佐藤 優 連載和田春樹先生について(2)

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2007年3月11日 「フォーラム神保町」佐藤優×和田春樹セミナー

【和田春樹さん講演を受けての、佐藤優さん所感】

佐藤)非常に難しい問題に関して、和田先生は真摯に取り組んでいます。それで、和田先生ということになると右翼国家主義陣営からは――私も右翼国家主義陣営の恐らく端っこのほうにいると思いますが――自虐史観の代表者であると言われていますが、実は自虐史観というのは、私は今右翼国家主義陣営の中で強く言っているんですが、あれは日本でしかあり得ない。我が国体の問題と非常に関係していると言っているわけですね。革命という考え方を導入すると、その瞬間に革命以前のことが関係なくなるんです。完全にリセットされるわけです。今の中華人民共和国は、中華民国時代のことに関しては一切責任を負おうとしません。それは、革命が起きているからそこで一回リセットということなんです。そうすると、自虐史観というのは絶対に起きてこないんですね。自虐史観というのは、その構成から見る限りにおいては、それは明らかに日本の歴史というのはずっと連続しているんだと。我が国家、我が民族はそれに対する責任を取らなければいけないんだという発想から来ているわけです。ですから実は、和田先生のアプローチというのは、非常に私は日本的だと思うんです。

 それから和田先生の今日のお話の中で私が非常に尊敬するのは、問題を裏から誰々の話を通して処理するとか、あるいはデモ隊に圧力をかけさせて「あいつとあいつがキーパーソンだから少し脅し上げてやれ」とか、あるいは「街宣を出せ」とかいう形で問題を解決するのは、物事の技法としては非常にやりやすいわけなんですよ。ところがそこのところを愚直なまでに公共圏における議論を通じてやると。日本の場合、国家という領域は強いですし、私的領域も強いですけれども、公共圏は弱いですからね。公共圏の中で処理していくということが、非常に大きなところだったと思うんです。その観点からしますと、今後和田先生の話をいろいろ引き出していかなければいけないと思うんです。

 先生は自伝を書かれたんですが(『ある戦後精神の形成 1938-1965』岩波書店)、あれは65年で終わっていますよね。例えば金大中大統領も、もし和田先生を中心とする金大中さんを救う運動がなければ、全然違う運命をたどっていたと思うんです。ですから韓国史の中にも大きな影響を与えているわけなんです。それと同時に、やはり和田先生の中にあるところの一種の――それこそ先生のお叱りを受けるかもしれませんけれども――玄洋社あたりまでさかのぼるような亜細亜主義の発想なんですよ。ここのところも非常におもしろいと思っています。

 それで、和田先生に対して左からの批判というのは非常に激しくなされたんですが、右からの批判も山ほどあるんです。そのうち一番悪質だった批判は、あたかも和田先生が岩波書店の「世界」の中で「拉致問題はない」と言ったと。こういう大嘘プロパガンダですね。和田先生は「拉致問題がない」などとひとことも言っていません。逆です。「拉致問題として辛光洙(シン・ガンス)の一件を明らかに確定できる。だから拉致問題として処理しなければいけない。それ以外の問題を現実的に処理するためには、外交交渉としては行方不明者としてやる以外にない」と。相手は認めていないのですからね。これは外交の世界でごく当たり前の議論なんです。それが曲解されて、「拉致問題はない」ということを言った東大教授であると。そこのところには、東大教授というエスタブリッシュされた人間が、現実からかけ離れたところで「拉致はなかった」と偉そうなことを言っていたのだというウソ言説が作られて、日本の反エリート主義的な機運、日本の反東大的な機運といったところと合わせてやられちゃったんですね。それに対して事実に即した形で反論するメディアがほとんどなかったということが極めて残念です。

 それから岩波書店の「世界」は私も非常にお世話になった重要な媒体なんですけれども、やはりアジア女性基金の問題においての和田先生へのアプローチというのは、これは厳しすぎたというか、非常にセクト主義だったと思います。もっと和田先生の主張をきちっと載せるべきだったと思うんです。それから左の側からの批判として、この人たちを左と言っていいのかというのは私は非常に疑問があるんですが、往々にして日本の大学の中には優等生左翼というのがいるんです。これは大学が講座派、労農派双方の影響が強く、マルクス主義の影響が強かったので、その中で左翼の顔をしているとだいたい優等生になるというのが基本的に日本の大学の、特に国立大学の特質なわけなんです。実際の運動とは関係なく、暴れたりもしないんだけれども、言説は極端な左翼。共産党よりもずっと左というのが非常に多いんです。今でもその残滓があります。

