月刊日本保守論壇は、何故、かくも幼稚になったのか?
■渡部昇一は、『沖縄ノート』を読んだのか?
保守論壇では、誰もが大江健三郎の「名誉毀損」を自明のことのように語るが、実は大江健三郎の『沖縄ノート』も、そして曽野綾子の『ある神話の背景』も、ほとんど読んでいないというのが保守論壇の現実である。それでは百戦錬磨の文筆家・大江健三郎のレトリックと論理に勝てるわけがないだろう。保守論壇に蔓延している「大江健三郎批判」の多くの言説は、他人の言説の「引用の引用」や「伝聞」や「又聞き」を根拠にしている。「沖縄集団自決裁判」に積極的に発言している渡部昇一や秦郁彦でさえそうなのだから、他は推して知るべきである。要するに、渡部昇一も秦郁彦も、そしてこの裁判の原告等も、厳密な意味で、大江健三郎の『沖縄ノート』を読まずに議論し、激怒し、告訴しているわけで、言い換えればそれは、この問題のもう一人の主人公である曽野綾子の間違いだらけの「大江健三郎批判」を鵜呑みにし、しかるに『ある神話の背景』の「大江健三郎批判」の部分は、単行本刊行時に意図的に後から書き加えられたものに過ぎないのだが、曽野綾子が各所に、『ある神話の背景』執筆の動機の一つだと書いている大江健三郎の『沖縄ノート』の言葉(「罪の巨塊(罪の巨魁)
)とその批判を、つまり「曽野綾子神話」を、そのまま鵜呑みにして議論しているということである。前号ですでに書いたので反復を避けたいのだが、一例だけ挙げておこう。
≪「集団自決」の問題で一番事実を伝えていて優れているのは、曽野綾子さんの『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』(ワック出版。一九七三年文藝春秋社より発刊された『ある神話の背景』を改題、改訂)です。沖縄に関するインチキ報道の中心となったのは、昭和二十五年に沖縄タイムス編著で朝日新聞から出版された『鉄の暴風』という本に基づいて、中野好夫氏らが岩波書店から出版した『沖縄問題二十年』(岩波新書)、大江健三郎氏が同じく岩波書店から出版した『沖縄ノート』です。(中略)曽野綾子さんはこれらの書籍を読んだうえで、次のようなことを述べています。「このような著書を見ると、一斉に集団自決を命じた赤松大尉を人非人、人面獣心などと書き、大江健三郎さんは『あまりに巨きい罪の巨魁』と表現しております。私が赤松事件に興味を持ったのは、これほどの悪人と書かれている人がもし実在するならば作家として会っておきたいという無責任な興味からでした。……」
そして曽野綾子さんが足を使って綿密な取材をした結果、ついに赤松大尉が「集団自決」命令をしたという事実はどこからも出てこなかったのです。≫ (「歴史教育を歪めるもの」「will 2007年12月号)
この渡部昇一の議論は、「軍命令説」は、「遺族年金」目的の自作自演の創作であった……という話と共に、しばしば保守論壇誌等で繰り返されているステレオ・タイプ化した紋切り型の議論であって、別に渡部昇一が独自に展開している議論ではないが、いずれにしろ、この発言から、渡部昇一が、大江健三郎の『沖縄ノート』を読んでいいないばかりでなく、おそらく曽野綾子の『ある神話の背景』すらもろくに読んでいないだろうということが、私にはわかる。渡部昇一は、≪「罪の巨塊(巨魁)」=「赤松大尉」≫と解釈し理解しているが、実はこれがとんでもない誤読と誤字に基づくことは、すでに述べたので繰り返さない。渡部昇一は、誤字か校正ミスかわからないが、ご丁寧にも、「罪の巨塊」(物)を、「罪の巨魁」(悪党、人間)と書き換えているが、これも曽野綾子直伝の「誤字・誤読」の受け売りである。法廷で、この「誤読」問題を指摘した大江健三郎証言に対して、当人の曽野綾子だけではなく、保守派の面々も、まともな反論もできないままに、「卑怯」「言い逃れ」「論点のすり替え」と感情的な批判や罵倒を重ねているが、いずれも恥の上塗りに過ぎず、どう見ても大江健三郎の言い分の方が論理的である。たとえば、裁判を傍聴した秦郁彦はこんなことを書いているが、笑止というほかはない。
≪午後早く再開された法廷ではまず原告の赤松秀一氏(渡嘉敷島守備隊長だった故赤松嘉次元少佐の実弟)、続いて大江氏の尋問となったが、軽い飄逸味を混え鋭く切り込んだ原告側弁弁護士の反対尋問に対し、大江氏は言い逃れ、はぐらかし、論点のすり替えなど詭弁としか言いようのない非常識、不誠実な答弁をくり返した。私をふくめ傍聴者の多くは呆気にとられたが……≫(「徹底検証沖縄集団自決と大江健三郎裁判」「諸君! 2008年2月号)
私には、秦郁彦が、何を根拠に、大江健三郎の証言を、「言い逃れ、はぐらかし、論点のすり替え……」と言うのか解らないが、この人が、文学や文学者というものに無知だと言うだけでなく、文学や文学者を軽視し、文学的な思考まで蔑視しようとしていることは明らかだと思う。こういう人に、「科学で滅びないためには、芸術が必要なのだ」(ニーチェ)と言ってみても豚の耳に念仏だろう。ともあれ、大江健三郎の「テキストの誤読」批判の意味も理解できずに、ただ「呆気」に取られている歴史学者に「歴史の真実」なるものが見えるものだろうか。曽野綾子はこういう無知無学な応援団に任せるのではなく、曽野綾子自身が堂々と反論し、さらに大江健三郎が「罪の巨塊」と書いた文章を「罪の巨魂」と誤記して引用した本を今でも発売し続けているという問題についても釈明すべきである。
(つづく)
「月刊日本」2008年2月号より転載