キリスト教神学中級講座 「フリッチェとの対話」第1回 神学総論1 神学総論とは何か

▼バックナンバー 一覧 2020 年 5 月 26 日 佐藤 優

 キリスト教神学に関して、入門や初級の教材は多数ある。個別のテーマを掘り下げたモノグラフ(研究書)も多い。しかし、初級と応用をつなぐ中級レベルの教科書がない。特に組織神学(*1)の分野でその傾向が著しい。

 この連載では、旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)のプロテスタント神学者ハンス=ゲオルグ・フリッチェ(Hans-Georg-Fritzsche、1926年2月1日生まれ、1986年5月29日死去 )の主著『教義学教科書』(全4巻)を精読する。本書はプロテスタントの中級レベルの組織神学教科書として、優れている。しかし、日本ではほとんど知られていない。また、現在のドイツでもフリッチェは無視されている。なぜなら、フリッチェや、ハンスフィールト・ミュラーなどフンボルト大学(ベルリン大学)プロテスタント神学部の神学者はいずれも「シュタージ」(東ドイツの秘密警察)の非公式協力者であったことが東西ドイツ統一後、明らかになったからだ。当時の東ドイツで、キリスト教系の知識人はシュタージとの接触を余儀なくされていた。いずれにせよ、ある神学者の政治的行動の故にテキストを無視するというのは神学的に正しいアプローチではない。

 それでは、早速、フリッチェ『教義学教科書 第1巻:総説 キリスト教信仰の基礎と本質』(第2版、福音主義出版局、[東]ベルリン、1982年)のテキスト(*2)に進もう。

 まず、フリッチェは、最近の神学概説書が薄くなっていることに危機感を表明する。

〈近年、内容の薄い、概略を表現しているだけの、したがって「概観」にはとても役立つ教義学本がいろいろと出版されている。それら教義学本は、〈大講義〉を敬遠するどころか〈廃止〉を目論む大学運営の展開には、それなりにマッチしている。しかし、このような流行にあって、逆に詳細な教科書がこの際立つ隙間を埋めなくても果たしてよいのであろうか、と問われている。組織神学とは ―― それは倫理学、ならびに教義学にも該当することでもあるが ―― 抽象的な結果とデータに要約されにくいのみならず、本来的には対話形式でようやく、もっと分かり易く言うと、具体的な討論形式でようやく表現されるような学問分野なのである。つまり、ある種の詳細性が要求される学問分野なのである。というのも、〈教義学〉は、表現と思考基準において類型論を伴った学校で教えられた教理を単に実践すること以上のものでなければならないからである。

 こういった確信から私は、本書第1部第2版の「はじめに」を、この第2版においては初版から何を変更したかの概要を述べるために使用したいと思う。と同時に、それはここ五〇年間における神学研究の進展過程のようなものを大まかに示すであろう。また私には周知の初稿批判の何箇所かについて言及したい>

(Hans-Georg Fritzsche, Lehrbuch der Dogmatik: Teil1: Prinzipienlehre Grundlagen und Wesen des christlichen Glaubens, Evangelische Verlagsamstalt Berlin. (Ost)Berlin, 1982, 9S.)

 本書の初版は、1962年に刊行された。それを授業で用い、神学生たちの反応を見てフリッチェは改訂を行ったのだ。ちなみに西ドイツ、さらに統一ドイツでは、プロテスタント神学部を卒業しても牧師にならず、学者、公務員、会社員になるものが多い。これに対して東ドイツでは、プロテスタント神学部を卒業したほとんどの神学生が牧師になった。従って、神学部と教会は緊密な関係を維持していた。

 フリッチェは、神学を教会内の機能に限定すべきでないと考える。

<§1《神学総論》で若干強調したいのは、神学が単なる〈教会の機能〉のみならず、文化一般の研究領域と責任にも加わっているということである。それは、神学と〈諸学問〉、信仰と思想との矛盾だけではなく、〈一致点〉をも可能な限り具体的に明確にする方向性と呼応している。〈総合大学 universitas litterarum における神学〉という避け難い原則問題は先鋭化しており、今日至る所で扱われている〈人文科学一般と協調する神学〉というテーマに収斂しようとしている。〈人文科学〉を語れば必ず、今日では教義学の原則論、特に〈百科事典〉の質問分野で使われる教義学の原則論を考えることになる。その詳細を貫いているのは、神学の見取り図と独自性を、神学自身も基本的に認めざるを得ない多くの共通了解の下地の上に、目に見えるようにしようという傾向である。その際に問題となるのは各論における研究対象の扱いと比較以上に、この諸学問と神学に生気を与える〈精神〉である>

 東ドイツは無神論社会だった。キリスト教を信じない人々に、イエス・キリストの福音(*3)を伝えるためには、神学の事柄を人文科学の言葉で語れなくてはならないのでる。無神論者のために福音を伝えることが重要になる。