 佐々木力さんという人の「批判的思考の再生を求めて 日仏左翼知識人の30年」(上下回、「世界」99年1月号、2月号)という文章があります。なぜ「世界」がこのような文章を載せたのか。要するに現代転向者論です。転向者の中で何人か挙げているんですが、一人は東大の山内昌之先生です。山内先生はかつて学生運動の活動家として相当運動をやっていたが、いつの間にか右になりやがったな、この野郎という話です。ですから山内先生は怒り心頭に発していて、あの先生はなかなかそのへんにおいては記憶力のよろしい方ですから、それ以降一度も「世界」には登場していないと思います(笑)。

 和田先生に関しては、要するに政権に歩み寄っていると。こういうようなやり方は、知識人の頽廃なんだという議論です。それから何人かの人たちの、かつての左翼系の運動をしていたことを、佐々木さんは「世界」に書いている。和田先生はこれを受けて、反論を書くんですよ。それで「複写自由」という形にして、その反論を何カ所かに配る。そうするとネズミ算的に増えていくわけなんですが(笑)。その中で「おい佐々木、お前も特定の団体に入っていただろう。自分自身の団体について明らかにせずに人の団体を暴露するのは、左翼の仁義に反しているではないか」とかなり激しい調子でアジりました(笑)。すると佐々木さん自身はその後ちゃんと、「世界革命」という新聞の中で「自分は第四インターナショナルだ。トロツキストの世界的な組織のメンバーだ」ということを明らかにして論文を書きました。これは新左翼系の中で非常におもしろい議論だったと思います。

 それで私がやるよりも、どうぞフロアの皆さん、率直な意見を出してください。それで意見交換をしましょう。

(会場発言、雑音で再現不可)

 
佐藤)村上正邦さんというのは、私はその後非常に親しくした人間です。例えば「慰安婦問題がなかった」などという言い方がありますが、彼自身は慰安婦問題については発言していないんですね。そのことを私はあるとき訊ねたんですよ。すると村上さんはこう言うわけです。「私の父親は、福岡の炭鉱の寄せ場で現場監督だった。理由もないのに朝鮮人が引き出されて、『口の利き方が悪い』ということで雪の中で木刀で殴られて半殺しにされた。そういうものを目の前で見ている。戦前の日本における軍隊にはたしかに公娼制度はあったし、その中に慰安婦たちもいた。ひどい扱いをしていたのは明らかだと思う」と言う。そういうことに関して彼は「自分が見てきたことと違うことについては絶対に発言しないことにしている。ただし自分の仲間たちが日本の尊厳のために『こんなものに対して頭を下げてはいかんのだ』と運動をやっている。それについて自分のほうからその運動をストップするという話ではない」と言っていましたね。

 村上さんは非常に人間として良質だと思うんですよ。残念に思うのは、もう少し時間の軸がズレていれば良かったということです。私が当時村上さんと知り合っているのだったら、もっと胸襟を開いた形で、閉ざされた扉の中で和田先生や村山さんや村上さんや橋本さんときちんと議論をすれば、もっと収斂した議論になったのではないかと思います。

 私は今の風潮として、「話してもわからないんだ」ということを軽々に言いすぎると思うんですよ。あらかじめ「話しても通じないんだ」と決めつけないほうがいい。その姿勢が和田先生の中には非常に強かったと思います。その和田春樹的なものが今媒体で扱われなくなってしまっている。記事としてはわかりにくい、という線があるからかもしれませんが。

 会場から意見を聞かせてほしいのは、どちらかというと保守系のテレビ媒体におられて、なおかつ学者の卵であり、むしろ民族的な形、エスニシティとしては中国人。拉致問題については中心的にやっておられ、恐らく近い将来北京オリンピックでは中心的に引っ張っていくであろう日テレのジャンさんにお訊きしたい。例えば日中間の相互理解、相互対話に関して、メディアとインテリの関係をどう考えていけばいいとあなたは思います? あなた自身がその現場にいるインテリであり、なおかつメディアの一人のエリートであり、なおかつエスニシティとしては中国人、シチズンシップとしては日本人というアイデンティティの問題もあるでしょう。
 
