現代政治の深層を読む無駄のない国?

▼バックナンバー 一覧 2009 年 8 月 4 日 山口 二郎

 各政党のマニフェストが発表され、政策を実現するための財源をどのように調達するかが大きな争点になっている。特に、民主党について、子ども手当や農家戸別保障など、積極的な歳出拡大を謳っていることから、財源をどうするかと与党は追及している。これまで補正予算でめちゃくちゃな乱費、浪費をした与党には言われたくない。とはいえ、政策の財源をある程度考えておくことは必要である。あくまで、ある程度である。なぜなら、野党がいくら財源を考えようとしても、分からないことが多すぎるからである。どのようにして税負担を増やすかという骨格を考えることは野党でも必要だが、「細かいことは政権を取ってから考えます」で十分である。
 前回の本欄でも述べたように、日本の一部識者および大半のメディアは、マニフェストの意味を誤解している。マニフェストに相当する英単語は、manifestoとmanifestの2つある。前者は、マルクスが共産党宣言でも使ったように、政治的な宣言である。まさに、理想や思想を示し、人を鼓舞するのがマニフェストである。後者は、積荷目録である。
 マニフェストの本場とされるイギリスの政治では、もちろん前者のマニフェストが発表される。マニフェストに書かれているのは物語であり、理想である。数値目標だの財源だのは、あまり強調されていない。日本の場合、政党の側も、マニフェストを論じる一部識者やメディアも、積荷目録を必死で論じているように思えてならない。マニフェストを批判する際にも、それがマニフェストを自称するに足る思想的な文書かどうかを論じるべきである。
 その意味では、私は民主党のマニフェストにはかなり批判的である。それは、財源論とも関連している。民主党は、無駄を省くことでかなりのお金を調達できるとしている。私は、これを非現実的とする自民党とは違った意味で、民主党の主張に疑問を持っている。結論から言えば、無駄がゼロの国なんかには住みたくないということである。学者などという人種は、世の中がもっと不景気になり、余裕がなくなると、無為徒食の輩と言われるであろう。現に、大学では、もっと世の中の役に立てという圧力が高まり、研究や教育のあり方も大きく変わっている。その意味では、無駄のない国に生きたくないというのは私の個人的利害の表明であるが、それは学者という職業の利害を超えて、人間が自由に多様な生き方をすることができる社会を守ることにつながると信じている。
 政府の仕事の中で、何を無駄と考えるかは、実は政党や政治家の思想と密接に結びついているのである。誰がどう見ても無駄という経費は、実はそう多くない。私の考えでは、文部科学省関係には、その種の絶対的無駄がある。全国学力テストなど、その典型である。子どもの学力を知るためには、サンプリング調査で十分であり、すべての子どもに同じテストを受けさせることは、むしろ弊害の方が大きい。
 とはいえ、それらの絶対的無駄を排除しても、浮いてくる財源は千億円の単位であろう。もちろん、それらの金をもっと有意義に使うべきだと思う。それにしても、政策の無駄とは、ほとんどが相対的なものである。無駄の典型のように言われている道路にしても、地元には切実に必要だと信じている人がいる。何が無駄かをめぐる論争は、価値観の違いを反映したものになりやすいので、簡単には答えが出ない。また、出すべきでもない。無駄を省くという論争は、深刻な対立につながるのが普通である。その意味で、民主党の財源論は政治的な戦術という観点からも稚拙なものと評価せざるを得ない。
 民主政治においては、無駄をめぐる議論には、答えを出しきれない曖昧な部分が残るのが当然である。逆に、無駄を撲滅することを徹底するという思考実験をすれば、オーウェルやハクスリーが描いた逆ユートピアが浮かんでくる。そして、民主政治にとってこの曖昧な部分が不可欠なものだということが分かるであろう。
 たとえば社会保障費の無駄を省くという議論を徹底していけば、もうすぐ死ぬと分かっている人間に治療をしてもしようがないということで、終末期医療にかけるお金など無駄だという主張が出てくることだろう。地域社会の議論をすれば、過疎地に人がへばりつくことは無駄だから、都市に強制移住させようという話になるかもしれない。これは、数年前の市町村合併をもう少し進めれば出てくる議論である。実際、オリックス会長の宮内義彦は、北海道の人口は2,3百万人もいれば十分だと公言したことがある。つまり、過疎地に好きこのんで住むような人間は、日本経済の足を引っ張る邪魔物だという意味である。教育の議論をすれば、勉強の習慣のない貧困層の子どもには教育を施しても無駄だから、さっさと働かせた方がよいという議論になるかもしれない。
 今読めば荒唐無稽に思える議論でも、まなじりを決して無駄の撲滅に没頭する政治家が多数になれば、こうした議論が世の中を支配することだって、起こりえないとは言えない。つまり、無駄を省くという議論は、下手をすると、経済的な意味で高いパフォーマンスを誇っている強者の観点から、役立たずに見えるものを排除することにつながるのである。そのような価値観がまかり通る社会は、全体主義である。
 一定の財源をどのような政策に振り向けるべきかという議論を止めろと言っているのではない。私は、政権交代を契機に、従来の自民党政治とは異なった政策にどんどん資金を投入すべきだと思っている。その結果、今までよりは予算が減る分野が出てくるのも当然である。それは、無駄の排除ではなく、これからの社会をどう構築するかという理念の問題として議論すべきである。たとえば、道路予算を減らすことは、私も必要だと思っている。それは、道路が無駄だからではない。自動車という交通手段が20世紀のものであり、21世紀の社会はもっとエネルギー負荷の小さい交通手段を開発しなければ持続できないという理念に基づいて、展開する政策論である。
 そのように考えるなら、民主党が叫ぶガソリン税の暫定税率の廃止や、高速道路の無料化という政策が、いかに時代に逆行するかは明らかである。50年に一度という政治大転換の重要な機会に、そんなしょぼい話を得意げに持ち込むなと、民主党のマニフェストに対しては、怒りで一杯である。