佐藤 優 連載人を裁くとは

▼バックナンバー 一覧 2009 年 7 月 16 日 佐藤 優

「人を裁くとは。畏れ−−他者−−裁判員制度」

 5月21日、司法への市民参加を謳った裁判員制度が始まった。小泉内閣のもと、司法制度改革の目玉としてこの制度が検討されていた頃から、一貫して導入に反対の立場をとり続けてきた弁護士の安田好弘さん、宮崎学さんが、佐藤優さんを囲み、今後、裁判員制度をどう揺さぶっていくかを語りあった。
(司会・魚住昭/座談会は6月3日におこなった)

***

魚住 私も含め、ここにいる4人は全員、裁判員制度に反対ですね。

安田 この4人で、裁判員制度について意見交換をするのは初めてではありませんか。

魚住 そうですね。さて、裁判員制度が始まりましたが、佐藤さん、この流れにどう抗っていきますか。

佐藤 私は、ひとつの制度が始まるまでは、潰せる可能性をいろいろ探して暴れ回るんですけど、もともと役人ですから、いったん制度が動き出したらなかなか止まらないことはよくわかっています。ですから、裁判員制度にしても、次に何か大きな事件事故が起きるまで、さてどうしたらいいかと思っているところです。ところで、安田さん、裁判で係争中の私のところに裁判員の通知は、来ませんよね。

安田 原則として選挙権があれば誰でも来ますが、禁固刑以上の刑に当たる罪で起訴されている人は裁判員になれませんから、佐藤さんはこれにひっかかります。

佐藤 でも、有罪が確定しても選挙権あるじゃないですか。

安田 執行猶予であれば、選挙権はありますから、確定すれば裁判員になれます。

佐藤 じゃあ、裁判員の通知が来るのを心待ちにします。来たら毎回、手続き上のところで暴れて、それをどんどん外に公開して、捕まえるんだったら、もう1回捕まえろと。こういう感じでやっていくということを最初から宣言しておきます。こういうのが面白いと思いますね。

安田 そんなこと宣言してると、最初から外されちゃいますよ。

宮崎 そんな恣意的なことしていいんですか。裁判員は選挙人名簿をもとに抽選で選ぶわけでしょ。

安田 でも、誰を選ぶか公開でやるわけじゃないでしょ。公正にやっているというけど、どこからも見えない。選挙の開票では、選挙管理員が立ち会って集計しているのに、裁判員を選ぶときには、誰か第三者が立ち会っているのか? 誰も立ち合ってないんです。

佐藤 まず、そのあたりの手続き的なところから衝いてくのはどうでしょうかね。まず安田さんが、私は裁判員から漏れたと、訴訟を起こす。制度発足から間もないうちに裁判員になって、これをネタにして大騒ぎして仕事をしようと思ったのに漏れた。公正な選出をしているのか、と。どうして俺をならせないんだと。

安田 そもそも、弁護士はなれないんですよ。弁護士を裁判員にならせない理由としては、市民感覚を裁判に持ち込むという大義名分があるわけです。弁護士が入ると市民感覚を持ち込んだことにならないというわけす。

佐藤 じゃあ、法学部の教授はダメなんですか?

安田 大学の法学部の教授、准教授はなれないことになっています。

宮崎 市民派弁護士という概念はダメだということなんだね。市民派弁護士という概念はこの制度を作った連中にはないわけだ。市民じゃないというわけだから。

佐藤 法の下の平等に反するとか難癖をつけてね、なんとか当事者になるというのはどうでしょう。

安田 彼らが本当にやる気であるならば、騒ぎそうな人物は、裁判員候補から最初からうまく排除するでしょうね。間違えて入ってきたとしたら、それを徹底して潰す。潰しにかかるのはいろいろな手があるわけで、評議の場で追い込んでいって、秘密漏洩、公文書毀棄、公務執行妨害、威力業務妨害、脅迫とかね。なんでもありで、くくられてしまうと思いますよ。

佐藤 それはすごくいいことじゃないですか。そういうことが続けば続くほど、国家権力の本質が見えやすくなるので、状況が悪くなれば悪くなるほどいいんじゃないかな。

安田 そりゃ、権力の本質が見える人にはいいことだと思えるんでしょうけど、見えない人のほうが多いんじゃないかな。

佐藤 いえ、国家権力の暴走が続くと見えてきますよ。最近、日本の国家権力のおかしさを、嵐を起こすような形で見せるのに成功したのは草なぎ剛君ですよ。真夜中に裸で性器を露出していたら警察に捕まって、自宅をガサ入れされたと。そんなことでガサ入れまでされるのか。あの事件によって、権力に行き過ぎがあるんじゃないかと広汎な議論になった。あの場合、誰が被害者なんですか?

