田原総一朗ノンフィクション賞選考会第1回 田原総一朗ノンフィクション賞選考会
第1回田原総一朗ノンフィクション賞が、2009年11月30日に発表された。
審査員は、魚住昭、坂本衛、佐藤優、田原総一朗、中沢けい、宮崎学(五十音順)。
主催は、フォーラム神保町。
審査の結果、大賞は該当作なし。奨励賞に『花と兵隊』松林要樹(映像部門)を、佳作に『にくのひと』満若勇咲(映像部門)、『アフリカ大戦の亡霊』大瀬二郎(活字部門)を選んだ。
選考会は、11月9日、審査員全員が出席して行った。その審査経過を、3回に分けて掲載する。
──応募作品数は289。
田原 進行は魚住さん、お願いできますか。
魚住 これから最終選考のやり方をご相談したい。
佐藤 まず、その前に決めないといけないのは、他のノンフィクション賞と違うのは、選考のプロセスをオープンにするということだと思うんですよ。だからそこを意識して議論していきましょう。それが一番話題になると思うんです。
田原 魚住さん、提案ですけど、選考委員が印象に残ったというものをあげてもらって、そのなかから選んでいくほうが。
全員 じゃあ、それでやりましょうか。
魚住 じゃあ、宮崎さんから。
宮崎 まず、映像と活字があるわけですけど、二つに分けたほうがいいし、映像は坂本さんのほうでかなり絞り込んできてくれていますので、そちらのほうから話した方が話に入りやすいんじゃないかなと思うんです。坂本さんの評価(注:審査員は、坂本衛氏がまとめた映像部門の講評を事前に読んでいる)に関しては、私もほぼ賛成です。最終的には二つに絞り込んできてくれている。これは活字についても言えることなんですけれども、映像の場合、手ぶれがあるとか、角度がわからないとか初歩的な問題、活字については誤字脱字があるとか、変換ミスがあるとか、それはマイナスポイントとして見ておかなければならないひとつの基準としてあるのではないかと思います。
佐藤 賛成です。形式的なことはすごく重要だと思います。
宮崎 いいものだろうと思われても、そこの所に問題がある場合はダメという。切っていく作業になるわけですから、やむを得ないんじゃないかなと思います。そこで映像の問題に入っていこうと思うんですが、全部で映像は……17本。それで坂本さんは『にくのひと』と『花と兵隊』、二つに絞られていると思うんですが、僕も他の作品にくらべて抜けていると思うんです。他の作品は大学の映像研究会の作品の水準をこえていないし、一体、最後に何を主張したいのかよくわからないものが多かったように思います。映像のほうに賞を与えるとしたら、『にくのひと』と『花と兵隊』に与えるべきじゃないのかなと思っています。
坂本 私は、映像の応募作はすべて詳細に見ましたが、活字の審査には関わっておらず、映像と活字の比較については他の審査員に一切おまかせすることを、まず断っておきます。映像部門については、どうしても大賞を出すべきだと思うものは、今回はありませんでした。しかし、次の2本は、大賞ではない奨励賞には十分値すると高く評価します。
『にくのひと』は、今回いちばんおもしろい。兵庫県・加古川食肉センターのルポで、牛を殺し解体する屠殺場に働く人たちと仕事を、新鮮で素直な興味から「何ですか」「どうやるんですか」「どう思いますか」と聞いていく。被差別部落出身者もそうでない人もいる彼らも、明るくユーモラスに応える。結果、明るく楽しい上出来の「食肉解体業+部落問題入門」映像が生まれた。工場内部を説明するおじさんコンビが、実にいい味を出しています。理事長も、働く若者やおばさんや若い女性も、みんな表情がいい。「屠場は屠殺場の略だよな」「野球チーム名をSKエッターズにしようかと」など言葉狩りのアホらしさ、見学の女子中学生に顔を背ける子もいて残酷だが誰かがやるべき仕事であること、厳しいBSE対策などもよく伝えている。ただし、エグい。牛から血がどくどく流れて、すごい。冒頭に「動物から大量の血が流れる映像を含む。人や年齢によってはショッキングかもしれません」と注意書きが必要です。