 

――和田先生のお話は初めて聞いたのですが、メディアやテレビで扱う場合は、ほとんど視聴者に伝わらないですよね。それをどう伝えていくかということはすごく大きなテーマでもあります。現状のメディアではほとんど不可能に近い状態であって、どうわかりやすく伝えていくかは大きな課題です。佐藤さんの話はわかりやすいので若干みんな聞くのですが。

 
 
佐藤)わかりやすくするということに関しては、僕もすごくつらさを感じながらやっています。やはりおもしろくないとわからない。それから短時間で説明しなければならない。それと同時に、思考停止をどこで停止するかということだと思うんですよ。それから、私自身はやっぱりマージナルな人間で、少数派だと思う。少数派だから、日本の中心になる言説を出したらいけないと思うんですよね。それが宿命的に少数派だというのは、やはり沖縄の血が入っているということです。これは陰にも陽にもいろいろな場所に出てくるわけなんですよ。ですから突き放してみるならば、アイヌと沖縄というのは、ヤマトンチュ(大和の民)、シャモ(和人)からの距離が同じくらいなんですよ。ところがアイヌはエスニシティとして独自の別民族を選んだ。沖縄は強くヤマトと同一民族だということを選んだ。しかし調べてみればこれがどちらにもなるということは明白なんですね。ところがそういう問題は僕にとってものすごく琴線に触れる問題で、例えば慰安婦について僕は生理的には扱いたくないという気持ちがあるわけです。どうしてなのかというと、母親から聞いていたということと同時に、先ほど言ったように「大日本帝国」という映画に琉球慰安婦が出ていると、そこのところで他人事と思えない。自分の同族の思いが出てくる。するとそこに触られるということは何か心臓をギュッとわしづかみにされるようなイヤな感じが出てくるんですよ。これは少数派でないとわからない。
 
 それからもう一つ、僕自身が国家公務員になるときも――これは今まで話したことがないのですが――かなり意図的に専門職員、ノンキャリアを選んだんです。役所に入る前に予備校に入るとかもう少し一生懸命勉強すれば、別の方向も可能だったかもしれない。大学でも神学のようにはじっこのものしか選ばなかったというのは、やはりマイノリティのところ、境界のところに自分を置いておくというのは非常におもしろいし、そこから見えてくるものがあると思う。しかしそこから出てくる言説というのは、絶対に中心的な言説にはならないんです。保守陣営の一部の人たちが、私に対して非常な危機意識をもっている。私の中には根源的には破壊的な要素があるんですよ。それは自分でもよくわかっているわけです。それから左翼のほうの党派的な考え方も嫌いなんですね。それはやっぱりマージナルなところにいるからだと思うんですよ。

 それに対して和田先生の考え方というのは、実は非常に中心の考え方なんです。常にきちんと体制を動かしていく。インテリとしてどうやっていくかという、中心となる考え方なんです。今非常に重要なのは、中心の側の考え方、あるいは大きな物語を作っていくということだと思うんです。どうしてかというと、インテリが大きな物語を作っていく、日本の国家方針を作っていくということをやめたら、そのスカスカになったところに神様は真空を嫌うわけですよ。真空に悪魔がたくさん入ってくる。とうてい国際的に通用しないような、レベルのものすごく低い神話、物語ができてしまう。そうすると、世界中の中で日本だけがスッテンテンに浮いているような状況が出てきます。しかしあるレベルよりもっと低くなると、自分のレベルが低いということが自覚できなくなってしまう。特に今の日本の外交当局はそういった状況になっているわけです。だから、そこの連鎖をどこから切っていくかということになると、教えてほしいのは右とか左とかいう色にはとらわれない編集方針でやっているとすると、例えば「中央公論」です。
 
 
(ここで「中央公論」の中西さんより発言あり/聞こえないため省略)
 
 
佐藤)中西さんと僕はストレートにこういった話をしたことはないんですが、彼女は僕のためにリスクを負ってくれているんですよ。「中央公論」というのは、私のことを名指しでぶっ叩いてきた数少ない雑誌です。私を名指しでぶっ叩いているのは「中央公論」と「諸君!」だけなんですね。恐らくは、前回(2007年3月6日)来た手嶋龍一さんが、「これはどこかで軌道修正したほうがいい」と言ったのではないでしょうか。彼は陰徳を積んで説明をしない人なんですよ。それで偶然を装って何度かほど「中央公論」との接触機会を作ってくださいました。恐らく「中央公論」に僕の考えていることを出したほうがいいと手嶋さんが提案したのではないか。

