ホロウェイ論その3:ホロウェイと網野善彦

▼バックナンバー 一覧 2009 年 8 月 26 日 四茂野 修

 今回も、前回に続いて、網野善彦とジョン・ホロウェイの間の共通性、類似点をめぐって書きます。
 
 

◆ 抑圧された衝動

 
 網野善彦の歴史観の基盤には、およそ次のような考え方があると私は思います——ごく普通の、平凡に生きる人々の身体・精神の奥底にも、支配・隷属に抗し、自由を求める衝動が潜んでいる。この衝動(網野は「無縁」の原理と呼びます)は、支配(「有主」の原理)のほころびを衝いて姿を現し、日本の中世に「無縁」「公界」「楽」などと呼ばれる多様な自治の空間を生み出した。それらは、濃淡の違いはあれ、内部に支配権力の及ばないアジール(避難地)としての性格を備えていた。この自由の空間を権力者は憎悪し、圧力を加え、様々な方法で介入した。その結果これらの空間はやがて変質し、衰退していく。しかし、抑圧された衝動はその後も途絶えることなく人々に受け継がれ、今も脈々と息づいている…。
 こうした網野の思想を初めてまとまった形で世に問うた『無縁・公界・楽——日本中世の自由と平和』の末尾は、「無縁」の原理を高らかに宣言した次の言葉でむすばれています。
〈原始のかなたから生きつづけてきた、「無縁」の原理、その世界の生命力は、まさしく「雑草」のように強靭であり、また「幼な子の魂」の如く、永遠である。「有主」の激しい大波に洗われ、瀕死の状態にたちいたったと思われても、それはまた青々とした芽ぶきをみせるのである。日本人の人民生活に根ざした「無縁」の思想、「有主」の世界を克服し、吸収しつくしてやまぬ「無所有」の思想は、失うべきものは「有主」の鉄鎖しかもたない、現代の「無縁」の人々によって、そこから必ず創造されるであろう。〉(P.251)
 ここには、網野の学問的生涯の背後に貫かれていたラディカルな変革への希求が明瞭に示されています。さらにこの2年前に書かれた「中世都市論」の末尾にも、自治の空間に着目しつつ、人類史における「私的所有の成立と消滅」をとらえようとする次のような構想が記されています。
〈ここで述べたアジール、無縁、公界、「自由都市」という一連のつながりが承認されるならば、単に西欧だけでなく、アジアはもとより未開民族をも含めて、広く世界史的な比較の道がひらけるであろう。そして未来の共産主義社会を見通しつつ、その角度から私的所有の成立と消滅とを、あらためて見直すことも可能になるのではあるまいか。〉(『日本中世都市の世界』p.174)
 網野の構想の雄大さや「過激さ」とともに、私はホロウェイの考えとの類似に驚かされました。支配に反逆し、そこからの脱出を求める「無縁」すなわち自律・自治への衝動は、ホロウェイが言う「現存するものを否定する叫び」に通じます。それは同時に「理想郷をつくり出そうとする強靭な志向」(網野)であり、「希望の叫び」(ホロウェイ)でもあります。「有主」に対する「無縁」の反逆は、「させる力」(パワー・オーバー)に対する「する力」(パワー・トゥー)の反逆ととらえることも可能でしょう。アジールのなかには「闘争の共同体」を見ることもできます。
 ホロウェイは、革命とは「抑圧されていたものの回帰」だというマルクーゼの言葉を引きながら、フロイトが抑圧されたものを神経症の実体と見たように、「否認されたありかたで存在しているもの」「反撥」「支配からの逃亡」こそ「危機の実体」であるとも述べています(p.407-8)。中沢新一が「網野さんの場合はむしろフロイトの精神分析学に似ていますね。現実にあらわれたものの背後に、現実化を目指していくけれど、つねに失敗してしまう欲望の力を、否定性として読みとろうとしています」(『網野善彦を継ぐ。』p.35)と言っているのを聞くと、両者の発想がぴったり重なっていることがわかります。
 普通の人の心と体の奥底から発する、権力者の支配を拒否する自律・自治への衝動が、抑圧のない互いに尊重しあって生きることのできる社会を希求する人類の歩みを支えている——このような思いが網野とホロウェイの心に共通して流れているように私には思えるのです。
 
 

