キリスト教神学中級講座 「フリッチェとの対話」第5回 神学総論5 神学の定義

▼バックナンバー 一覧 2020 年 8 月 6 日 佐藤 優

 どのような学問でも、その学問が何であるかを示す暫定的な定義が必要だ。フリッチェは、まず神学に関する自らの暫定的定義を示した上で記述を進める。このような方法は独断論である。神学は、独断論か不可知論を出発点とせざるを得ないのであるが、フリッチェは独断論を選んだ。

<1.神学の概念と課題

 四番目の神学理解と方法理解に依拠しながら我々は以下の神学定義から出発してみよう。

《神学は、この使命に役立つ目的で練り上げられる限りでは、世界のイエス・キリスト教会の使命に関するすべての学問的判断の総括(Inbegriff)である》

 これは、ただちに神学の対象になるか、もしくは(説教のように)それに根ざした宗教論文と演説を排除するものではない。

 シュライエルマハーの『宗教について』の演説は、その一つ一つが淀みのないものである。でないと個々の点で以下のような定義が説明されてしかるべきであろう。すなわち、神学を組織、もしくは〈あれこれを記述する学問〉としてではなく、学問的判断の《総括》としてのみの特徴を示すことが、神学において問題となっている問題の多種多様性を表現することになる。神学の研究範囲内で話題に上るのは、(パレスチナでの発掘から青年心理学までの)多様性を極めた非常に異質な問題であり、その統一は限定領域においてではなく、教会による布教課題の共通目的である。その限りにおいて神学は〈組織〉ではあるが、特殊な意味ではそれについては後で二、三述べることになるであろう>((Hans-Georg Fritzsche, Lehrbuch der Dogmatik: Teil1: Prinzipienlehre Grundlagen und Wesen des christlichen Glaubens, Evangelische Verlagsanstalt Berlin. (Ost)Berlin, 1982, S.23)

 「神学は、この使命に役立つ目的で練り上げられる限りでは、世界のイエス・キリスト教会の使命に関するすべての学問的判断の総括(Inbegriff)である」というのが神学に関するフリッチェの暫定的定義である。ここで重要なのは「総括」という概念だ。キリスト教や聖書に関する知識を大量に集めても、それは神学にならない。イエス・キリストを信じることで救われるという信仰に結びつかなくては、神学は本来の機能を果たさないとフリッチェは考える。これは、実践神学に組織神学を包摂するという発想に基づいている。

 フリッチェは、カトリック神学とプロテスタント神学の方法はまったく異なっていると考える。

<同様に神学的定義での研究業績の多種多様性を指摘すれば、神学のカトリック的自己理解とは対立することになる。確かにカトリック神学はプロテスタント神学よりは少なからず多面的ではあるが、―― この多様性を組織化する問題をはらんでおり、しかもこれまではプロテスタント神学よりは完璧に解決してはきた ―― 伝統的な定義ではこの点で相も変わらず中世と古代の教会史に由来するより偏狭な神学概念であるところの〈神と神的なものの理論〉としての神学を優先している。これは単なる作為と伝統形式の執着だけではなく、―― 部分をもって全体を表す ―― 序列関係をも表現している。すべての神学研究は神の問いで頂点に達して、その問いのために存在するのであり、そして神学の本来的な学術性が求められ、根拠づけられるべき場合にはその論理構造といい、その思弁的衝動といい、教義学がまさにそれである>(前掲書23頁)。

 カトリック神学においては、神を頂点とするヒエラルキーが存在する。これは古代ギリシア哲学の伝統に立つ形而上学(*1)によって支えられている。その結果、形而上学が神学に前提にすることになってしまう。フリッチェは、形而上学を前提にするような方法論をプロテスタント神学はとるべきでないと考える。同時にプロテスタント神学が歴史主義に陥ってはならないとフリッチェは警鐘を鳴らす。

