田原総一朗ノンフィクション賞選考会第3回目
魚住 僕は結構読み物として面白かったのは、『アフリカ大戦の亡霊』でしたね。もちろんカメラマンが本業ですから、文章は取材メモみたいな文章なんですけど、ただ写真と相まって、PKOの実態とかね、発展途上国の兵隊が実際に入ってるんだとかね、現地の情景がわりと頭に入ってくる。
中沢 猿の薫製をお弁当にしているとかね。
魚住 これはなかなかおもしろいなと。この人、体を張ってるじゃないですか。もしやるとしたら、佳作か何か。体を張って取材している人を応援するとしたら、この人かなという感じはしました。
田原 ちょっと付け加えるとね、面白いんだけど冒険物語かなという気がしました。
魚住 たしかに。
佐藤 でもこれは本人が書いていて本当に楽しそうですね。
中沢 そうそう。
魚住 最後まで一応読めたんですよ。そういう意味ではこれを評価しますが、ノンフィクションの賞の水準としてはこれに正賞というのは水準的には落ちますね。それからもうひとつ、『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』はノンフィクションの展開としてはわりと正道を歩んでいるというか、構成としては他のものに比べるとしっかりしているんですよ。しかし、みなさんおっしゃったように、決定的な証拠がなにもないんですね。だから、謀略史観的な構図で終わっている。なぜ長崎が広島の陰に隠れているのかという、この人の問題意識はそれはそれでいいと思うんだけれども。
中沢 決定的な証拠というよりは、謀略史観から出発して謀略でも何でもない。アメリカのホスピタリティーがきいちゃったんだということに本人が気がついて驚いてる。
魚住 それにも同意します。
佐藤 あと、『クラシック音楽 名曲名演論』。これを読んでね、中世の自由七科をもう一回思い出した。数学の仲間に音楽が入れられているというのはやはり正しいと。一種の数学書と同じような感じなので、判定が難しいです。僕にはわからないです。
中沢 私はね、この会では毛色が違うものだろうから、議論に上がらないだろうけど、この人が言っていることに沿って、レコードを聴いたら非常に楽しかった。モーツァルトの40番を買って、ワルターと両方聴いてみてなるほどねと。そういう意味では、宮崎さんがあげられていた、『ジャーナリストの文学 ノンフィクション』ってあったでしょ。たまたまある用事でノンフィクションで読むべきブックリストを作ろうとしていたら、ここに良い材料があったではないか。これ使ったら怒られるかなと思ったんですけど。でもノンフィクションの賞には両方とも向かないんじゃないのかと。
田原 それからね『クラシック音楽 名曲名演論』で気になったのは、絶対という言葉が使われすぎている。これに反発を覚えた。
佐藤 これはね絶対音感以降、音楽系の人は……
田原 わかってるって。
中沢 ポストモダン哲学の流行以降、音楽を客観的に弾けというバカな議論が生まれてきたことに対するものすごい怒りがあるわけ。客観的な音楽評論なんてふざけるなという気持ちがありありとしている。
佐藤 専門の知識がかけているので評定できないんだけれども、面白い本ではあるし、書く動機がある。
中沢 音楽評論家が読んだらなんて言うかわからないんだけど、小林秀雄をあたまで引用しているでしょ、あれはポストモダン哲学が出て以来、小林秀雄の評価が地に落ちてしまってきていて、そのことに対するほとんど怒りみたいなものがある。70年代からの事情が分かっている人間には、この意見が正しいか、間違っているか、客観的に評価できるかどうかは、別にして面白いなと思って読んでいます。ただノンフィクション賞と言われると……つまりノンフィクションとは何かというと、虚構ではないよという意味で、昔は実話という言葉もありましたけど、事実に基づいているよという約束事が生きていないとしょうがない気がするんですね。
佐藤 だからもともとノンフィクションから評論は外しているんですね。そのあたりの境界が曖昧になってきているから。
田原 それからね、さっきから繰り返し言ってるんだけど、本当は僕の名前なんか絶対につけたくないんでね、拒否しているんだけど。多数決で決まっちゃって。僕はやっぱりね、いまの時代に対して挑戦しているものじゃないと。