 

《※「中央公論」にはこれまで佐藤優氏と手嶋龍一氏の対談が3回掲載されている。
「緊急提言 ロンドン旅客機爆破計画の阻止に学ぶ 日本版MI6の創設を急げ」(2006年10月号)
「元ロシア・スパイ暗殺事件の真の恐怖 今そこにあるポロニウム拡散の危機」(2007年2月号)
「佐藤優・二審敗訴の意味 外務省は”武装解除”される(2007年4月号)》

 
 雑誌というのはインテグリティ(首尾一貫性)がすごく重要ですから、「佐藤なんてとんでもないヤツだ。俺が内部調査したらこいつが悪いヤツだということがよくわかりました」なんていうことを外務省の退職者が「中央公論」に書いているのを、ある人がコピーで送ってくれました。本人に当たらずしてこんなことを書いているとは、なんちゅう雑誌だと思いましたよ。それはそうとして、そういう中で僕を「中央公論」に出すということはすごく勇気があることだったと思います。編集者の人たちは、案外みんなそういったリスクを冒しながらやってくれているんですよね。それがちゃんとした書き手にはそこのところが見えると思うんです。

 それと同じような形でリスクを冒してくれている人がもう一人左側にいます。「佐藤なんかを出してけしからん。『防人の詩』を歌うようなヤツの論考を出しているのはどういう姿勢なのだ」とお怒りの投書が来て、お怒りの投書が来るまではわかるのですが、お怒りの投書を載せるということは編集部も基本的にはそういう考えだということですよね(笑)。そのあと私は反論も一回書いています。今知識人にとって最も識字率が高い雑誌は、恐らく「週刊金曜日」だと思います。「週刊金曜日」の伊田さん、どうですか。

伊田(「週刊金曜日」副編集長) 投書を選んでいるのは、実は私です。編集部がそう思っているというより、潜在的にそういう読者もかなりいるだろうと。だから投書欄という公共圏に移してきっちり議論しておいたほうがいいんじゃないだろうかと。佐藤さんが直接「反論を書きたい」と言ってくださったのは予想外にうれしかったです。佐藤さんへの批判の投書を載せれば、その投書自体への反論の投書がかなり来るだろうという見込みがあって載せました。あとはいくつか投書が続いておりまして、だいぶ議論が整理されてきているのではないかと思います。

「週刊金曜日」はよく左翼的とは言われますが、筑紫哲也編集委員がよく言うように、どちらかというと川上のメディアです。根本的な議論をちゃんとしておく。そういうところを私個人はしておきたいと思っていまして、そういう意味では和田先生が「拉致はなかったと主張している」というデマに対しては、そんなことがウソだということは当たり前ではないかと思う。しかし「週刊金曜日」としてはもっとはっきり「あれはデマだ」と強くキャンペーンしていったほうがいいかな、とは思っています。
 
 
佐藤)先生は「週刊金曜日」とはどんなご縁でしたっけ?
 
 
和田)僕は以前「週刊金曜日」に佐藤勝巳さんの批判を書かせてもらいました(「佐藤勝巳『救う会』会長の研究」、「週刊金曜日」2003年9月19日号)。それからこの間は佐藤優さんと対談をさせてもらいました(「北朝鮮と安倍外交」、「週刊金曜日」2006年10月27日号)。
 