もう一つは『花と兵隊』。戦後もアジア各地にとどまった日本兵の話で、監督の意図からしても、登場人物の重複という点でも、今村昌平「未帰還兵を追って」の続編といえる作品です。淡々と撮り押しつけがましくないことで、返ってじわじわと戦争、祖国、家族について考えさせる佳作。今村作品は71年東京12チャンネル放映だから、田原さんにゆかりありともいえるかも。ただし、続編という性格も含めて、全体としてやや弱い印象です。第1回監督作で受賞歴もないから、今後におおいに期待したい。この意味で奨励賞はありだと思います。
宮崎 その中にあっても、『にくのひと』の問題は、いわゆる肉の解体の現場であって、これは実は、もう少し違うんじゃないかな。現場で肉の解体作業をやっている労働者のもつ悩みみたいなものもあるんですね。そこのところにあまり迫れていない。工程だとか、そういうところ。本当は実はそこで働いている人たちは毎日生命というか、命を奪っていく仕事をやっているわけですから、それに対する、日々持たざるを得ない精神的なダメージが出ていないので、ちょっと弱いと思いました。
『花と兵隊』については、坂本さんが言うように、今村昌平のテレビドキュメンタリー『未帰還兵を追って』(1971年)をなぞっているようなところもあるんですけど、問題意識としてはこちらのほうがむしろ、僕なんか共感できるところが多くて、ビルマのカレン族という少数民族から問題意識を立てて言っている。その立て方は比較的まっとうで、正攻法なんですね。ただ、映像の技術的問題、僕はわからないものですから、松林くんという人なんですが、1980年として、二十歳代後半の人で、二十歳代に撮った作品なんですよ。いまどきの二十歳代の人の持つ問題意識としてこんな人もいるんだと、頼もしさと不安さを感じられる人だったんですね。こちらのほうが映像として興味がもてました。
肉の解体現場を、食物調理のプロセスとして撮った?
魚住 『にくのひと』の現場が違うんじゃないかというのは、どういう風に違うの?
宮崎 現場で肉の解体をしている人たちのもつ社会的、精神的な意識があるでしょ。
魚住 それはよくわかったんだけど、現場自体が違うんじゃないかというのは、近代化されてないという意味?
宮崎 近代化されてないんです。製品を作っているところは近代化されているんですけども、牛を追い込むところとか、輸送するときから作業は始まっているわけでして、やるんだったら全過程を撮ってほしかったなという感じがしているんですね。本当はもっと厳しい現場なんですね。
田原 ただ宮崎さんね、そういうものを紹介した映像はないんじゃない? 具体的に。僕はね、あれでも十分に紹介できたと思っている。血がどくどく流れるところなんかね。それから僕は宮崎さんの不満なところを買っているの。軽さ。被差別部落の問題に軽くすっと入っていく、あの素直さ、軽さがね、だからああいう映像が撮れたんだと思っている。あそこがもしね、宮崎さんみたいにこだわったら、取材拒否されたと思う。
坂本 そもそもね、ほとんど取材に応じないんですよ。
田原 僕もやったことあるからよく知っている。
宮崎 そうですね、ただ映像になったのは初めてではない。
田原 だけど、血が流れている映像を見るのは初めて。ぼくは品川で撮影したけど、相当のところまで取材している。
宮崎 だから逆に言うと、取材をOKしてもらったということがあると思うんですけど、現場に行っていろいろ説得するんでしょうけど、それも取材対象と取材する側との人間の間でのある程度の妥協の産物で生まれてくるわけでしょうけれども……。
田原 だけど宮崎さん、言うのは正論でいいけど、家畜処理場を突っ込んでやってる当事者がいやがるところまでは取材できないと思う。そりゃ、宮崎さんと被差別部落の問題をテレビでやったのを見ても、やっぱりある程度向こうが取材に応じるギリギリの線というのはあるわけで、それは素直に入っていくのはね、わりに買うところがあるんですね。