佐藤 だから現実に影響を与えるというのが、田原総一朗賞たるゆえんで、これを受賞したことによって、現実に何か影響を与えないといけないんですよ。
田原 そう、時代にね。その意味では活字の方に破壊力があるものはなかなかなかったね。僕は建設力ではなく、破壊力といってるんですよ。
佐藤 いえ、破壊的建設というものもありますし。田原総一朗的なるものがなくなると、次の時代、何が来ると思います? ポピュリズムですよ。
田原 もうなっているよ。
佐藤 古舘伊知郎さんは絶対に権力党にはならない。あれは権力党とは別のものなんですよ。権力党に留まるというのはものすごい大変なんだよね。
中沢 古舘さんの場合には、啓蒙主義に戻ってしまうでしょ。自分が分かるためのアナウンスが長すぎて、言った時には私たちは寝ちゃっている。
佐藤 啓蒙主義といってもポピュリズムの土俵の上で誰にでもわかり、受け入れられる説明をする、いわば、四則演算の啓蒙主義です。
中沢 魚住さんのお話に少し同調させていただくと、『アフリカ大戦の亡霊』は取材メモみたいだとおっしゃっていたけど、これに取り柄があるとすれば、取材メモだからですよ。アフリカのODAおかしいじゃないかと問題意識から入らずに、自分がじっと見たものについて、わたしはこう見たと書いてある。
佐藤 これに似たスタイルの文章って見たことがありますよ。マルコ・ポーロの『東方見聞録』。近代散文法が成立する以前の文章ですよ。
中沢 そうなの。冒険物語というご批判が出るのもたしかなんですよ。
佐藤 ただ面白いのは、下読みのプロの人たちがこれを通したということですよ。近代以前の文章みたいなんだけれども、素材の面白さに打つものがある。たしかに面白いんですよね。ブラントな問題意識なんですが、未発表のもので僕らがお金だして活字にしたいものってありますか。
魚住 もしするんだったら、『アフリカ大戦の亡霊』でしょうね。
中沢 編集的な見方で言えば、写真と組み合わせれば、田原さんの言うような破壊力はないにしても、興味関心を持っていないアフリカに興味関心を呼ぶ力はあると思いますね。
佐藤 同じ問題意識で、現実に影響を与えるというノンフィクション大賞のほうとしては、受賞の基準に率直に言って達していないと。しかしこれをだすことによって、アフリカに対する関心が出てくる、それからたまたま映画の『沈まぬ太陽』もあるし、そういうひとつの奨励のしかたもあるんじゃないかなと。
田原 写真が少なすぎる。
佐藤 写真を増やして活字を入れて、佳作として賞を与える。皆さんの意見を聞きたいんですけど、大賞受賞作なしという結論。
中沢 お話を受け賜っているとそんな感じがしますね。言葉っていうのは現実そのものではないんです。皆さん百もご承知だと思うんですが。あんまりたくさん本を読みすぎていると、見たものも別の見え方をしてしまうんです。
佐藤 そう。ショーペンハウエルがいっているように、本というのは人の頭で考えることですからね。
中沢 そうするとね、いま映像の技術も良くなっているし、カメラも良くなっているし、だから見たものを見たように感覚的に撮ることは可能なんだけど、それを言葉になおしていく力みたいなものはすごく弱まっていると思うんですね。そういう意味では、現実に与える衝撃力はすごくゆるいかもしれないけれど、見たものを言葉にする努力をしている点では、ここから何かを積み上げていきましょうという出発点としての……
佐藤 英語で言う、インカーネーション、受肉していく、肉体の形にしていくということですね。
中沢 そう、言葉を与えていくための出発点としての体を張った努力は評価できるという考え方はできると思うんですね。
佐藤 あと、読んでて面白いですね。
中沢 余計なひとことがなければもっと面白い。最後にすごく、だからそれは朝日新聞のベタ記事でも書くよというひとことがあって……
田原 あれは彼がそれを書かなければノンフィクションではないと思って。
中沢 と思っているからでしょ。あそこを削ってくれたらもっと面白くなるの。なんだそういう結論かと思って、ムッとするの。
佐藤 これの解説を書いてくれるのにピッタリの人がいますからね。ジョン・ムウェテ・ムルアカさん。彼はコンゴ民主共和国出身ですから。