 
伊田)私の入社する前のことですが、恐らく慰安婦問題の解決については、わりと「週刊金曜日」は和田さんに厳しい論調でしたよね。
 
 
和田)そうですね。
 
 
佐藤)インカーネーション(キリストにおける神の受肉)は、キリスト教の神学ではすごくポイントになる部分です。神様というのは神様でいただけで満足してしまうのではない。人間の肉の形を取ってきたというわけです。クリスマスをなぜ歓迎するのかといったら、神様が肉の形を取ったからなんですよ。物事を現実のところにもっていかなければいけない。現実のところに神様が来たらどういう運命なるかといったら、世の中とうまくやれなければ死んでしまう運命にあるわけなんですよ。しかもそれは刑事犯として処刑されるという運命にあるわけです。現実の世界の中で生きていくのだったら、必ず現実の世界と妥協しなければいけないから歩留まりがある。非常にそこがシンボリックなのは、当時の革命派でインテリのパリサイ派の連中が「イエスをひとつ引っかけてやろう」と思った。それで「税金を払うべきですか。払わぬべきですか」と訊く。そうすると「金貨を見てみろ」とイエスは言う。「金貨に誰の顔が描いてあるか。それは皇帝の顔だ。ならば皇帝に返しなさい」と言った。結論から言うと、「税金は払え」ということです。権力に直接従うかどうかという議論は必要ない。しかし、最低限の付き合いとして税金を払うという形で国家と関係を結ぶ。貨幣というものに表われている力も、仕方がないものだ。必要最低限なものだということです。しかしそれにはとらわれないという感覚なんです。

 経済合理性ということから考えると、大学という中に入ってしまえば大学の狭い権力や権威、あるいは小さなお金がある。私の知り合いでも大学の行政をやっている人間は、そこの中でだんだん埋もれていってしまう輩がいる。すると周囲が見えなくなってしまうわけです。それから我々が外務省にいるときには、ちょっとでも難しいことを言う教授がいれば、まずメシを食うことにするんです。それで1回目は絶対に批判をせず「お話をうかがってごもっともでございます」と言う。それを3回くらいくり返し、外務省の広報誌「外交フォーラム」に論文を書いてもらうんです。「外交フォーラム」はたしか今、山内昌之先生が編集委員でしたね。その「外交フォーラム」に論文を書いてもらう。そして破格の原稿料を出すんです。その次には政府の諮問委員に入っていただく。だいたいこの段階を踏むと、無二の親友になると決まっているわけなんです(笑)。ところが、そういうことが通用しない先生が何人かいるんですよ。行政官のときにこの手段が通用しない先生の一人が、和田先生でした。和田先生と付き合うと、みんな官僚の方が汚染されてしまうわけです。篠田研次さんもシカゴの総領事(現駐米大使館公使)ですが、これは決して良いポストではないのです。というのは、和田先生のドクトリンに汚染されて「国際的に通用しないクリル諸島の範囲なんてやっていてはダメだ」と。そして方向を転換していった外交官の一人だったわけなんですね。

 アジア女性基金というのは、外務省ではアジア大洋州局のアジア地域政策課が担当するんです。これは和田先生自身からお聞きしたんですが、和田さんがアジア地域政策課の事務官から年賀状をもらった。「私は良心に基づいた仕事が今回できるので、非常にうれしく思っている」という趣旨だったそうです。アジア女性基金というのは実は外務省の中でも、非常にみんな深刻に受け止めるとともに、やりがいのある仕事だということで多くの人間たちが手を挙げていったわけです。どうしてかというと、多くの外交官が中国語を学ぶ。ベトナム語を学ぶ。ビルマ語を学ぶ。マレー語を学ぶ。インドネシア語を学ぶ。タガログ語を学ぶ。朝鮮語を学ぶ。そういった外交官たちは、現地の歴史、現地の皮膚感覚がわかる。そういったところが好きなんですね。それで、紋切り型の日本政府の方針の中で抜け落ちているものがある。それを実際に生かせる場所というのがなかなかない。そういったところでアジア女性基金ができた。

 政府がやれることには歩留まりがあるのだけれども、私たち自身が自分たちの良心というものと仕事の間を合わせていくことができる。あのときに北方領土問題とアジア女性基金が同時に動いていったというのは、外務省の中でそういう空気があったわけなんですよね。だからそこではみんな意欲的に仕事をするんですよ。そういう外交を取り戻すためにはどうしたらいいかと考えるんだけど、簡単に結論は出てきませんね(笑)。
 
 
和田)被害者にお金をお渡しする式に、外務省の人が同席するんですよ。台湾でもそうですし、韓国人にお渡しするときにも外務省の人がついてきました。異口同音に皆さんおっしゃるのは「自分の外交官生活にとってこれは非常に重要な場面だった」と言っておられますね。総理大臣の手紙が朗読されて、お母さんたちがどれだけ感激するかということですね。ここが非常に重要な点です。お金の問題じゃないんですから。そういう意味では、珍しい経験だったと思いますね。被害者がそれだけ目の前にいるということです。被害者の心を少しでもやわらげる。怒りをやわらげて和解の方向へもっていけるかどうかということですから、それは極めて人間的な作業です。これを日本の政府がやったということは、非常に大きなことだったと思います。