安田 被害者は、社会。被害の内容は、善良な風俗だとされています。

佐藤 被害届はいらないわけですね。

安田 賭博で処罰されるのと同じなんです。警察、検察が風紀委員をやっているんですよ。

佐藤 この件で、誰かがんばって争わないですかね。別に手を公の場で露出しても風俗を乱したことにならないわけですよね。

安田 そうそう。

佐藤 法の下の平等で、カラダの一部だけが平等な扱いを受けていないというのは憲法に違反するんじゃないだろうか。こんな感じで訴えることはできないですかね。

安田 耳とか目とか手とか脚とかにそれぞれ風俗という意味付けをすると訴えることができるんでしょうけど。

佐藤 しかし、カラダの一部を出すことによってゲシュタルト的な転換をする(手や脚と同様、身体の一部であることに変わりはない性器を露出することで逮捕される)というのであれば、一部だけを差別しているわけじゃないですか。法の下の平等に反している。こうやって訴えてきたら、検察はどうやってはねてきますか?

安田 検察は訴追件を独占していますから、そもそも相手にしませんよ。説明責任もな
いから黙っていればいい。

佐藤 検察審査会に持っていったら?

安田 検察審査会にもっていけば結論を出すでしょうけれども……

佐藤 法の下の平等に反するじゃないか。どう考えてもおかしいじゃないですか。カラダの一部だけが猥褻だとして、他の部分と区別されているというのは、ち○○んとかお○○こがかわいそうだ。

安田 風俗という話になっていくと、立証不能、不要とされているわけですよね。風俗というものは国家が作る、社会が作るという話ではなくて、最初から裁判所が作っているもですから。

佐藤 重要なことはそういうことをどんどん見えるようにしていくということだと思う。いまここで裁判員制度反対闘争などを組むよりも、私たちが課されるペナルティが少ない範囲において、権力に極力めちゃくちゃなことをやらせて、この国というのはすごい国なんだという雰囲気を出して、それを面白おかしく描いていく。
 こういうのがいいんじゃないですかね。
 
 

遵法意識の水準を下げるという抵抗

魚住 さきほど、佐藤さんが、もし裁判員になったら手続き的なところで暴れて、それをどんどん公開するとおっしゃいましたが、雨宮処凛さんも産経新聞のインタビューで私が裁判員に呼ばれたら喜んでいくと。そして、そこであったことを全部書く、評議の秘密は守りませんというようなことを述べています。これはすごく面白いやり方だなと思います。

佐藤 私がいままでした話について、冗談半分で言ってるように思われるでしょうが、これはソ連体制末期に、ソ連の異論派の連中がやったことなんです。たとえば、法的に禁止されている文書を撒く、公の印刷施設で別の文書を刷る。あるいは、丸くて白いケーキを作る。ソ連の時代においては、丸いケーキはチョコレートケーキで黒じゃないといけなかったんです。四角いケーキはメレンゲのケーキで白じゃないといけない。丸くて白いケーキを作って売るというのは、投機行為にあたるんです。国家のレシピと違うものを作る、それを売る、投機行為罪なんです。しかもそのケーキを人に売らせると、資本主義幇助罪なんです。人に売らせないで家族でケーキを作って売るんですよね。それで捕まえろと。捕まる人もいる。捕まらない人もいる。
それを積み重ねて、人々の遵法意識の水準をどんどん低くしていったんです。そのうちに銃を保持するようになって殺しをやるようになる。みんな法を破る習慣をつけていって、最終的に自分たちの掟の領域で秩序を作っていく、そういうやり方をソ連時代やっていった。そしたらソ連は2年くらいで崩れましたね。その間、ときどきKGBが出動したり、人が殺されたりしたんですよ。しかし1回秩序を崩すことを始めたら、その崩れは早い。秩序が崩れたら何もなくなるかといったら、それは大きな間違いで、ちゃんと下からの秩序ができてくるんですよね。
日本を考えた場合、国家体制を強化するためには社会を強化しなければならないんです。権力がもう少しスカスカになることが必要なんです。それは社会の側に自律性があるということを意味しますから。実はそうなることで国家体制は強くなるんですけれども、それが見えないほど権力の側に余裕がなくなっているように私には見えます。余裕のなさが、が裁判員として人を呼びだすというようなやり方だったり、起訴されたら99.9%有罪になるというような裁判でのやり方に表れているわけです。ですから、いまの権力の連中への対抗措置は裁判員なんてアンタらが決めたことだろ、俺は関係ないというのが一番いいやり方で、裏返すとそれしかない感じ
がするんですよ。
 
 

司法試験に合格していない最高裁判事

佐藤 最高裁判所の判事のなかに、司法試験に合格していない人間が3人います。これは問題ではないでしょうか。われわれは誰によって裁かれているのか。人の命を扱うわけですよね。司法試験に合格していないような人が最高裁にいるということをどう理解
すればいいんですかね。最高裁では市民参加の裁判員制度を先行してやっていたということなんでしょうか。

安田 民間人を最高裁に入れることによって、司法が国民の意見を反映していることを装おうとしているんです。もっとも、民間人といっても誰もがなれるわけではなくて、外交官枠からひとり、官僚枠からひとり、学者枠からひとり、というかたちで決まっているわけです。