田原 佐藤さんの意見でいいんじゃないですか。『アフリカ大戦の亡霊』を佳作にしよう。
魚住 佳作にして本にする応援をしてあげられたらと。そのときには写真をいっぱい入れて。
佐藤 われわれが大賞の費用をけちっているんじゃないんです。ノンフィクションを作るために金は使います。大賞をあげるという金の使い方じゃなくて、これは佳作なんだけれども、活字にしたい。商業ルートに乗るようなものにする。
田原 唐突だけど、3つとも佳作にする。映像の2つも佳作。
佐藤 映像に関しては僕は水準が分からないから。
田原 僕は映像をやっているんで、みなさん活字に厳しくて映像に甘すぎると思う。努力賞みたいなものをあげる。本当の本音で言えば、僕の作ったものの方がはるかにいい。露骨にいうとね。これはオフレコで。
佐藤 いえいえ、そういうことこそオンで。いかに田原総一朗賞が世間の顰蹙を買う賞か、こういう感じにすることによって意味を持たせる。俺を越えてこいと。たとえば『花と兵隊』を見て、あれを字に起こしてみて、自分なりの作品にまとめてみたらと。
中沢 『にくのひと』だって活字にしようと思ったら面白い。
田原 いや、できない。活字は全て言葉に収斂する。映像では言葉は表現のone of them なんですよ。たとえば『花と兵隊』でも喋っている人の表情、顔、貧弱さだとかね、いろんなものがね、言葉以上に何倍も訴えてくるんですよ。
坂本 ノイズの部分が大きいと。
田原 東ドイツがなぜ西ドイツに合併されたのか。理論的には西ドイツよりも東ドイツのほうが構築しているわけ。ところが西ドイツの映像が入ってくるわけです。明らかに走っている車が違うわけ。建物が違うわけ。キャスターのネクタイの色が違うわけ。それは活字でいえばノイズですよ。そのノイズの部分が言ってみればベルリンの壁を崩壊させた。
中沢 ノンフィクションよりフィクションがなぜ強いかといえば、いまおっしゃったノイズを黙って描写するから、小説というものが強いところがあって、だから小説がどんなにテクニカルな面でひねったテクニックを使うようになっても、いざ困ると突然自然主義に戻ってしまうようなところがあるんですよ。ところがいま、私たちが何に困っているかというと、自然主義に戻ると映像の方が強いんですよ。人間のスピリッツの営為としてそれを言語化できないと、見えてるけど言えない状態になっちゃうわけ。
坂本 だからいまテレビはノイズばかりになっているわけです。だからいいところと悪いところと。
田原 よく言うんですが、活字だと「はい」は「イエス」なんですよ。テレビの「はい」は「イエス」でも「ノー」でもいろいろとれるわけ。
中沢 うん、だから小説のある結構のなかで、「はい」は「ノー」に表現することは可能なんです。ただそこと評論にかい離があって、評論家がそこを読んで、「はい」の「ノー」の意味をきちっと批評してくれないとスピリッツまで高まっていかないわけですよ。
佐藤 最近は反語法が通じなかったりしますからね。「ご立派ですね」と言っても。
中沢 真に受けるからね。
佐藤 ちょっと教えてください、『代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳』のどこが良かったんですか。
中沢 これをなんとか考えてくれとお願いしなかったのは、深まりが足りないとかいろいろご意見があると思ったんですが、私、これから孫がうまれる年代なので、切実に、臓器移植でも出生ビジネスでも、そこまで人間が運命に逆らっていいのかという疑問がすごくあるんですね。摂理という言葉に引っかかったのもそこなんです。さっきのアフリカのお金だしているのは先進国で、実際に兵隊に行っているのは後進国だみたいな話と同じことが起きるのではないかと。私がたまたま女性だったせいで、自分のことだったら自己決定権もっているんですが、孫のことになると婿さんが何を言い出すかわからないとか、自己決定権からちょっと離れたところにいるので切実だったんです。
魚住 その摂理ですけれども、摂理の話をしているのに、宗教の問題に触れていないですね。アメリカのことを主として書いているのに、なぜアメリカの宗教のことを書いていないのか疑問に思いましたね。