<プロテスタント神学においても教義学者は ―― その中には解釈学者もいるが ―― 時々このより狭義な概念を使用するのは、つまり神学における本来的なもの、本質的なものに集中して注視しようとし、歴史家を忘れずに、しかも〈純粋な〉歴史家を意識的に挑発しながらの場合である。それ以外の点では、特殊な意味での上位研究を新旧約聖書(預言者、もしくはパウロ)の〈神学〉として表し、この点でほぼ他の一切が〈導入部〉の性格を ―― 聖書解釈学研究の大部分を控えめに掲げるのを常としている ―― 持ち得る場合には、解釈者らは例のより狭義な神学概念を自ら引き継いでいる。例のより狭義な神学の〈古典的〉概念がいまだに生きているのは残念ではない。その概念は序列関係を思い出させる。裾野があってこそ頂上が存在するように、今日では神学等のより狭義な概念からは離れ難く、そのために神学は多様な労苦の総体であり、しかも定義してきたように〈世にあるイエス・キリスト教会の使命に関係〉している>(前掲書23~24頁)。

 形而上学に依存しない形で超越性をプロテスタント神学は維持しなくてはならない。それをフリッチェは<裾野があってこと頂点が存在する>という比喩で表現する。聖書学をはじめ学術的な神学の目的は、動的な神が、今もわれわれに働きかけているという現実を実感させることだ。そして、教会が神の働きを地上で示す機能を果たしている。

 フリッチェは、シュライエルマハーの『神学通論』を現代に活かすことが重要と考えている。

<こうした限定で神学はある目的を持つのであり、この目的とは神学を総体へと組織化するものである。これは、私たちの問題においては当たり前ではない。シュライエルマハーは、彼の『神学通論』において、神学を同様に理解した人物であった。しかし何度もこの理解は(残念ながらシュライエルマハーの著作に暗い方は本書、四〇頁参照)、たとえ神学を単なる知識として、すなわち〈キリスト教〉の知識として、おのおのの目的などなく、あるいは好みの狙い設定のための単なる素材の寄せ集め(神学など単なるキリスト信仰に関する学問か、はたまた〈キリスト教〉に関する学問に過ぎない)として扱うにしても、あるいは殊更に教会の目的を何も知ろうとしなくても、厳しく糾弾されてきた。しかし教会の意図への反発から ―― すなわちカトリック教会においてと同様に ―― 各所管司教の演出と永続的支配の下でその研究を行うのを拒否していると思われるだけであった。このようなことを是認することは、シュライエルマハーの眼中にはなかった。だが彼は、〈教会支配〉という概念を打ち立てた。この「教会支配」の中では、「自らを召命された人間であると信じる個々の教会メンバー」がこの支配に積極的に関わらねばならない。のみならず、公式の教会指導によって拘束された要素とは違う「非拘束」の要素として関わらねばならない。シュライエルマハーにはこの使命が「扇動的」であると、一般には誤解される危険があると思われた(『神学通論』の§312)。

「§328で我々が福音教会における《自由な精神力》という表現によって個人の全体に向けられた行動として記述している教会支配の自由な要素(§312参照)は、個人が自己主張し得る可能な限り無制限な公共性を前提にしている。それはとりわけ大学の神学者と教会著述家の職によく見られる」(ハインリヒ・ショルツ編纂の『神学通論』一二七頁)

 この段落を見ると、シュライエルマハーによる『神学通論』§5~6に好んで対置して取り上げられるような教会プラグマティズム(*2)、もしくは実証主義の批判が無効化されている>(前掲書24~25頁)。

 シュライエルマハーは、個人が教会の制度的拘束から離れて自由に考えることで、プロテスタント神学が発展すると考えた。しかし、シュライエルマハーは既存の教会の意義を否定しているわけではない。

<神学を教会目的のための有機体であると理解するための古典的な基本§5と§6ではこうである。

「キリスト教神学者は、……その所有と使用があって初めてキリスト教教会の統一指針、すなわちキリスト教教会支配(しかし両要素において!)が可能となるところの学術的知識と芸術的規定の具現体である。

 同一の知識は、教会支配の関係がなく得られ、所有される場合には、キリスト教的であることを止め、あらゆる知識はその内容に従って所属する学術に帰属する」(前掲ショルツ、二‐三頁)

 これは、〈教会史〉という概念を§312と§328から見た場合には正しくもあり、言い得て妙でもある。私たちは第二節の末尾でもう一度シュライエルマハーの組織的な学術理念に立ち戻ることにして、今は先に進んで〈是認〉の概念について始めに提起した幾つかの定義から出発することにする。

 《是認》という意味はまずは、神学が何か要求されたもの、勝ち取るものであり、批判とか否定には対応していないということを表現している。そして批判的な神学とは天気(すなわちパレスチナの天気)についてだけ語る神学よりは宗教的である。