坂本 たぶん作り手の意思も、今回は軽さでいこう、明るくいこうぜと、きっと思ったんですよ。宮崎さんがおっしゃる葛藤とか、精神的な、部分まで踏み込むと重くなるし、それがくっつくとうまく成立しないと思って、とりあえず今回はないよと決めていると思いますね。
中沢 たぶんね、ヒラメを刺身にするレシピをドキュメンタリーで撮影しても誰も怒らないと思うんです。クジラを刺身にするレシピを撮影したら、これはいま政治的に怒る人がいると思うんですよ。お肉はクジラとヒラメの間くらい、ドキュメントとしての印象の強さは。お肉を食べながら青年がインタビューを受けているじゃないですか。つまり、私たちの食べ物をつくるというのは、小学校か中学校の家庭科みたいにこういうものですよ、というところから大きく逸脱しないように工夫したと思うんですね。病畜をやるところだけは、ちょっとだけそれを見せているんだけど、獣医の先生に病畜という言い方が間違っているんだ。骨折したやつは病気じゃないというインタビューをいれることで、食物の調理プロセスとして見せようと。私たちが食べる。そこをすごく意識して撮っているように思ったんです。
田原 それからもうひとつ、被差別部落と濃密な関わりがあるわけで、その問題に全く触れないのが普通なんですよ。あれはまさにそこのところにストレートに入っている。
中沢 青年のガールフレンドのインタビューまで入れてたでしょ。中で言ったほうがいいのか、言わないほうがいいのか。言わないで忘れていくという意見もあれば、意識しないとダメなんだという意見もあって。よく聞いていると、その意見自体も言ってる人の意見がねじれているのよね、揺れているというか。そこを丁寧に撮ってるんで、おそらく撮りたくないものは撮らないという制作意識は強く働いていたように思うんですがどうでしょうか。
魚住 佐藤さん。
佐藤 …………確かによく考えられているとは思うんですよね。たとえばぐっとみんなに引き寄せてくるところで、介護の問題とからめてだしてくるでしょ。それこそマルクスの『資本論』冒頭の価値形態と一緒なんだけど、このものと等号でつなげるのか、このものと等号でつなげるのか。平たい言葉で言うと職業に貴賎なしという、その議論で最後落そうとしているんですね。ただそこのところでそれでは収まらないところがでてきて、きれいに撮ろうとしているけど、居心地の悪さがあるでしょ、それがこの作品のいいところだと思う。
それから、さっきからずっと黙っていたのにはひとつの理由があって、田原総一朗賞と名前を付けたこととの関係なんですけれども、じゃあこれが出ることによって現実にどれだけの影響があるのか? 僕の頭にあるのは田原さんという名前を付けた賞の一番のポイントは、ジャーナリズムは第四の権力とか言われているんだけども、実際は第1の権力で、現実に影響を与えるんだと。ジャーナリストとしてきちんとやっていくということは何らかの意味において権力をもつということなんですね。それで権力党員だということを意識しながら物事に影響を与えてくる。そのときにこの2つの映像というのが、賞をだした場合に現実にどう影響を与えるのかな、そんなことを考えてうまい言葉が出てこないんですよ。この食肉処理場の映像を見て、たしかに入り口のところで被差別部落の問題にすっと入っていけるかもしれないと。しかしすっと入っていけて、そのさきのところで被差別部落の問題に関してどういう結論が出てくるのかなと。そうすると宮崎さんが言っていたところの、重い話を軽くできないところがある。重い話は重く入らないといけないのかなと。
重いものは何か。
田原 でもね、重い話を重く入ったら、あの取材はできなかった。ということは正論は成立するけど、あの作品は成立しないですよ。
中沢 重いのはどこなのかしら。血が流れること?