中沢 精神の話を扱うときに、どこかで宗教の話に触れざるを得ないんですよ。
佐藤 宗教でなくてもいいんですけど、この本の中に違和感を感じたというか、一種のマニュアル本みたいな感じで読んだのは、超越性が全く感じられないんですよ。だから超越性が感じられないでこの問題を扱える著者というのはある意味ですごいなと思ったんです。
中沢 この人ね、もともと医学の勉強をした人のようなんだけど、超越性の問題はこの人が感じていないのか、今の日本語の言語が超越性を排除する方向に十年近く展開した結果なのか、私にはよくわかりませんでした。
魚住 新書という形態が、編集者がそこの難しい部分を全部とっちゃって分かりやすくした可能性はありますよね。
中沢 たとえば映像だったら、『花と兵隊』でお仏壇飾って、そこにおもち置いて、上に昭和天皇のキリヌキの写真があって、これだけでみている人が、その人のもっている知識や経験に応じていろんなことを考えるんですよ。
田原 想像をかき立てるわけね。
佐藤 僕はね、『代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳』の、168ページから169ページのお金が第1の目的と。この数行のところがなければ、この本はもう少し腹に入ったんだけれども、これだったら本当に浅いなと思った。インドの代理母が金だけでやっているんですと。金だけでやっているという人が、本当に金だけでやっているのかどうかというところに対する思いというか、想像力が欠如していると思った。この部分がなければもう少しこの人いろんなことを考えながら書いているんだろうなと思ったんですよ。
中沢 そうそう。私が女性の立場からすると政治的イシューに触れちゃうけど、昔、女は借り腹と言われて、そういう言い方の生きている世界観の中では金のためにやっているという言葉の向こうにもっと違う世界が。
佐藤 実はそこにすごい暴力性があって、著者の中にある無意識な暴力的なものを感じてしまったのですよ。ジェンダー的に女性的な人が書いたら、これと同じようなものになるだろうかと考えました。
中沢 私もそれを感じました。あくまでも医学の知識の問題として捉えようとして、それが抑制的にそうなったんではなくて、そういう風に見ていると感じてたんで、実はちょっと読むのに苦労したんです。
佐藤 優生思想関係の本とあるいは社会ダーウィニズムなんかと共通のテイストを感じたんですよね。
中沢 書いた人がどうかというより、テーマ自体にその要素をもっている可能性があるんですよね。
田原 外れたので敢えて言いたいんだけど、『路面電車を守った労働組合』は、私はなかなか面白かった。というのはね、主人公は労働組合にかかわらず明るい。普通労働組合の話って深刻なんですね。深刻で絶叫するんですよ。反対と。それがない。主人公、反対って言わないんだもの。その明るさ。従来の労働組合を扱った本にはない明るさがこの本にはある。これを読みながら椎名麟三の小説を思い出した。
中沢 私もね、これはある興味で面白く読んだ。今の日本のメディアというのは1945年であたかも時間が止まっているかのような印象を受けざるをないようになって、最初に議論になった『帰郷 満州建国大学 朝鮮人学徒 青春と戦争』の問題も、大学が潰れた後の戦後の問題として丁寧に追ってくれれば新しいテーマがいっぱいでてきたのに、全部満州時代に戻ってしまうので、そこがもどかしかった。
田原 満州で問題はね、満州建国にかけた夢っていうのがあるんですよ。満州にかけた熱情があるんですよ。それを全部悪だ、傀儡だと片づけているんです。
中沢 それでね、『路面電車を守った労働組合』のほうはね、この方は労働法の専門家らしくて、文章的にいうと論文の文章が邪魔だったんで、すみません飛ばしました。だけど、戦後の労働組合がどんな風に変化していったかということを知ろうと思って読むと、非常に面白かったんですよね。実は私の方に問題意識があるんです。1960年代、70年代、80年代をリアルに受肉して描いた小説を書けないという問題を抱えていて、その材料が拾えないかという目で読んだので、ちょっと自分では自信がもてないところがありました。
魚住 材料拾えましたか?
