田原総一朗ノンフィクション賞選考会第2回

▼バックナンバー 一覧 2010 年 2 月 12 日 魚の目

佐藤 手続き的に整理していったほうがいいんじゃないですか。だから映像に関しては賞をだすということに決めて、ペンディングにしておきません? それで活字の話を全部し尽くした後に映像に戻りませんか。
 活字に入る前に言うのも不謹慎なんですが、映像と活字の世界では頭3つくらいレベルが違いませんか。
魚住 僕もそう思った。
中沢 私もそう思った。
佐藤 活字なんていう表現形態なんてやめたほうがいいんじゃないかと。自分自身も含めて。
田原 それは佐藤さんが活字には慣れすぎていて、映像には慣れていないからですよ。
中沢 そうなんだけど。ふたつとも撮った画の主題と違うところで、映った画の力で私たちは解釈して見ているんです。佐藤さんは映像の解釈の能力が以上に高いんです。見たものを言語化して考える力が。ところが、映像を撮っているほうは、見ている側がそこまで考えているとは思っていないのではないか。そう、映ってしまうことのすごさ。
佐藤 映像ですごいなと思ったのは余韻ですね。書きすぎない。話しすぎない。写しすぎない。
魚住 そう。ビルマのあれ(注:『花と兵隊』の一場面)にしても。しゃべったあとにずっと黙っているでしょ。あそこをずっと撮っていますよね。ああいう場面が効いているよね。
佐藤 活字で白紙を2ページ入れたらアウトですからね。
中沢 詩集ならありえますが。
田原 僕、総理大臣2人失脚させました。あれ活字だったら失脚してません。橋本龍太郎さんの時ですよね。僕が聞いて彼が答えられなくて、汗びっしょりかきながら目はこんなになりながら、2分間流しました。これで決まりなんですよ。活字なら何にもないですよね。
 