 アジア女性基金では、政府のお役人や基金に関係した人など関係者の証言を集めた『オーラルヒストリー アジア女性基金』という本を最後に出して終わろうとしています。もう一つは「デジタル記念館 アジア女性基金」と「慰安婦問題とアジア女性基金」をインターネット上に立ち上げようとしているんですね。そこにはアジア女性基金の資料も入るし、回想的なものも入る。この経験について国民がちゃんと考え、批判的に検討していく。そして評価すべきところは評価し、問題点があれば問題を指摘する。10年間の経験は共有していくべき経験だったと思います。
 
 
佐藤)本当にそう思います。それとともに私は、アジア女性基金のこの活動ができたは、一種の不作為があったからだと思います。その不作為とは、村上正邦さんであるとか板垣正さんであるとか右派国家主義陣営に入っている人で、本当に自分たちの動きを発揮するならば、こういった動きをつぶすことができた。しかしある種の歩留まりにおいても不作為を行なった。そういった人たちの中にあったところの歴史に対する思い、これはなかなか文字にはなりにくいものです。彼らの立場もありますからね。なかなか見えにくいものなのですが、私は行政の内部におりましたのでそれは見えるんですよ。例えば衆議院で決議を行なったんだけれども、参議院で決議を行なわなかったという前代未聞の事態がどうして起きたのか。これを裏返すと、当時の村上氏の力をもってすれば衆議院決議をつぶすこともできたんですよね。村上さんはたしか魚住昭さんとの回想録では「だまされた」と言ったんでしたっけ。しかしあの人は簡単にだまされるような人ではありません(笑)。そういったことを含めて、いろいろな物語を読み取っていく力が必要と思うんです。

「フォーラム神保町」は今日で8回目です。少しずつやりたいなと思っていることができてきていると思います。今のメディアを取り巻く状況、官僚、知識人を取り巻く状況で最大の敵はシニシズム(冷笑主義)だと思います。「どんなことをやったって状況が動くはずはないさ。何カッコつけやがってあいつは」と斜めに構えてヘラヘラと笑う。この冷笑をアイロニーにおける笑い、あるいはもう少し転換してユーモアにおける笑いへと、笑いの質を転換していけないかなと考えています。

 最後に和田先生に訊きたいのは、「東北アジア共通の家」を含め、和田先生の中にユートピア思想はありませんか。最後にユートピアについて語っていただきたいと思います。「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相等しい」と魯迅は言っています。私は和田先生のユートピアについて訊きたいんです。
 
 
和田)ユートピアを考えるというのは、現在存在しない理想の社会を夢見る、その実現をめざすということです。そういう気持ちは人間にとって重要なことであり、そういうものを失うと社会としては現状追随という退嬰的な気分に流れてしまうと思います。戦後の日本の社会には、マルキシズム、社会主義がユートピアの要素を果たしていたところがあるんですよ。学生運動はだいたい左翼が握っていますから、学生運動に積極的に参加していなくとも、活動家が胸を張っていろいろ言っているのをみんな聞いているわけです。そういうリーダーも多くは大学を出たら転向してしまって変わってしまうわけですが、若いときにある理想の社会を夢見るということに触れるということは、社会の中で前向きに生きていくのに助けになっていたのではないかと思います。ナベツネさんも共産党だったし、氏家(齊一郎)さんも共産党だったし、田中角栄の秘書の早川(茂三)さんだって共産党員だった(笑)。そういうことを経てきて、それぞれ仕事をされているのでしょう。そういうところがあるんですよ。