佐藤 いや、命を奪うことでしょう。
中沢 でもクジラだって命を奪われるし、鶏だって死ぬのよ。
田原 もっと重いのはね、日本では差別されている人たちがその職に就いているということですね。
中沢 そうですね。
田原 差別されている人たちがどういう思いでやっているかというのは、あの作品で出ていたと思うんです。いまでもね、新聞でも何でも被差別部落については全くタブーなんです。この場だからあえて言いたい。厚労省の女性局長が逮捕された。なぜ新聞は局長のことしか書かないのか。あれは被差別部落と関係ありですよね。濃密に。一切書かない。どの新聞も。
宮崎 作品の話に戻りますとね、屠殺の現場というのは工程自体は非常に近代化して、工場化しているんですけど、ひと昔前の屠殺の現場はいまのような現場ではなかったんですね。牛を細い通路に追い込んで斧で頭をかち割るんですね。
それが近代工場化されたいまの映像になったんだろうと思うんですが、僕はこういう意見には非常に賛成できない部分がありまして。タブーだからそれを明るみに出すということの意義はどこにあるのかという思いがあるんです。タブーはタブーでおいておいたほうがいいのではないかという考えなんですね。これはタブーにも至っていないという。タブーを明らかにするんだったらもっと本当のタブーを明らかにしようじゃないかというのがありましてね、ということはこの映像を見る人に問題意識を与える。入りやすいような問題提起をするという物事の考え方が僕は気にくわない。問題意識を与えようということであれば、自分の問題意識を赤裸々にだして、世の中に問うべきことであって、それがたくさんの人に見られようが見られまいがあまり関係ない。これはそういう賞じゃないですか。一定の限定された人たちに対してメッセージを出しているということなのですね。僕はそう思っているんですよ。
佐藤 ちょっと議論ずらして『花と兵隊』のほうですよね。先ほど宮崎さんから問題提起があったと思うんですが、映像の作り、技術的な観点からするとそうなんでしょうか。
坂本 あまり問題にならないと思いますよ。
佐藤 基準はクリアできているということですか。
坂本 もちろん。
田原 もっと言えば、映画でもテレビでも絵がなければダメという考えは僕は全くないです。それが追求するものがどういうかたちであれ。僕がこの作品でこだわったのはね、今村昌平さんのやつを見ています。そこからは突き出してはいない。
佐藤 構造としてエピゴーネンだということですね。
田原 超えてない。
佐藤 今回の最終選考に残った活字作品にもエピゴーネンみたいなものありますからね。
坂本 私が弱いと言ったのもそこです。
魚住 どこの部分ですか。今村昌平さんの亜流的な部分というのは。
田原 同じ素材を、同じように追ってね。
坂本 テーマ。
中沢 今村さんが取材したときは皆さんもっとお若かったんですよ。
田原 それからもっと言うとね、宮崎さん嫌がるけど、今村昌平さんが現地に残った日本兵を追ったのはタブーだったんですよ。世の中的には。そのタブーに挑んだということがひとつ大きかった。しかもそういう人は悲惨でなければならない。世の中的には。違うんだぞという。その発見です。それがとっても強烈だった。
坂本 今村さんがやったときは1971年。田原さんがちょうどやってた頃。今村さんの作品に出てきた主人公のひとりが今回も出てくる。今村さんの作品に出てない人も出ているんですけど。
佐藤 僕の場合はテレビ全く見ない人間で、映像も年に2回か3回しか見ないんですね。ですからこの2つが本当に素晴らしく見えるんです。活字に対しては厳しくなるんだけれども、映像に関しては、年齢見ても、こんな若い人たちがこんなにきちんとやっているじゃないかと。
坂本 とくに23歳でこれをつくったのはたいしたものですね。『にくのひと』のことですが。
佐藤 これひとつに絞るの? ということになってしまう。
田原 23歳だからできる映像です。
坂本 へんに、ディティールやメカの細部にこだわっていますね。そこが面白い。
中沢 機械に、マシンに。
坂本 刃がここでこうねじれているんですねとか、非常に素直なんですよ。
中沢 解体する技術に非常に素直な興味を持っているの。
部落差別はなお、タブーなのか?
魚住 僕はどちらかというと宮崎さんの評価に賛成なんだけれど、『にくのひと』に関して言えば、部落差別というのがいま、タブーなのか? という状況があるんですよ。
田原 タブーですよ。
魚住 そうかな。あまりそうは思わない。
中沢 ちょっと質問していいですか。お二人にその点を聞きたいんですが。私もこの仕事を30年くらいしていて、肩に手を置く場面で、「よ」の次に「っ」と送ったら問題で大騒ぎになったという経験を以前からしていますから、おっしゃるとおりタブーだというのは理解できるんですが、それと現実世間の人がタブーと感じているタブーとの間に亀裂が生じてきたから、『朝まで生テレビ』ができたわけでしょ。とするといまこの問題は、メディア側のタブーの感覚と、実際同和問題の場で仕事をしたり苦労している人のタブーの感覚の間にどのくらい亀裂があると思いますか。