中沢 拾えましたよ。そういう意味では。
魚住 僕もすごくいい仕事をされていると思うんですよ。これから労働運動をやろうとか、いまやっている人にはすごく参考になると思います。ただ、ノンフィクションとしての弱みは人物評伝と運動論がごっちゃになっているところなんですね。だから人物評伝でいこうとしているところに運動論が出てきて、波打っているんですね。だから作品として訴える力が弱くなっている部分というのは多分あると思うんですよ。でも、僕の結論としては立派な仕事だと思います。
佐藤 しかも民同に対して好意的ですよね。高校時代に、最後の民同向坂派(=社青同協会派)だった私としてもですね、民同系のものを評価するのは大変にいいんですけれども、この小原さんよりも、川西さんという大学の先生に興味を持った。知識人のあり方としてこういう視座を持ちながら世の中を見て、労働運動の話をさせる。これがいまおままごとのようにしてやっているジャーナリズム講座の学生による、チンピラのような取材みたいなものと比べた場合に、いかに知識人としての自らの限界も感じながら、立ち位置をきちんとしながらで、労働運動を学生たちに伝えていこうとしているという、媒介項としての知識人という意識が川西さんにある。僕はそこのところに感銘を受けましたね。やっぱりこういうあり方が大学の知識人として求められているんだと。
魚住 宮崎さん、ケチつけてたよね。
宮崎 労働運動が冬の時代に入っていく時期にこれをやってるわけですよね。逆に言えばね。そういう点での、最終的には魚住さんの意見と近くなっていくんですけど、運動と個人という、個人がかかわっていろんなオルグをしていく話がいっぱい書いてあるわけですけどもね。僕は個人に特化したほうがよかったんじゃないのかなという気がしているんです。この作品に関しては。
田原 でも、説得力あるよ。
宮崎 それはあると思うんですけどね。
田原 主人公のやり方。
宮崎 もっと主人公に特化していったほうが面白かったのかなと思いますね。
中沢 損してるかもしれませんね。個人に特化したら面白いというのは、本を読み慣れている人にはみんなわかるでしょう。しかし、個人にとってはとても通俗的な読み物になってしまうわけでしょ。
佐藤 これは社会民主主義論なんですよ。日本に共産主義論はありますが、社会民主主義論はないんですよ。清水慎三の『日本の社会民主主義』(岩波新書)くらいしかないのではないでしょうか。ただこの民同派、こういう流れのところで一種の労働組合主義で国際的な感じでいうとカウツキー主義で第二インターですよね。第二インターの流れは、日本では潜っちゃったなかでこういう運動があることが、この本でよくわかった。裏返してみると、ドイツなんかでは社民党とか、イギリスの労働党みたいな形で第二インターはすごく強いじゃないですか。いまだに。ところが日本においては社会党が雲散霧消しましたね。政治のレベルでは。ところが社会のレベルではこういった労働組合としてひとつの社会ができているわけでしょ。宮崎さんの言葉を使うと、組的団結ですよね。組合いというよりも。
魚住 合(あい)が抜けているんですね。
宮崎 合(あい)がないんです。
佐藤 そういうものが、JR総連とか解放同盟とか大きい組織だけじゃなく小さい単位のところで、手の触れる範囲のところで路面電車というところで自分たちの仲間を助け合っている。国家に依存しない。特定の政党の指導に入らないということはひとつの希望を与えてくれると思うんですよ。これからの世の中に対して。
田原 僕流にもっと次元低い説明すると、労働組合って、建前の労働組合か、経営者となれ合う労働組合に割れるんですよ。これその真ん中にいるんですよ。建前でもない。でも路面電車守ったんだからなれ合いでもない。そういう意味では非常に面白いですよ。
魚住 最後、映像に戻って。先ほどでたのは、3作佳作にして、『アスペルガー障害とともに』には、特別賞みたいな意見が出ましたが、そこのところを皆さんの意見を聞いたうえで決定したいと思います。
中沢 いまお話をうかがっていたなかでいえば、損をしていたなにかがあるようで、『路面電車を守った労働組合』はみんなが何かを言うような積極的な発言はなかったけど、最後までみんなで話してみると否定する人もいない。だから考慮の中に入れてもいいかなと思う。
田原 僕が『路面電車を守った労働組合』を入れなかったのはどきどきしなかったから。
中沢 私が『路面電車を守った労働組合』を入れなかったのは、人物の話として読んでいくと、突然先生が出てきて解説されるので、波打っちゃった。
佐藤 僕がいれなかったのは、民同向坂派に対して過剰な思い入れがあるから。ただ、いい本ですよ。版元どこですか。
中沢 平原社といって、早稲田大学系の本を出しているところですよ。
宮崎 最終的にはどうします? 映像作品は?
