キリスト教神学中級講座 「フリッチェとの対話」第6回 神学総論6 教会と社会
フリッチェは、神学の主体を信仰共同体である教会と考え得る。キリスト教を神学の対象とするアプローチだけでは不十分なのである。神学を近代的な制度化された学問の枠内に閉じ込めることはできない。教会に所属することで救われるという方向に人々を誘導することが重要になるとフリッチェは考える。
<しかし〈イエス・キリスト教会の使命〉という表現は、単に〈キリスト教〉を神学の対象であると特徴づけていることとは対立しており、まるでこの対立を歴史的に〈理解〉し、現在でもなお統計学的に記述することのみが問題であるかのようである。この〈対象〉をその動き中に見てこの動きに影響を及ぼそうとすることこそが問題なのである。神学は徹底的に説明や理解するだけではなく、変革をも欲する学問であり、伝統だけではなく将来の展望とも関係がある。目的論的なことを想起させても、それによって因果律的なことを過小評価しないのは〈使命〉の概念である。さらに〈使命〉の概念には、教会の〈問題〉も形式的現実的側面を有し、方法問題(「世界の中で」という付け加えをアクセントにして)を提起する、ということもある。この点と関係があるのは神学である>(Hans-Georg Fritzsche, Lehrbuch der Dogmatik: Teil1: Prinzipienlehre Grundlagen und Wesen des christlichen Glaubens, Evangelische Verlagsanstalt Berlin. [Ost]Berlin, 1982, S.26)
ただし、教会は社会(世界)から孤立して存在しているわけではない。教会は社会に対して開かれていなくてはならない。教会と社会をつなぐためには知的操作が必要だ。この機能を果たすのが神学だ。
ただし、教会の社会への関与については熟慮が必要とフリッチェは考える。
<最後にもう少し話を限定して見ると、神学から要求するのは、「この使命に《役立つ》目的」での判断は「よく練り上げる」必要があるということだ。これはまずは、単に信仰以上(もしくは以下)のことを要求するに過ぎない。しかし、ある一文がそれを口にする人が〈信心深いキリスト教徒〉であることによって神学的な文言になるものではない。これは単に ―― ネガティブに ―― 邪説を防ぐためのものでしかあり得ず、しかもそのような防御が実際には良いものか否かが問われる可能性もある。ある文言を神学の文言にするものは、論理的・即物的領域では若干中立的なもの、要するに神学的な物事にとっての関連のあるものでなければならない。そして〈不信心者〉でも重要なことを言う可能性があるのは異論のないことであろう。他方、私たちが要求するのは、教会の使命に役立つ《意図》である。関連性は自ずとは生まれるものではないし、関連性への意志が存在し、意識されなければならない。関連性への意志を、教会の使命に役立たせようとする、より狭義の(ある面ではポジティブな)意志よりも優先すべきか否かについては議論のあるところである。例えばフランツ・オーヴァーベック(*1)にはイエス・キリスト教会の使命 ―― 何れにせよ、《我々の今日の文化世界》における教会の使命 ―― に役立とうとする「意図」などなかった。他方、あのバーゼルの教会史家の〈是認〉には多くの慣例があったので、カール・バルトのような人物は、その死後に出版された著作である『キリスト教と文化』(オーヴァーベックを無神論者であり、反教会者であると告知するものであるが)の関係で「私たちはフェドンのソクラテス以外の著者を異教の復活預言者に数え入れたいし、理由としては、このような信仰を私はイスラエルでは見いだせなかったからである」(「神学と教会」『論文集』第二巻、ミュンヘン、一九二八年、八頁)と言った。オーヴァーベックは純粋に中立的な意味での神学者であった。そんな人物も存在しているのである! 誰が神学者であり、そうでないのかに関する究極の質問は誰も分からない。しかしそのために上記の定義を変える必要はない。なぜならオーヴァーベックのような人格は ――〈不信心〉ではあるが、定義で定められた意図はない ―― その本性の定義を明確に考慮に入れようとしても、〈通常の〉神学者にとってそうであるに違いないが、苦痛の種のままであり続けることはない。そのような人物は根本的には存在し得るし、想定内のものと見なし得る>(前掲書26~27頁)