魚住 かなりありますね。
佐藤 ただ、被差別部落の場合は、解放同盟であり、旧全解連であり、それなりの取り組みをしてきたんだけれども、逆にタブーではなくなっているという側面から見ると、アイヌについて言えば、僕は状況が一層酷くなっていると思う。たとえば小林よしのり氏のような人間が、アイヌ人は毛深いなどと『サピオ』に書いて、それに対する抗議を当のアイヌ人の多原香里さんがしても、編集部はそれに答えないで無視している。『部落解放』も多原さんの批判論文を掲載している。それでも小林氏はまともな答えをしていない。もし逆に部落解放運動が強ければそういうことにならないですよね。
田原 それはね、こういうこと言うとよくないけれど、力ですよ。
佐藤 そう。力。
田原 アイヌの人たちは力ないからね。無視しても、アイヌの人が小学館に押し寄せて『サピオ』が廃刊になることはないわけ。たとえばユダヤの問題で文藝春秋の花田紀凱さんが編集長をやっていた『マルコポーロ』が廃刊になったんですよね。廃刊にする力があるかどうか。部落解放同盟にはあると思う。まだ。
魚住 それはタブーのもつ力という側面がすごくあったと思うんですよ。タブーがなくなることによって、解放同盟の力って落ちちゃったんですよ。
佐藤 解放同盟の力が落ちたとしたら、これは魚住さんの『野中広務 差別と権力』と関係することなんだけれども、麻生太郎の野中広務に対する被差別部落出身者を総理にはできないんだという話ですよね。ということは、タブーはあるんですよ。しかしタブーが変容してるんですよ。だから、あの話が糾弾対象にならない。
田原 それはいいんですよ。宮崎さんの意見でいいんだけど、それは活字の世界と映像の世界では全く違う。
魚住 たしかに。
田原 映像の世界ではまったくタブーです。新聞の世界でも全くタブー。雑誌は違う。
中沢 もうひとつおうかがいしたかったのは、タブーは力だとおっしゃいましたが、力とお金の関係がどうお感じになっているかうかがいたかったんです。アイヌ関係の政府予算というのは数字は存じませんが、それほど大きくはないと思うんですね。被差別部落関係の政府予算は公表されていない部分も含めて非常に大きいし、自治体関係がいま言った厚労省の局長の話も含めて、ストレートに行政予算としてついてくるもののほかに、いろんな業務上の問題として迂回してついてくるものがあって、その意味でタブーとお金は結びついていると考えていいわけですね。
魚住 状況としては、かつてはものすごく大きかったわけです。それがどんどんどんどん細っていって、いまどの程度なのかよくわかりませんけれども、それと並行した形で解放同盟の力も落ちていく、つける予算も減っていく。佐藤さんがおっしゃったようにタブーが変容している。それらは全部、3つ並行して起きているということだろうと思います。
坂本 同和対策事業費は33年間の全国累計で15兆円。東京都だけでも累計で一兆数千億円じゃないですか。
中沢 以前、私がかかわった事件で、大阪の病院の医療費請求の問題がありました。表面的には。実際には解放同盟の人が理事やっている病院なんで、フリーパスで大阪からの助成金がついていたんですね。それをね、関西テレビが助成金の問題でやろうとしたからこんがらがって、解きほぐすのに大変な騒ぎになったという事態があったんですよ。映像の問題にかえりますけど、食肉業者が血をいっぱい流すところが残酷だからタブーだと言っているうちはタブーをどう捉えるかという議論が非常に瑣末なところに、はっきりいえば映像の中に出てくる女子中学生のレベルに留まる危険がありませんか。
佐藤 そう思います。
中沢 私は個人的には、オバハンとしてはあの中学生、ひっぱたいてやりたかった。だってクジラやったって同じくらい血が出るんですよ。クジラはそんなに差別はなかったけど、肉は差別されたと言うのはもっといろんな歴史があると思うんですよ。だけど少なくとも今この人たちはこういう業務をやっていて、皆さんの役に立っていますと言う一番単純で率直で中学生が気持ち悪がる部分がクリアできない限り、魚住さんがおっしゃるタブーの変容の問題もうまく視覚表現に訴えながら解決していくことは難しいんじゃないでしょうか。活字ならできると思うんです。
佐藤 活字と映像は基準が違うので、率直なところを言うとこの2つの作品は多いに称揚していいと思うの。今の日本の中で。ちょっと乱暴かもしれないけど、2作受賞でいいんじゃないかな。
田原 あるいは2作佳作。
佐藤 もっと単純に言うと、人に見せたいか。僕は見せたいと思う。
中沢 私も見せたい。
佐藤 じゃあ、この本の中で何冊人に見せたいかと言うことになると、僕の場合、基準が違うわけ。ほぼ徹夜でこの本と映像もう一回見直してきたんだけど、映像は見せたいと思うし、僕がお金払っても何枚か買ってこのDVD配りたいと思うの。
肉を食べずに日本人の食生活は成り立つ?
