝日』によると彼は「我慢して世代交代を待ったほうがいい」と忠告する弁護士に「ここで黙っていたら、社会部記者としての自分を否定することになる」と言って会見に臨んだという。 巨大な権力者にひとり立ち向かう彼の姿に、私は本田さんの時代から地下で息づいてきた読売社会部の記者気質を感じた。前途は多難だろうが、初志を貫いて独裁体制に風穴を開けてほしい。本田さんも天国からエールを送っているはずだから。
 
(了)

(注・これは週刊現代連載「ジャーナリストの目」の再録です)