 パウル・ティリヒ参照。「教会は組織神学者にとっては研究の場所である。教会は、神学者が教会に抵抗して生活し、研究する場合でもそうである。抵抗は共同体の一形式である」(『組織神学』第Ⅰ巻、六〇頁)>(前掲書25頁)

 神学は、教会から離れては存在しないという立場をフリッチェは強調する。西ドイツやイギリス、アメリカでは、総合大学における神学の宗教学化が進んでいる。これに対して、フリッチェはあくまで神学は教会の中の営みであることを強調する。もっとも東ドイツは無神論国家で、教会以外の場所で神学を展開する余地がなかったこともこのような認識をフリッチェが持った外的要因と思う。東ドイツで総合大学の神学部は、教会と強く結びついていた。

 フリッチェは、神学を瞑想に還元してはいけないと考える。これは、東ドイツのプロテスタント教徒に根強く存在する敬虔主義に対する批判だ。

<結局のところ〈是認〉という表現は、各個人の思慮、もしくは個々のキリスト教徒にとって瞑想というものが、たとえその瞑想が神学のテーマに関係しているとしても、十全な意味での神学ではないということである。神学に必要なのはある種の社会性と公共性である。例えばキルケゴールが著作を公開(匿名か実名かはほとんど重要ではない)しなかったら、もしくは彼の「日記」が〈出版〉されなかったら、それらは本来的な意味での神学ではなくなるだろうし、同様にレッシングが初めて公開したライマールスの論難書(*3)も神学ではなくなるであろう>(前掲書25頁)。

 イエス・キリストは、他者に奉仕することを説いた。従って、神学においても他者性を持つことが死活的に重要になる。敬虔主義のように個人の内面で自己完結するような神学を構築してはならないのである。

 他者への奉仕がキリスト教徒の使命である。この使命が「ミッション(Mission)」の本来の意味だとフリッチェは強調する。

<ただ若干のことが言えるとしたら、神学が是認によって役立たなければならない教会の目的を、もっと的確に表現するのなら教会の〈問題〉を《使命 Mission 》であると私たちが見なしているということだ。この点で指摘されるのは、この〈問題〉が歴史的出発点を有し、歴史を通じて〈伝えられる〉ことであり、と同時に伝えられても自身に根拠を持たないということだ。この点でギリシャ哲学と神話における言葉の原義と対立する今日的な宗教概念が特に鮮明となる。元々 ―― プラトンでは ―― 神々に関する民話からより深い意味と内容を解析し、同様にそこから有益な道徳規律を演繹するのを心得ている者が神学者と見なされていた。啓蒙主義時代ではキリスト教神学者も同様であると理解されていた(多数の〈異教〉の神学者も今日まではそのように理解されている)。この点と対立しているのは、キリスト教神学が具体的な歴史の〈問題〉のお陰であり、擁護する真理が時代を超えたイデーと抽象的な道徳原理の内に包括されるのを見ることができないとの確信である>(前掲書25~26頁)。

 神学的な真理は具体的だ。教会の使命も、具体的文脈から乖離した抽象的な事柄ではない。(2020年5月5日脱稿)

脚注)

*1【形而上学】

経験的に知覚される領域を超えた究極的なものを探ろうとする学問。「超越」の追究。この文脈では中世キリスト教の形而上学の伝統を想定していると思われる。簡単にまとめると、神は無から世界を創造した。神は世界を超越している。神は、その似姿である人間に超越する自由な存在者である。

*2【プラグマティズム】

イギリス、アメリカにはじまる実用主義、実践主義思想。あらゆる真理は実用的結果を有する。裏返せば、実用的結果の内容が真理を規定することになる。したがって真理はひとつではない。プラグマティズムは、1901-30年間のキリスト教神学にも多大な影響を及ぼした。

*3【レッシングが~論難書】

レッシング(1729-1781)は、ドイツの啓蒙思想家、劇作家。神学と医学を学んだ後、演劇、評論の分野へ。ライマールス(1694-1768)はドイツのプロテスタント神学者。信仰を啓示と奇跡から離れさせ、聖書の中の矛盾撞着を指摘。キリスト教の起源を理性的に説明しようとした。ライマールスの死後、レッシングが彼の遺稿を「匿名者のヴォルフェンビュッテル断片」(本稿の「ライマールスの論難書」)として公刊。センセーションを巻き起こした。