 ところが今や左翼が非常に弱ってしまった。マルキシズムの権威がなくなってしまった。それではこまる。やはりユートピアの再建がどうしても必要になる。19世紀に生まれた社会主義のユートピアを実現する行為が、大変な虐殺を呼んだり抑圧を生んだという事実を我々は目に前にしているわけです。北朝鮮の問題もあります。いまは簡単に、一挙に理想的な社会をつくろうとして、そういう社会ができればすべて一遍に世の中が良くなるとは言えないことがわかっています。その点、柄谷行人さんの言う「世界共和国」のようなユートピアはできるはずがないと思っているのです。そういう全面的なユートピアでないような、新しいユートピアが必要です。つまりもっと漸進的なものです。「漸進的なものはユートピアではない。一挙に理想の状態に到達するという考えがユートピアだ」という考え方もあります。しかし漸進的に人々の合意に基づいて、現実に存在していない理想的な状態に近づいていくということでなければ、いまは人々を引きつけることもできない。強制でユートピアをつくることはできないのです。そういう意味で言うと、漸進的なユートピア、部分的に実験されながら世界を変えていくユートピアということになると、それは地域主義ではないかと思います。世界が一遍に、人類全体が一挙に新しい理想状態になるというようなことを夢見たら、世界的な強権政治になってしまう。アメリカがやっていることは、まさにそれじゃないですか。そうじゃなくて、いろいろな複雑な要素がからんでいる一つの地域の人々が集まって、その地域のみんなが協力して生きるような形を模索することによって、一種の理想状態に近づく道を実験する。トライ・アンド・エラーでやっていく。その地域主義が新しいユートピアではないでしょうか。

 私は「東北アジア共同の家」をずっと提唱してきました。中国、韓国、北朝鮮、日本、ロシア、アメリカ、この6カ国でそういうことを考えるべきではないか。とりあえずの問題は朝鮮半島の平和、安全保障ということでした。自然にそうなるわけです。アメリカも当然そこに入るということになる。初めはまったくそれも夢物語だったのです。だいたいアメリカを入れるのはみんな反対ですから、僕はなんとかハワイとアラスカを入れようという考えで(笑)、そこを含めて東北アジアだと言っているんです。一度日航の飛行機に乗ったら、日航の機内誌に北極を中心にした地図があって、それで見ると、モンゴルからアラスカ、ハワイまでが一つの地域として、まとまります。「これはいい」ということでそれをもって帰って僕の本に載せました(『東北アジア共同の家――新地域主義宣言』平凡社、2003年)。

 2003年には、韓国で盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が出現して、就任演説で言ったのが、「東北アジアの共同体を目指す。これが私の年来の夢である」ということです。これはいいと思いましたね。その年さらに6者協議がはじまりました。6者協議は北朝鮮の核危機にとりくんでいるのですが、「北朝鮮の核問題が解決したら、地域の安全保障のための新しい仕組みを考えるように努力をする」と二度にわたって声明しているんですよ。2005年9月と、つい先ごろも言ったわけですね。北朝鮮は難関ですけれども、北朝鮮の核問題が解決すればそういう時代になる。北朝鮮の核問題が解決するときに6カ国の首脳が集まって、調印式でもやれば、それがそのまま東北アジア・サミットにもなりうる。ここの地域は環境問題をもかかえています。黄砂の問題も酸性雨の問題もありますから、そういう問題も含めて、安全保障と環境問題ということで、地域の協力体を考えることが意味がある。それが6者協議という形を通じて現実に目の前になっている。

 そういう意味で言うと、ユートピアではありますけれども手の届かないようなユートピアではない。努力しだいによっては達成できるものであって、そこで安全保障の新しい考えができて地域の協力ができれば、エネルギーの問題にしても経済システムの問題にしてもお互いの経験を交流してやっていけるのではないか。そしてアメリカとロシアと中国という巨大な国が入れば、ここで何か問題が漸進的に解決すれば大変な人類的意義があるのです。解決していないのはイスラエルとユダヤ問題だけですね。とにかく東北アジア共同の家は人類に対する非常に大きな貢献になると思います。それが私の新しいタイプのユートピアであると、主張しています。『東北アジア共同の家』(平凡社)ではそういうことを書きました。

 いまは東アジア共同体論議もさかんで、東アジア共同体協議会というものもあるんです。その基本的な文書を書いているのが田中明彦さんと青木保さんです。しばらく前に青木さんと一緒にシンポジウムに出ました。私が東北アジアの共同体の話をすると、青木さんは「東北アジアという考えがおもしろい、そういうことは考えたこともなかった」と言うんですよ。僕は、これはもうちょっと交流しなければダメだなあと思いました(笑)。
 
