現代政治の深層を読む自民党の自壊、ポピュリズムの跋扈、そしてメディアの劣化

▼バックナンバー 一覧 2009 年 7 月 1 日 山口 二郎

 このところの自民党の周章狼狽ぶりは、長年この党を批判してきた者にとっても、痛々しいくらいである。私の知っていた自民党は、もっと誇りと責任感を持って国を統治していたはずだ。もっとも長年権力の座にあった者が零落する時は、こんなものかもしれない。今の自民党は、「平家物語」に書かれている平氏の没落をなぞっているようである。
 思えば、2005年総選挙の大勝からわずか1期、4年しか経っていない。この間に一体何が起こったのだろうか。あの時は、政権交代など夢のまた夢で、私は漠然と、総選挙を3回くらいくぐらなければ、政権交代は実現しないだろうと予想していた。しかし、小泉純一郎が首相の座を退いて以来、自民党は坂道を転げ落ちるように没落してきた。
 中川秀直や小泉チルドレンなどの新自由主義的構造改革路線を継続したいグループと、麻生首相自身やその周辺のように多少再分配に向けて路線転換を図りたいグループとの政策的な矛盾も、確かに悩み深い問題である。だが、今の自民党は政策以前の、組織やリーダーシップの深刻な危機に直面している。政策論争に決着がつけばそれで体勢を立て直せるという状態ではない。
 小泉は確かに自民党をぶっ壊した。政党というものは、党首・執行部・主要閣僚などが構成する権力中枢、それを支える国会議員などの準エリート、さらにそれを支える基盤的支持組織や地方議員が形作る同心円構造を成している。自民党が盤石だった時代には、業界団体、政治家の講演会などの基盤的支持層、保守系地方議員、国会議員というピラミッド構造が安定していた。ロッキード事件のような自民党の大危機にあっても、そうした固定的支持層が必死で動いて常に衆議院で多数を確保してきた。
 基盤的支持層は、政策的恩恵との交換で自民党議員の票と政治資金を提供してきた。そこでは、経済学の用語を使えばレントシーキングの政治が展開された。政治学の用語でいえば、政官業の癒着構造ができあがった。もちろん、これを是正することは必要であったが、小泉改革はいわばたらいの水と一緒に赤子を流してしまった。つまり、族議員やそれに結びついた利益集団を攻撃するあまり、社会の公平や調和を図るための再分配そのものを破壊したのである。特定郵便局長会に代表されるように、基盤的支持層は空洞化し、ある者は民主党や国民新党などの野党支持に回った。ちなみにこのような政党の空洞化は、時を同じくしてイギリス労働党でも進んでいる。この点は、前回のレポートで紹介した通りである。
 また、自民党盤石の時代には準エリート層に次の次代を担うリーダー候補生が大勢いて、それらが競争し、切磋琢磨してきた。しかし、小選挙区制の導入や政党助成金制度の開始で、党の中央集権化が進んだ。政治家が再選を図るためには、人気のあるリーダーにぶら下がって、その威光を背景に勝ち抜くことが安易な手段となる。その結果、党内には反主流派はいなくなり、危機を収拾する新しいリーダー候補もいない。政治家は人気者を捜してあてどもなくさまよう。このあたりの事情は、柿崎明二著『次の首相はこうして決まる』(講談社現代新書)に詳しい。
 小泉は、以前の政党構造を破壊することによって束の間の人気を保ったポピュリストであった。イギリス政治学の泰斗、バーナード・クリックは、ポピュリズムについて、
「多数派を決起させることを目的とする、ある種の政治とレトリックのスタイルのことである。その時の多数派とは、自分たちは今、政治的統合体の外部に追いやられており、教養ある支配層から蔑視され見くびられている、これまでもずっとそのように扱われてきた、と考えているような人々である」(クリック、『デモクラシー』岩波書店)
と規定している。
 日本の場合、支配層に教養があったかどうかは疑わしいが、先の同心円の図式に当てはめれば、基盤的支持層の外側にいる市民は自らを追いやられた多数派と感じており、彼らの最高指導者との間に立ちふさがる基盤的支持層や、そのエージェントたる政治家を疎ましく思っていた。小泉はその連中をやっつけると叫ぶのだから、人気が上がるのも当然である。いわば、同心円の中間部分を崩落させ、トップリーダーと外側の市民がメディアを通して擬似的に直接結合したのが、小泉流ポピュリズムであった。この手法が成功すれば2005年の時のような大勝利も起こりうる。しかし、逆境の時にも歯を食いしばって党を支える基盤的支持層は消滅し、危機の際の歩留まりはなくなった。
 その意味で、自民党が生き残るための最後の手段として、タレント知事を引っ張り出そうとしたのは、よくわかる話である。外部の人々に擬似的な直接結合を感じさせることができる役者は、政界にはもう残っていない。地方政治において、小泉と同じように準エリートや固定的支持層をバッシングして権力を取った知事には、国政においても再び多数派を決起させる可能性がある。
 ここまでが6月末のタレント知事擁立劇の説明である。
 私は、東国原や橋下といった連中を信用していない。彼らは地方分権を叫ぶが、地方分権によって何をどう変えるべきなのか、本当にわかっているのだろうか。不思議なことに、彼らの活動を伝えるメディアは、彼らが自分の足元でどのような改革を行っているか一言も触れていない。もちろん、税財源の移譲、補助金の廃止など、マクロな制度改革のために地方のリーダーが声を上げることは必要である。しかし、国に喧嘩を売る前に、県独自で今すぐできることはたくさんある。2000年の地方分権一括法施行以来、自治体はいろいろなことを自由にできるようになった。法律の解釈で中央政府と対立が起これば、係争処理委員会に持ち込み、最後は裁判で決着をつけることもできる。宮崎県で、東国原知事は、国のコントロールを脱して独自の政策を何か実現したのだろうか。大阪では、橋下知事によって男女共同参画に関する政策の後退が続けられている。彼らのいう分権とは、同心円構造の中間で旧来の政策を支えていた官僚機構を敵視し、これをバッシングするものでしかない。地方分権も、ポピュリズムの道具に過ぎないのである。
 そして、テレビメディアも、声が大きいだけの改革論を毎日宣伝し、ポピュリズム政治を再現させようとしている。橋下や東国原をヒーロー扱いする前に、彼らが知事として実際にしたことを検証し、分権改革の担い手たり得るのかどうか、まずは厳しく問いつめてほしい。