田原 坂本君ね、映像のほう、2つ佳作だと思う。
坂本 大賞とか正賞ではないけれども、奨励賞とか佳作にするのは妥当だと思う。恥ずかしくない。『にくのひと』は若い頃の田原さんのよう。
田原 僕はもっとむちゃくちゃやった。
坂本 だから、当時のままだったら、いまの地上放送では流せませんけどね。
宮崎 活字のほうは、『アフリカ大戦の亡霊』。後の2作は検討。
佐藤 『アスペルガー障害とともに』は検討ということではなくて、カテゴリーが違うんで、こういうものが出てきたことに対して何かの評価をしたほうがいいんじゃないかなと。
魚住 言葉でいうと奨励賞ですか。
坂本 佳作という言い方も考えたほうがいいと思いますよ。どういう意味にするのか。
魚住 みんな佳作ですか。
佐藤 『アスペルガー障害とともに』は横にだしたほうがいいと思う。あるいは落としても。講評でやりましょうか。全体のカテゴリーとは違うんだけれども、非常に注目していると。こういう表現形態に。作品から問いかけられているのはわれわれ作家の側で、この素材を使って、この人が言いたいことをきちんとした形の作品に仕上げていくという、大きな宿題を与えられた。
魚住 僕は異論を言うようですが、『花と兵隊』を撮った松林という人がもっている、若さ、まなざし、技術というが、その両方において、彼には将来性がある、これからもっともっと良い作品ができるんじゃないかという。他の作品に比べてアクセントをつけたい。
佐藤 僕の意見としては、講評の中で河西さんの『路面電車を守った労働組合』も、長く丁寧にやる。しかもこれは活字になって日の目を見ている。業界内で定評のある版元から出ているので、とくに賞を与えないでいいのではないか。それで活字の方は『アフリカ大戦の亡霊』一作だけで、ちゃんと目立つようにする。しかも我々は著者が了承するんだったら、出版物にする。しかも商業的な形で売る努力をしてみる。
田原 さっきの繰り返しになるけど、写真をもっといっぱい入れる。
宮崎 大賞はなしということですね。
奨励賞『花と兵隊』松林要樹(映像部門)
佳作『にくのひと』満若勇咲(映像部門)
佳作『アフリカ大戦の亡霊』大瀬二郎(活字部門)
田原 講評は魚住さんまとめて。
佐藤 そうそう。魚住さん議長ですから。議長という主語の中に文章を作ることが含まれていますから。
魚住 それは罠だ(笑)。
田原 だいたい世の中って罠ですよ。
中沢 『バリアオーバーコミュニケーション』は、エッセイの賞があったら受賞してもいいと思いますよ。一般の人が楽しみの読書として読んでもいい内容だと思うんですよ。こわばった問題意識をふりかざすよりは、ハンデを自然に受け入れて、ハンデを持っている人のプライドも考えてほしい。
田原 ショックなのよ。だけど、同情というのはなければダメだと思う。
中沢 この人、同情は否定してませんよ。
田原 否定はしてないけど、同情は嫌らしいと言っているじゃない。
中沢 要約するとそうなるけど、エッセイという文章の技術を見せる文章として面白いところは、そこをうまくすり抜けて、くぐり抜けて書いているからですよ。これは事実の重みというよりは、ものの言い方の技術でものを伝えていくという意味では、エッセイの大賞にはなると思うんですよ。
佐藤 僕はこれものすごく悩んでいたというのは、ノンフィクションの王道というのは、第3者ノンフィクションだという日本では伝統がありますでしょ。当事者手記というのはノンフィクションになじまない。新潮社が何故にノンフィクション賞としないで、ドキュメント賞としたかというと、当事者手記を入れるんだという明確な問題意識でやったからだ。私自身が講談社ノンフィクション賞で外されたときの理由は、高名な最近は一緒に仕事をしている作家が、これは徹底した自己弁護の当事者手記であって、ノンフィクションではないと。ただエッセイだとは言わなかったですよね。これ読んだときに、ここで伝えたいことはノンフィクションとは違うなと思ったんですよ。だからエッセイだとおっしゃったときに、あっと思ったんですが、自分の世界というか、自分の表現する世界を伝えたいんですね。
中沢 日本でエッセイというと随筆と訳すか、私論と訳すかいつも議論になるんですが、軽いものだからエッセイというわけではないんですよ。重要なのは考え方ではなく、感じ方を伝えている点ですよ。
佐藤 何月何日に誰が何を言って、どうあったということが一切ないわけでしょ。今になって気がつきましたが、だからノンフィクションとは違う感覚をもったんだと。なにかノンフィクションとエッセイの区別というのは必要なんでしょうね。
中沢 でしょうね。新聞紙上で議論になって、障害者の親は同<どう>あるべきかという議論を自分もそこに同じ目線で加わって、結論だしてないというところがいいところなんですよ。いろんな考え方の人がいるけど、私はこの考え方だと言っている。
佐藤 田原総一朗ノンフィクション賞ではなく、田原総一朗エッセイ賞だったらこれは見事受賞ですよ。
中沢 でも間違っても、鋭く切り込んではならないんですよ。感じ方をね。
田原 やっぱりノンフィクションというのは取材だと思いますよ。基本はね。僕はよく、ふたつ言うんです。まず新しい発見がある。ふたつ目は新しい切り口をだす。ふたつあれば二重マルで、ひとつあればマルで、どちらもなければバツである。