 フリッチェは組織神学の特徴についてこう述べる。組織神学は、物事を断片ではなく体系的に理解することを目的とする。体系神学と言い換えてもいいと私は考えている。

<§2《組織神学》では、神学研究の組織学について問われている(そしてこの点では一般論から特殊論へと発展している)。さらに組織学は、展開組織学、集中組織学、序列組織学の三つの次元に区別され、そしてこの点を(聖書解釈学的・歴史学的視点とは違う)実践神学研究全般の多様な印象を伝える努力と結びつけている。ある点でこの尽力は対応する歴史的概観の代わりにはなっている。実際の現象学は限界を広げ、独自の組織を(歴史的に存在している組織だけではなくて)、考え得る現在の一切の組織分野に記入する《組織》神学に最も適した方法でもある。その種の組織論は、私見ではまだ十分には知られてはおらず、従来の教義学では私の知る限りでは論文においてのみ扱われた教義学の原理論に責任があり、この第2版においては3つの次元に拡大された。

 もちろん、組織的、神学的問題討議に教育上有効な出発点のために古典的《歴史的》モデルが取られ得ることも、もしその宗教批判で ―― 離れ難い哲学一般の連関で ――〈信仰と知識〉というテーマが再集約されて具体化されても、カントの例(*4)におけるこの問題の仕上げであると実証されるかもしれない>

 実践神学に役立つように組織神学を再編することが重要とフリッチェは考えている。

 聖書神学では、20世紀後半になって再び脚光を浴びるようになった史的イエスに関心を向けている。

<§3《聖書》においては新約聖書の〈新しい面〉についての問いが、一切を新約・旧約の両聖書の相互関係に置く代わりに、新しい面をも異教的な古代世界との相互関係で考慮するような若干詳しい答えを出すこととなった。同様の方向性で旧約聖書自体においてもその一般化する方向性が(天地創造論と知恵文学においてと同様に)より強く表れたのは、今日の〈旧約聖書の神学〉がずっと前からすでに〈神の民の救済史〉という聖書の金言の許に一切を移すことがないのと同じである。

 正典概念(*5)で提示される原則問題の関連では、より詳しくて新しいテーマが切り出されている。すなわち近年通用している物語神話が、イエスの小説、映画と文学から出発している限りでは(特に教理問答研究においては)、キリストの預言がナザレ(*6)のイエスという《歴史的》人物によるもので、小説の主人公(もしくはスパースター像)によるものではないと証明しなければならない〈原則〉とどのように一致し得るのかというものだ。小説家の鮮やかな具体性が、現実としての歴史の意味で〈史実〉なのか。もう一度言うが、教会史の聖人伝説を使用する場合のように、聖書言葉と文学の両者が互いに重なり合う場合では(もしくは真面目に扱うべきイエス文学の神学から離れることができない場合)、今日の聖書論はこの伝統様式、もしくは史実のためには建設的な言葉を言わなくてはならない。というのも、この点で問題となっているのは学校教義学における決め事ではなくて説教の聴衆を教会史の中へ、それによって聖徒の交わり(*7) communio sanctorum の中に組み入れることだからである>

 ここにおいても、フリッチェは、聖書解釈の前提として、「聖徒の交わり」を重視するという、実践神学に役立つ組織神学的整理が必要と考えている。

脚注)

*1【組織神学】聖書神学、歴史神学、実践神学などに並ぶ神学諸科目の一つで、理論部門の総称。「組織」とは「あらかじめ目標を視野に収め、そこから教理の構造を秩序づける」(B・ケッカーマン、16世期末の神学者)という意味。聖書の言語的、文学的解釈や教義の解説を試みるだけではなく、各時代の哲学、思想と触れ合いながら、展開し続けている。簡単にいえば、キリスト教神学が他のどの学問よりも優れていることの証明を試みる学問。

*2【第1巻:総説 キリスト教信仰の基礎と本質~テキスト】第1巻は、以下6つの節で構成されていて、フリッチェは最初に、それぞれの節の狙いを簡単に述べている。

§1神学総論 §2組織神学 §3聖書 §4信仰告白と教義 §5キリスト教信仰と〈宗教〉 §6啓示としての神の御言葉

*3【福音】イエス・キリストによってもたらされた神からのよろこびのおとずれ、よろこばしいしらせ。

*4【カントの例】18世紀ドイツの哲学者、イマニュエル・カントは人間の理論的(合理的)認識の及ぶ範囲を徹底して追究した。著書『理性の限界内における宗教』で、「理性宗教」の立場をとった。カントは歴史的宗教としてのキリスト教を認めた上で、その教義や制度がどこまで理性宗教の批判に耐えうるかを問うた。

*5【ナザレ】パレスチナ北部、ガラリヤ高地の南部にある町。イエスの故郷とされる。

*6【正典】聖書正典のこと。プロテスタント教会では旧約聖書39巻と新約聖書27巻とを正典とする(たとえば日本聖書協会刊『聖書 新共同訳』に収められた書物のうち旧約聖書続編を除いたもの)。聖書正典のみが、キリスト教教義の基準、信仰生活の規範として特別な権威をもつものと認められている。

*7【聖徒の交わり】使徒信条の一節。プロテスタントでは、教会の本質を、選ばれ、洗礼を受けた信徒一般の交わりのうちにあることを強調する意味をもつものだと捉える。カルヴァンは「聖徒の交わり」について、聖徒が「神によって与えられるすべての益のあるものを互に分かち合うべきである」という原則から、教会のすべての者−−生者も死者も、もろともにキリストの社会に集められていることを示す、としている。

使徒信条全文:我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。父のひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられて、死にて葬られ、陰府に下り、3日目に死人の中よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン。

参考:『キリスト教大事典』教文館