言葉を支える土台が揺らいでいる

 
中沢 活字に入る前に、みんなダメだみたいな話になりたくないから、すごく率直な感想を申しますと、愕然としました。なぜかというと、60歳。生まれ年で言うと昭和二十四年を境に、活字でモノを描くときの基礎になる文学的教養がこんなに違うのかと。いいかダメかのご議論はこれから承りますけど、上の世代の人が書いているのを読んでいて、この人、文学が分からないなと思っても、文学的教養はある。それより下は、結構本を読んでいるはずなのにどうしてこんな表現しちゃったのかなというような、ミスを見つける。言葉を支える土台の、言葉の領域の狭さを感じているんですよ。
魚住 それはこの中でも、年取った人が書いたものにもそれを感じるんですか。
中沢 はっきり言って60歳が境。極端なことを言えば、全共闘以前に大学に入ったか、全共闘以後に大学に入ったかという感じがすごくしました。
佐藤 まず、『アスペルガー障害とともに』は全く別カテゴリーの話だと思うの。ですから普通の形態における表現形態をするということにおいて、非常に限界がある。その人が書いているもので土俵が違うと思うんですよ。ただ私はこういうものをエンカレッジしたいと思うんですよ。その観点から私は佳作をあげたいなと思う。普通の人が書くよりも数十倍、数百倍の苦労があって活字にしていると思う。ただ、他のところとは並ばないんで、僕は下読みの人に非常に感謝するんですけれども、これを落さないで残してくるというところに、アファーマティブアクションとは別のところの、表現の可能性の問題が提起されている。村上春樹の『1Q84』のなかで入れ子構造にして、「ふかえり」という子が表現するという形で文学のほうでもやろうとしていることですよね。それを平行して気づいてここに載せてくださることに非常に感謝する。
田原 そういう意味ではね、『バリアオーバーコミュニケーション』も違うかなと思う。非常に衝撃を受けたけど、ノンフィクションとは違うと思う。ノンフィクションという範疇には入りづらいかなと思う。
佐藤 われわれが想定している賞を対象とする作品ではないと。じゃあ、これは外側と。
中沢 ノンフィクションの概念と違うと言うことですか。
佐藤 う〜ん。ただノンフィクションの概念に関しては、僕はできるだけ広く考えてやったほうがいいと思うの。フィクションでないものは全部ノンフィクション。
中沢 じゃあ、ひとつご意見を伺いたいものがあって、若い人が書いたのはなんだったのかな。『アイコノクラズム』という作品。本人も作品の中で吐露していますが、フィクションの基準で見るとこの作品は達していないと思います。たとえば町田康とかいろんなかたちでフィクションの作品でこの技法を使って書いているものもあって、そこには達していないと思うんです。これをじゃあノンフィクションのほうで議論の対象にしてもいいのかどうか。書きたいという意志とか、モチベーションとか方法論の面白さはもちろん感じていて。論外という言い方はしたくないんですけど。
佐藤 率直に言って、基準に達していないと思う。どういうことかというと、一番最後のところで、「命がけの飛躍」というのを何度も使っている。この「命がけの飛躍」というのがどういう意味かといったら、マルクスの『資本論』のなかで使っているところの「命がけの飛躍」だけれども、この人は『資本論』を読んでいない。それから柄谷さんの部分をある程度使っているんだけれども、消化できていない。「命がけの飛躍」というのはとんぼ返りみたいな話で、そんなに大変な話ではないんですね。『資本論』の中で。だから議論が浮ついている。これは官僚的な知性の特徴です。なにかそこで語りたい根源的なものをテキストにぶつけているという感じは全く受けなかった。
田原 関心を持っているものをあげてもらったほうが早いんじゃないか。
宮崎 全体があって部分を選んでいくんで、結局無難な選択にならざるを得なかったんですけど、ひとつは前提条件付きなんですけど、『ジャーナリストの文学 ノンフィクション』。これが今はやりのいろんなところのコピペみたいなつなぎあわせたものではないという前提であれば僕はある程度面白かった。それから僕個人の意識としては、甘いという批判はあると思うんですけど、『路面電車を守った労働組合』。この2つが面白いんじゃないかなということですね。他の作品にもそれぞれ感想があるんですけど、それぞれのテーマを書き込んでいくときの前提となる水準というのがあるじゃないですか。それに達していないものが結構多いように思うんですよ。
 たとえば、『帰郷 満州建国大学 朝鮮人学徒 青春と戦争』。このへんも結構取材してあったり、調査してあったり、その点ではノンフィクションとして、やらなければならないことはやってあると思うんですけど、でも満州のことを書いて。朝鮮人学徒と青春と戦争という問題意識を立てていくとした場合にね、たぶん、もう少し基本的におさえておかなければいけないことがあるんじゃないのかというのが、僕の言い分で、たとえば、甘粕正彦の問題とか、部落解放運動の松本治一郎もかかわるんですけどね、たしかに表面に表れたきれいな人たちの確執みたいなところは非常に綿密な取材と資料に基づいているんだけれども、情念の部分がどうしても見えてこないなというのが、僕としてはちょっと。ノンフィクションというのは情念の部分にどう迫っていくのかということになるかと思うんですね。魚住さんが書かれた野中広務も、彼の情念がどこからきているんだろうというのがあった。でも最終的にはよくわからない。そういうことからすると、ちょっとどうかなと。
魚住 僕もね、この本読んで思ったのは、構成が間違えてます。出だしの場面がなんの関係もない。韓国の首相をやった人の物語とサハリンに……この物語が交錯する場所として満州建国大学をやっているんだけれども、ハブになっていない。むしろ最初に出てくる、呉なんとかさんの話にして、韓国首相の話はごく短くしたら、この作品はかなりレベル高いものになったと思います。
佐藤 それからこの作品はカネに換算したら数千万円の取材費がかかっている。あともうひとつ、これのメインテーマというのは、首相になった人よりも、サハリンの韓国人の物語ですよ。終わり方も非常にいいと思うんですね。しかし、得体のしれないタイトルを付けてしまった。タイトルも実力の中に入ると思う。それは版元がつけたので著者の責任ではない、ということにはならないと思う。
 