中沢 私ね、差別の問題よりもね、お肉食べないと今の日本人は生活できないようになっているの。「わかっているの? 江戸時代、鶏肉と兎肉でがまんしていた人たちと違うのよ」。そういう映像として見せたいですね。主題は宮崎さんがおっしゃる現状もいろいろ聞いてはいるんだけれど、とにかくあの中学生の女の子をどつきたい(笑)。
田原 でも、あのひっぱたきたい面白いじゃない。あれがいたから非常に面白い。
中沢 だからそれが面白いの。それを側で見なさいと言っている先生の及び腰の反応も面白いわけ。
坂本 メディアの問題でも、屠場ならいいが、屠殺はだめで屠畜と言い換える。だけど、「屠場なんて屠殺場の略だろ、あんなもの」と本人たちが言っているでしょ。あれがマスコミのバカさ加減を撃っている。
中沢 メディアも硬直化するけど、運動する人たちも硬直化するんですね。
坂本 相手がバカだから、こっちもバカなことを輪をかけてやるみたいなところがある。テレビディレクターがCM明けで本編に入るまえに、5、4、3、2、1と指を折っていき、最後のほうは口に出さずにやるでしょ。4のところの手にぼかしをかけた放送局のバカがいたんですよ。それで逆に糾弾された。「逆差別だ」とね。
佐藤 いま中沢さんの話を聞いて思い出したんだけど、沖縄返還密約問題で話題になっている、吉野文六さんっているでしょ。この人のドイツ語の手記がある。何十年かたって、ドイツに渡ったときに書いた手記で、アメリカに渡ったときのことを詳細に日記に書いているんですよ。そのなかでシカゴの食肉処理場にいったところがある。当時の日本大使館のシカゴの総領事から食肉処理場に行け、と言われて、若い外交官を連れていくわけ。そこで機械的に牛の頭にハンマーを打ち込まれて、牛が鳴くところの姿を吉野さんはドイツ語で書いているんですね。アメリカの本質というのはここにあるんだと。この作業が平気で出来るところだと。これがアメリカ人のすごみだと。こんなことを戦時中に書いているわけ。
中沢 そんなことを言うけど、私は自宅でハマチの養殖をしていたんです。小学校の時、おじいちゃんが生け簀からハマチをすくってくれたのを私が棍棒を持って待っていて、叩いたんだもの。漁師がやっていいことが、ガタイが大きくなると衝撃力はすごいけど……。それをどう考えたらいいんですか。
佐藤 僕はキリスト教徒だからよくわかるんですけど、キリスト教徒は動物殺すことなんとも思わないですよ。
田原 なんでクジラはダメなんですか。
佐藤 それはアメリカがキリスト教から外れてきているから。
田原 違う、違う。キッシンジャーがなぜ、日本に対してそれを言うの?
佐藤 キッシンジャーはキリスト教じゃない。
田原 まあいいや。それは屁理屈だよ。
佐藤 屁理屈じゃなくて、人間の刷り込みの問題です。動物というのは息をしている。キリスト教、ユダヤ教の中では息をしているだけではだめで、人間にはスピリッツがあるということで、神様がキスして息を吹き込んでいる。そこで最初から差別化するものを刷り込まれているわけなんです。そこで大脳生理学が発達してくるでしょ。脳のレベルが高いということは人間に近いんだということになるから、猿とかクジラというものに対して過剰な同情が起きるんです。でもこれは全部プロトタイプがあるんです。だから動物を殺すことに対して非常な抵抗感を覚えるということは、明らかに非ユダヤ・キリスト教文明なんです。
宮崎 あとタブーの問題で言いますとね、部落解放同盟の運動と発生している利権構造というのが、ものすごくねじれはじめているというのがあるんです。それはなぜかというと、部落差別のカテゴリーが変化しているからなんですよ。混住率。被差別部落の中に被差別の住民がいる率は40%切っているでしょ。一般の人が過半数になっているんです。そのようにかつての部落解放運動は地域、だから同和地区指定をするわけなんだけれども、地域指定をしたところで政策的なものを組み立ててきたというやり方が成り立たなくなってきているんですよ。進学率の問題にしろ、識字率の問題にしろ、病気の問題にしろ、かつてのカテゴリーでは説明つかないところにきている。かろうじてあるかなと言われている結婚差別の問題についてもかつての数字ではないわけですよね。運動が目標としていたものがほぼ達成されつつあると言うことは言える。しかしながら一方においては、佐藤さんおっしゃったように、新しい形での差別はものすごい残酷な形で広汎なかたちで生まれている。ネット上の差別を見ても明らかななんです。今回の女性が睡眠導入剤を飲ませて、殺した。殺さない。という話がありましたが、いま「2ちゃんねる」では、あれば被差別部落だという話になっているわけです。