ここでフリッチェが述べていることを言い換えてみようと思う。教会が社会に対して奉仕する場合に、社会の構造を無視することはできない。東ドイツをはじめとする社会主義国において、神を信じる人は少数派になっている。西側でも形式的には教会に所属していても神を信じない人はたくさんいる。このような状況で、神学は教会内のキリスト教徒だけではなく、教会外の無神論者も対象にされなくてはならない。この認識は、チェコのプロテスタント神学者ヨゼフ・ルクル・フロマートカ(*2)と共通している。神は、キリスト教徒にとってだけでなく、無神論者や唯物論者にとっても主なのである。
神学は、もはや単純に教会のための学問とは言えないとフリッチェは考えている。フリッチェがこのような考えに至ったのは、東ドイツという無神論国家において神学を営んでいるからだと思う。日本もキリスト教徒は極少数はである。日本の神学が対象を教会にとどめると、社会的影響はほとんどなくなってしまう。神学は、キリスト教徒のみならず、仏教徒、神道の氏子、無神論者をも対象にしなくてはならないのである。
フリッチェは、神学と信仰の関係についてこう整理する。
<もう一度この最初の論点を締めくくるとこうなる。ここで述べた神学理解は神学にある目的を設定して現実教会の課題を負わせるという今日広く流布している懸念を是認することはできない。哲学的学問概念(明確には学問理念)によよって神学による過度の影響があるのなら、―― それに関しても今日では多くの議論があるが ―― この過度の影響にあるのは有効性と実践的有用性に対する嫌悪感である。というのもその懸念は純粋学問のために実用学を卑下する反ギリシャ(そして後には中世)評価の遺産であるからだ。もちろん、実用的(正確には実践的)学問概念によって神学を過小評価するといった逆も考え得る。しかし、神学の今日的状況にある危険性は ―― そしてそれを度外視してはいけないが ―― 中世修道士の時代における神学には「狼藉 Allotria 」を犯す危険性が ―― これに対して補正を加えると ――〈純粋な〉学問理念の中に見ざるを得ない主な危険性よりも比類なく大きいということである>(前掲書27頁)。
神学にとって真理は具体的である。現実の教会と教会員が直面する課題と取り組むことが神学者に求められているのだ。フリッチェは実践によって神学が振り回される危険を認識している。しかし、それよりも神学が教会内部に閉じ籠もることの方がより危険であると考えている。
教会と社会の緊張の中で神学は営まれなくてはならないのである。
<単なる解釈学的専門家と組織学専門家との桎梏ではないこの緊張関係によっても、神学の現代的立ち位置が ―― 形式上 ―― 特徴づけられている。それでも両〈矛盾〉を正しく理解し、その克服に着手するためには、神学の歴史的展開へのより詳しい洞察が、その学術理念と〈学術性〉との関係で必要となる>(前掲書27頁)。
神学は旅人性を帯びている。教会と社会の緊張の中で営まれてきた教会史と教理史を学ぶことが組織神学者にも求められている。(2020年5月9日脱稿)
脚注)
*1【フランツ・オーヴァーベック】(1837-1905)
ロシア・ペテルブルク出身の新約学者、教会史家。キリスト教はキリストとキリストに対する信仰以外にはあり得ない。つまり歴史の終わりにキリストが再来することを待ち望む、再臨待望以外にあり得ないとした。それ以降のキリスト教史も、自由主義神学も護教的神学も非キリスト教的であると批判した。
*2【ヨゼフ・ルクル・フロマートカ】(1889-1969)
チェコのプロテスタント神学者。ナチスドイツに抵抗し、チェコを離れ、スイス、フランスをへて渡米。プリンストン大学の客員教授に。1947年帰国。社会主義体制下のチェコスロバキアで、キリスト者と無神論の立場のマルクス主義者との対話を進めた。1968年、「プラハの春」に対する、ソ連(ワルシャワ条約軍)の介入の不当性を主張。翌69年死去。
フロマートカの生涯は『J・L・フロマートカ自伝 なぜ私は生きているか』(佐藤優=訳・解説 新教出版社)、思想は『人間への途上にある福音』(ヨゼフ・ルクル・フロマートカ 平野清美=訳 佐藤優=監訳 新教出版社)に詳しい。