佐藤 ただし外交官枠といっても8年ごとに1人ですよね。もし本当に国際法の知識や実務経験が必要であるということなら、いつも外交官経験者がいなければおかしい。国際法の問題は8年に1回しかでてこないのかと言いたいんです。

安田 彼らは専門的知識を持っている人を予定しているのではなくて、学識豊かな人を予定していると言うと、思いますよ。

佐藤 学識豊かな人って、どこで判断するんですか。

安田 最高裁の推薦に基づいて、内閣が任命する。最高裁の推薦は何に基づいてやるかというと、たとえば弁護士出身の判事の場合は、弁護士会が推薦するわけです。

佐藤 以前、『週刊新潮』にこんなことを書きました。外務事務次官だった竹内行夫さんは司法試験に合格していないのに最高裁の判事をやっている。医者で執刀する人間で医師免許持っていない人間はいない。医師免許持っていないのはブラックジャックくらいです。そのうえで、私は裁判員制度に反対だと。しかし動きはじめてしまったものは仕方ない。だから日和見主義者を決め込むと。ただし、開かれた司法を謳って始まった裁判員制度だけに、これを機会に、もっと司法を開かれたものにする目的で、竹内さんについての事実を書いておく。司法試験を受けてから最高裁にきてくださいと書いていたら、読者から、初めて知りました。司法試験受かってない人がいるんですか。これは天下りじゃないんですか、など相当な反響がありました。『週刊新潮』編集部も、竹内さんが司法試験に受かっているのかどうか、最高裁に照会したんですよ。最高裁から返事がくるのに10日もかかりました。
 最高裁のホームページには判事のプロフィールが紹介されています。竹内さんのところを見ると、趣味の欄に、西部劇のビデオやDVDを集めること、とあります。ということは、西部劇の感覚で裁判をやられるのでしょうか。竹内さんといえば、北朝鮮拉致被害者が帰国したときの外務省の事務次官でした。瀋陽の総領事館事件覚
えていますか?
 北朝鮮人亡命者が領事館に駆け込んで、それを追ってきた中国武装警官の無断立ち入りを許してしまった。あのときも外務官僚の最高責任者は竹内さんでした。上海の総領事館員の自殺、それを官邸へ報告しなかったときも、竹内さん。こういう人ですから。「人柄の竹内」と言われている。私に恨み辛みがないとは言いません
けれども、私が逮捕されたときも竹内さんでした。ちょっと考えてみたら、すごい人が最高裁の判事になっているんだなと。ちょっとスキャンダル風に仕立てるのも面白いでしょう。そういう状況下で、私は今度、最高裁の司法判断を受けるんですよ(註:6月30日付けで最高裁は佐藤氏の上告を棄却した)。

安田 どういう場面でもそうなんでしょうね。弁護士出身の裁判官も、弁護士からすればどうして彼が裁判官なれるのかと首をかしげるような人が裁判官になっている。というのも、裁判官になるには最低限の法律の知識を持っていて、最低限、記録を読むだけの体力があって−−そのくらいの真面目さが必要とされるわけですが、裁判官になった弁護士には、それがあるかどうか疑わしいわけですよ。体力はない、熱意はない。かといって見識もない。そういう人が裁判官になっていく。

佐藤 しかし、そういう人であっても最低限、司法試験には受かっているわけでしょ。

安田 そうです。

佐藤 法曹界からすると、安田さんのような特殊な人は除いて、司法試験に合格したということは、彼らのとってのリエゾンテートルなんです。そのなかで司法試験に受かっていない人間が最高裁判事としているのはおかしい、というのをガンガンやると、彼らのエリート意識をくすぐるんじゃないでしょうか。司法試験に受かっていないような人間がいてもいいのかという話になったら、弁護士も検察官も、結構、そうだそうだという話になってくるのではないでしょうか。逆に、外務省に対しては、司法試験ごときで法曹界から舐められていいんですか。外交官も軽くみられたもんですねとやる。あっちにも、こっちにも火をつけて、鳥の里と獣の里で大喧嘩するような感じにする。その姿は国民から見ると、どちらもろくでもない連中だ、マンガであると映るでしょう。そうなったところで、カネを話をする。牛丼に換算したら何杯分の給料をもらっていると、こういう感じでやると面白いと思う。繰り返しますが、裁判員制度に関して何か大きなトラブルが起きるまでは、極力、面白おかしくやっていくことだと思います。
 面白おかしいといえば、もうひとつ、「裁判員制度の祟り」というのがあると思うんですよ。いや、面白おかしいではすまないかもしれません。人を裁くということのすさまじさを考えるために、和歌山毒物カレー事件の裁判について触れてみたいんです。4月21日に、最高裁で林真須美被告の死刑が確定しました。この事件にはどこか形而上学的なおそれが働いているような気がします。そんなことも含め、林被告の弁護人のひとりでもある、安田さんに話を聞いてみたいのです。

(次号に続く)