中沢 なぜ、ネットはああいう風になるんですかね。部落か朝鮮人でしょ。
田原 だって、それは便所の落書きだもの。無記名だから。
宮崎 匿名性があると言うことは意識の中においては差別の裾野は広がっていると言える。意識の中では。
佐藤 ただここで留保しておかなければならないのは、便所の落書きとの違いがあるんですね。便所の落書きは匿名。でもネットは追跡できる。
田原 だけど、それはそうなんだけど、本人たちはそう思っていない。
佐藤 だから、追跡できるものに対して、追跡されると言う意識を持たないのか。これが怖いと思う。だから権力の側から見ると、追跡しているんですよね。
宮崎、魚住 うん。
中沢 すみません。お話をもとに戻して、私の率直な感想を申し述べれば、第1回目ですから、正賞の受賞者をだしたほうがいいと思います。卑近な例で恐縮ですが、駄菓子屋のガムだって、1等賞が残っていないと誰も引く気がしない。だから23歳の『にくのひと』を作った人を正賞の受賞者にするのは私はもしそういうご意見が他にあれば賛成したいと思います。それでもうひとつの『花と兵隊』は非常に画像が美しくて、現代の日本の若い世代の美意識やセンスの高まりを非常に感じるんです。芸術的な評価と言うのはできるんです。それからもうひとつ言えば、みんな老いゆく人々で、ご本人も映像の中で生きてないから書かなくても言い、そんな細かいことは、なんて言ってる場面があるんだけど。これが芸術的な評価であれば高い評価をだしていいと思います。ここは今村さんになかった部分、できなかった部分。だけど、どちらかひとつを選べと言われたら、『にくのひと』を選びたい。
魚住 僕は逆ですね。『花と兵隊』をやった若い人は、生と死を真正面から淡々とすーっと描いていますよね。もちろん、かつて戦争があって、少数民族の中に入っていって、ある程度成功した人が多いですね。ああいう人の姿と同時に生まれてきた赤ん坊の姿を入れながら、老いていく人と生まれてくる人。その連綿と続く命というのをすごく静かに淡々と描けているということは、これはすごいよなという。あの若さでああいう目で人間の生きていく姿を捉えることができると言う点については、すごく評価しますね。マイケル・ムーアみたいなインパクトはないんです。ただマイケル・ムーアよりもはるかに質が高いという感じを僕は抱きましたね。
田原 僕には偏見があります。僕はインドネシアに行って取材しました。僕が取材した頃はインドネシア政府は絶対拒否だったんです。その拒否を破るのに非常な努力をしました。表も裏も。今はそれないんだもの。
中沢 なくなったことによって、撮れるものが撮れている気がするんですよ。これはジャーナリストの皆さんに聞きたいのですが、フィクションの世界では手法として確立されているので、作品の中に作品制作者が映り込んで作品の制作意図とかそういうメタフィクションの部分を見せるというのは確立されています。私は見ていて非常に面白いのは、「今言ったことわかるだろ」と言われて、カメラ持っている人間が分かるという顔をどうやってしたらいいのかと悩んでいるところ。ああいうところは非常に面白くて、戦争云々の問題よりも、広くおっしゃった通り、平和な時代の生と死までが映り込んでいる部分が芸術的には面白かったんですよ。ただ、ジャーナリズムとして、ノンフィクションとしてつくるときにはどうなのっていう。
田原 もっと言いますとね。この賞をね、僕が見て、あるいは読んでドキドキする作品じゃないと嫌だと思うんです。魚住さんが渡邉恒雄をやった、読売のドンだから非常にドキドキするわけ。野中広務もいまはどうってことないわけ。だけどあの時は現役で非常に力を持っているから、読むほうもドキドキするわけ。そういうドキドキでいうと、『にくのひと』のほうがドキドキしたなと思ったわけ。非常に素朴な言い方をすると。
(次回に続く)