◆ 世界=歴史に向き合う姿勢

 
 この一致は、二人の現実に立ち向かう姿勢の共通性から生じているのではないでしょうか。中沢新一は前掲書で網野の歴史研究の姿勢を次のように語っています。
〈歴史学が歴史を理解するときに、じつは国家の視点に立ってそれを記述しているんじゃないか。ところが、この国家というものと国家によりそって記述される歴史学に永久に抵抗していく何かえたいの知れない力がある。それこそが根底的な否定性ではないか。そういう否定性の力に立つ歴史学を構想していくことはできないだろうか。〉(P.29-9)
 網野は権力の支配に即してではなく、この支配に抗し、それをラディカルに否定する「えたいの知れない力」に身を置いて歴史をとらえようとしたということでしょう。「無縁」の原理、すなわち現状を否定する「叫び」は、過去の歴史のなかに存在しただけでなく、その歴史と向かい合う歴史家・網野の体内をも貫き、独創的な歴史研究へと駆りたてたのです。しかし、このような歴史への向かい方には大きな困難が伴います。その困難を中沢新一は前掲書で次のように述べています。
〈欲望は、不思議なもので、現実の世界にはそのもののかたちではあらわれてこないものですから、いつも現実に出てくるときは否定されたものをとおしてしか出てきません。現実に出てくるときには、すでに否定されているものを、その否定されたかたちをとおしてしか、欲望そのものには触れることができません。実証科学の原理そのものが、すでに欲望の否定、否定性の否定の上に成り立っているわけですから、網野さんの抱えていた困難がしのばれるというものです。〉(p.33-4)
 ホロウェイもこれとまったく同じことを言っています。
〈権力と社会理論とは、密接な共生関係にありますから、権力は、理論が世界を見るためのレンズとなり、世界を聞くためのヘッドフォンとなっているのです。反権力の理論を求めることは、見えないものを見ようとすることです。聞こえないものを聞こうとすることです。反権力の理論化をおこなおうとするのは、ほとんど未踏の世界をさまようのと同じことなのです。〉(p.53)
 また次のようにも言っています。
〈この本は、反権力の非合理な影の世界を探求するものです。それが影の世界、非合理な世界になってしまっているのは、ひとえに、正統な社会科学の世界においては、権力というものがまったく当然の前提とされているために、ほかのものが見えなくなっているからです。〉(p.84)
 見えないものを見ようとする網野のこうした試みは、既存のアカデミズムの世界から囂々たる非難を浴びました。孤立のなかで網野の歩みを支えたのは、一つは権力者の偽りに対する怒りだったと思います。そのことは、たとえば国旗の掲揚と国歌の斉唱を求める政府に対して、「虚構の国を『愛する』ことなど私には不可能である。それゆえ、私はこの法に従うことを固く拒否する」(日本の歴史00『日本とは何か』)と、「国旗・国歌法」への不服従を宣言したことに示されています。またその裏には、前回見た「戦後の戦争犯罪」に対する網野の厳しい反省があるにちがいありません。
 おそらく互いに全く知ることのない網野とホロウェイが、しかもそれぞれ異なる領域をめぐってこれほど似通った主張をしていることに私は驚かされました。そこには、20世紀左翼の破綻を体験しながら、なお革命を模索し続ける二つの思想の営みが、期せずしてたどりついた現状脱出の一つの方向が指し示されているのではないでしょうか。
 
 

◆ 現代における自律・自治の空間

 
 ところで、網野が日本の中世に見出した自律・自治の空間は、現代において、もはや失われてしまったものでしょうか。網野は「無縁」「公界」「楽」の特徴として、(1)不入権、(2)地子・諸役免除、(3)自由通行権の保証、(4)平和領域、「平和」な集団、(5)私的隷属からの「解放」、(6)貸借関係の消滅、(7)連座制の否定、(8)老若の組織の8点をあげています。
 私は労働組合のなかに、これらが形を変えて保たれていると思っています。もちろん、いまある現実の労働組合は、変質と衰退を経て、これらの特徴の多くを失ってしまいました。しかし、労働組合の慣行や労働組合法の条文のなかに、あるいは職場の優れた闘いの中に、労働組合の長い歴史が積み上げてきた自律・自治の精神の反映がなお残されているように思えてなりません。
 組合活動に対する刑事免責を認めた労働組合法の第1条や経営者の支配介入を禁じた第7条の規程は、「理不尽の使入るべからず」という「不入権」に相当します。労働組合の事業活動に対する課税の動きが強まっているとはいえ、法人格を有する労働組合に法人税が課されることはありません(地子・諸役免除)。関所など通行の制限がない現代では「自由通行権」といってもピンときませんが、企業内の様々な職場に労働組合役員が自由に立ち入ることは、これまで慣行として広く認められてきました(施設管理権を楯にこれに制限を加える動きが強いのも事実です)。政党など外部勢力の争いに巻き込まれず、内部の討議を通じて独自の判断を下す伝統も消えうせたわけではありません(平和領域)。少なくとも原則上は、組合内の活動について職場の管理者や上司の意向に縛られることはありません(私的隷属からの解放)。さすがに労働組合に入ったからといって借金が免除になることはありませんが、労働金庫のような代替的な金融機関の存在や、種々の貸付制度、共済制度が組合員の生活を支えています(貸借関係の消滅)。現代には五人組のような「連座制」はありませんが、組合内の討議が共謀と認定された「浦和電車区事件」では、組合活動が犯罪とみなされ、討議に参加した者に連座制が適用されており、今もその点が裁判で争われています。「老若の組織」というのは年齢または年功による区別はあるものの、成員間の平等が保たれた組織のことですが、それも少なからぬ労働組合において維持されている特徴です。
 15〜16世紀から現在までの間に社会はとてつもなく大きな変化を遂げました。それにもかかわらず、数百年の時代を隔てて、自律・自治をめざす組織がこれほど共通する特徴を備えているのは驚くべきことです。それは、汗して働きながら生きる普通の人々のなかに、変わらぬ自律・自治への衝動が生き続けてきたことを物語ってはいないでしょうか。ここから労働組合に対する新たな見方が開かれ、現在の衰退状況を脱却する道が明らかになるように私には思えるのです。この点には、またあとでたち帰ることにします。