事件、歴史に対する書き手のまなざしをめぐって

 
中沢 お話を聞いていると、みなさんの意見がばらけそうですから、例えばの提案ですが、おひとり2作品づつ、これが良かったと作品をあげてもらったほうがいいんじゃないでしょうか。
佐藤 ぼくは結論から言うと、ない。読んだテキストの中で、僕自身が読んでみてお腹に入ったのが、いま酷評が出た前川さんの満州国の作品です。ただし、これは僕がサハリンと、サハリンの朝鮮人のことを細かく知っているという前提知識がかなりあるから腹に入りやすいんだと思う。あともうひとつあげるとするならば、『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』。これは構成としては非常にオーソドックスな作りだと思うんです。ただ一番最後のところでアメリカとカトリシズムを単純につなげちゃうというところで、これがまた私がキリスト教に関する知識が過剰なので、これは乱暴だと思ったのでダメ。すっと読めた2作品にどうもがっくりしてしまうところがある。『アイコノクラズム』は非常に不快。それは明らかに私を読者として想定して書かれている部分があるから。極めて不快です。
中沢 私は自分で提案しておいて余計なことを言うと、『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』はね、よくがんばったと思うんだけど、摂理くらいの単語は辞典にあたるだけじゃなくってもう少し理解を広げてほしいのにと、イライラしたというのが事実で、江藤淳の『アメリカと私』くらいは読めよと思ったり、いろんなことを考えたんです。冒頭でつまらないことを言ったのは、その引き金を引かせたのはこれだったんです。50代と60代はこんなに違うのかと。個人的に興味を持ったのは『代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳』。それから次の2つを挙げるのが非常に心引き裂かれておりまして、『帰郷 満州建国大学 朝鮮人学徒 青春と戦争』。もうちょっとテーマを絞ってくれると素直に挙げられたのにというのが事実です。それからそんなことになっていたのか、と驚いたのが、『この壮大なる茶番 和歌山カレー事件再検証報告』。この人、ノンフィクションライターとしてこういう問題を扱うには単純素朴で、みなさん水準に達していないとおっしゃるだろうけど、そういう素朴な文章で読んでも、これはおかしいんじゃないのかと思うところが、すごく気になった。
佐藤 ただ、これの場合は一番の問題は一審でなんで完全黙秘したのか。これは監獄の中に入った人間ならよくわかるんですけど、完全黙秘なんて相当なことがないとできない。その動機が解明されない。だからもう少し考えるならば、彼女には何か守らなければならないものがあった。それはいままで出ている弁護団や公にしているものを読むだけでも見えると思う。
田原 それは高校生の目撃者の証言だけでも見えるわけ。二人いるわけでしょ。あの証言の曖昧さの中で疑問が出るはずだよね。
宮崎 刑事裁判で検察側が使う目撃証言はいい加減だというのはご承知の通り。あの暗さで特定なんて、できるはずないんです。われわれの前に出てきている問題としてはね、この裁判で一審の完全黙秘をするというほどの利益はどこにあったんだということを考えるのが普通。あの裁判の過程を見ていた人の持つべき問題意識じゃないかな。完全黙秘は自分にとって不利になるわけですよ。あれだけの人が死んでいたら自分が死刑になることはわかっている。それ以上の利益があったからだと。彼が書いていることをたどっていったとしても、その問題にもう少し、切り込まないと。
佐藤 だからその問題に気付かないんですよ、この著者は。
中沢 確かにその通り。
佐藤 だからこの後データがいくら入ってきても気付かない。
田原 僕の気持ちを言いますと、よく調べている作品は多い。その意味では『路面電車を守った労働組合』も、前川さんの『帰郷 満州建国大学 朝鮮人学徒 青春と戦争』もよく調べている。だけどさっき言ったように、どきどきする作品がほしかった。繰り返しますけど、魚住さんがなぜ渡邊恒雄さんを書いたのか、野中広務さんを書いたのかということですね。その意味では、この2作にどきどきしない。時代に対してそういうチャレンジをしているのかという意味ではどきどきしなかった。『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』もどきどきしながら途中まで読んで終わった。これは要するに謀略史観じゃないか。その先の取材がない。
 一番衝撃を受けたのは『バリアオーバーコミュニケーション』なんですよ。ああこういうふうに見ているんだと。僕もまさに同情していますよ。同情というのは極めて不愉快なんだということが非常にショッキングだった。だけど僕の中では、これはノンフィクションなのかどうかという疑問があった。
 その意味で僕がやっぱりいちばんどきどきしたのは、みなさんがこてんぱんに言った『この壮大なる茶番 和歌山カレー事件再検証報告』なんですよ。ただ問題は林真須美さんに対する疑問はほとんど根拠がない。本人が自白してない、根拠がない、動機もない。そこはよく調べてる。だけど僕らも知っていることなんです。じゃあ彼女が白だと一歩踏み出すところがない。そこは宮崎さんに聞いてわかったんだけど、彼女が何かを守ろうとしているんだと。実はここが一番問題なんだけど、ここまで調べればね、あるいは当然弁護士にも取材しているんだと思う。してなきゃ取材にならないからね。彼女が守らなければならないものが、たぶん彼はわかったと。そこを意図的に外しちゃったと。
佐藤 うーん、どうかな。
中沢 どうかな。そしたらそのにおいがすると思うけどな。
田原 だけど、それはむしろ我々がもっている疑問としては常識としてあるわけですよ。
中沢 一番最後のまとめ方がそれにしてはあまりに能天気なので気がついていないんだと思うな。
田原 まあ気がついていないでもいいんだけど、努力は買うし、一番ドキドキしたんだけど、ちょっと……。
中沢 この事件があったとき、97年でしょ。メディアスクラムが大きく問題にされて、対応が考え始められた時期の事件です。それから10年でメディアスクラムの起きかたもすいぶん変わってきましたし、裁判員裁判も始まったわけですから、メディア誘導型の裁判の問題点とか、そういうテーマも持ってもられるはずなのに、単なる冤罪事件追及になってしまっていて、これが困ったことだと思います。