佐藤)青木さんや田中さんの知力だったら、そのあたりはやむをえないでしょう(笑)。
 
和田)僕はもう一つ議論しなければいけないと思いました。
 
佐藤)「フォーラム神保町」というのは、一つのユートピアなんです。地域で顔が見える範囲にこだわって参加者を限定しています。最近、ぶん投げてやめちまおうかと思ったことが2~3回あるんですよ。というのは、対話が成立しえない場合が多い。要するに、二つのモノローグをやっているのだったら意味がないわけなんですね。それは知的な能力において劣っているから対話ができないからではないのだと思うんです。例えば私の知的水準が極端に低いから呼んできた人と対話ができないということではなくて、何か相手の側に警戒心があって心を開かないということなんですね。何かのきっかけで心をパッと開くと対話ってできるものなんですよ。それは、そのときの知的な集積であるとかなんとかとは本質的には関係ないんです。あるいは国家の力も関係ない。私がそのことを強く学んだのは、イスラエルの連中との付き合いを通してなんですよ。僕はイスラエルの中で、名前を出していい中で一番尊敬しているのはエフライム・ハレヴィというモサドの前の長官です。このモサドの前の長官が光文社から回想録を出す準備をしているという話でして、この回想録が出ると日本のインテリジェンスの世界にものすごく大きな影響を与えると思います(エフライム・ハレヴィ[河野純治訳]『モサド前長官の証言「暗闇に身をおいて」』光文社、2007年)。このエフライム・ハレヴィ長官というのは、アイザック・バーリーンの従兄弟なんです。バーリーンは文芸批評家で、イギリスから来ている珍しいユダヤ人なんですね。

 エフライム・ハレヴィは最初はモサドの分析局、工作局にいて、ある時点ではヨルダンとの間の平和条約交渉の全権になるわけなんです。それで、双方の訓令でうまくまとまらずに交渉が決裂になりそうになったときに、ヨルダンのフセイン国王がお手洗いに立った。そしてハレヴィさんはフセイン国王をトイレに追いかけて行って、立ちしょんべんをしながら2人で交渉をまとめたんですね(笑)。そういうような人です。北朝鮮でミサイルの件が起きたときには、彼のチームは北朝鮮に乗りこんで直談判をする。「いくら払えばミサイルを作るのをやめるのか」と言う。結局それは決裂します。

 それからイランの連中に対しても本当によくネットワークをもっていると同時に、イランという国について「イランは地政学上重要で、本来アラブと敵対しているイランというのは我々の味方なんだ。どうやって味方に入れようかと考えている」と言う。彼はOECDの大使になって1回モサドを引退しているんですよ。ところがそのあと、とんでもないチョンボをモサドがするんですね。ハマスの代表のヤーシンをぶっ殺そうとしてモサドの工作員が耳から毒を入れるんですよ。すると毒の入れ方が中途半端だったので、完全に死ななかったのです。それと同時にヨルダンのフセイン国王も怒り心頭に発して、イスラエルの首相に電話をかけてきて「すぐに解毒剤を出せ。下手(げしゅ)人を始末しろ」と要求した。ハレヴィさんがフセイン国王との人脈を使って問題を何とか処理した。

 その直後に、スイスでモサドの工作員が捕まっちゃうわけなんですよ。イラン大使館の盗聴をしていたんですね。ところが「挙動不審なヤツがいる」ということで市民から通報されて、捕まったらカナダ旅券が大量に出てきて、カナダ人の偽装をしていたわけなんです。そしてカナダとイスラエルの間で大変な問題になって、ヤトムというモサドの長官が辞めさせられてしまったんですよ。そのときにモサドの工作員は電話ボックスで死んだフリをしたとかいう話で、本当に諜報の世界に大恥を塗るような二つの失態が生じて「モサドは解体か」と言われたときに、エフライム・ハレヴィというおじいちゃんに頼んでもう1回モサドの再建をして、モサドの再建がだいたい成ったので2005年にリタイアして、今はヘブライ大学で国際関係の先生をやっています。

 この先生と話していると、和田先生と話しているときのこのトーン、タッチとすごく感じが似ているんです。それと同時に、彼から言われたんですよね。「学問だって情報だって、情報のための情報、分析のための分析では究極的につまらないんだ。おもしろいこととは世の中を動かしていくためであり、おもしろいことというのはやはり平和をちゃんと志向していくことなんだ。平和を志向していくことはおもしろいんだよ。だから我々インテリジェンスの人間というのは、基本は平和を志向していくのだ」。一番殺しに長けて闘いをやっている中心のところにいるモサドの長官がそんなことを言う。それを知って私は、情報の世界というのはとても奥が深いのだなあ、と思ったわけです。

 和田先生、今日はどうもありがとうございました。

(了)