キリスト教神学中級講座 「フリッチェとの対話」第3回 神学総論3 4つの論点
フリッチェの記述の特徴は、各章の冒頭で、まず参考文献を紹介することである。学習者に積極な自習を促す効果がある。
〈§1:神学総論
参照文献
専門語彙では〈神学〉という検索語を参照、特に『プロテスタント神学と教会の事実全書』第三版(F・カッテンブッシュ)、『歴史と現代における宗教』第一版(J・ヴェントラント)、第二版(H・シュテファン)、第三版(G・エーベリンク、H・シュライ、J・ラッツィンガー、G・フロロフスキー)、『プロテスタント教会事典』(さまざまな著者)
教義学では特にK・バルト(Ⅰ/1、一‐一〇頁、Ⅳ/3、一〇〇七‐一〇一一頁)、ブーリ/ロッホマン/オット(Ⅱ、六〇‐一一五頁)、H・J・クラウス(六四‐八四頁)、H・G・ペールマン(一三‐二九頁)、P・ティリヒ(Ⅰ、九‐四四頁)、W・トリルハース(四八‐六八頁)、H・フォーゲル(八三‐九〇頁)を参照。ルートハルト/イェルケ(一‐五頁)、C・‐H・ラチョフ(Ⅰ、二七‐五七頁)、H・シュミット(一‐五頁)も参照。
神学ならびに百科事典入門
M・ブラウン『神学研究の改革』ハンブルク、一九六六年。H・ディーム『教会学としての神学』第Ⅰ巻、ミュンヘン、一九五一年、第Ⅱ巻一九五五年、第二版一九五七年、第Ⅲ巻一九六三年。M・デルネ(編)『神学研究の輪郭』第Ⅰ巻、ギュータースロー、一九四八年ギュータースロー(第二版一九五二年、ベルリン)、第Ⅱ巻一九四九年(第二版一九五二年、ベルリン)、第Ⅲ巻一九五二年。G・エーベリンク『神学研究。百科全書的探究(ここでは文献目録)』テュービンゲン、一九七五年。H‐G・フリッチェ『神学構造タイプ』ベルリン(ゲッティンゲン)、一九六〇年、第二版一九六一年。K・カルナ―『神学入門』ベルリン、一九五七年。W・ローフ/F・ハーン(編)『学術的神学概観』ゲッティンゲン、一九七四年・B・マウラー『神学入門』ゲッティンゲン、一九七六年。F・ミルデンベルガー『神学論。方法論としての百科全書』シュトゥットガルト、一九七二年。H・ムーラート『宗教、教会、神学』ギーセン、一九三一年。E・ノイホイスラー/E・ゲスマン『神学とは何か』ミュンヘン、一九六六年。G・ピヒト(編)『神学、それは何か』シュトゥットガルト、一九七七年。H・フォーゲル『神学研究の基本問題』ベルリン、一九五八年。P・ヴェルンレ『神学研究入門』テュービンゲン、一九〇八年、第三版一九二一年。J・ヴィルシング『信仰の学習目標、神学入門』ギュータースロー、一九七六年
個別研究書籍とテーマ別教区研究、ならびに全集
M・ディベリウス『何のための神学なのか』ライプツィヒ、一九四一年。エルンスト・フックス『神学とは何か』テュービンゲン、一九五三年。A・v・ハルナック『キリスト教神学と教会教義の発生』ゴータ、一九二七年。W・イェーガー『初期ギリシャ思想家の神学』シュトゥットガルト、一九五三年。E・ユンゲル『神学の自由、神学研究』ツューリヒ、一九六七年。H・‐R・ミュラー=シュヴェーフェ『我々の時代の神学の立脚点』ゲッティンゲン、一九五八年、第二版一九六一年。W・パネンベルク『学術理論と神学』フランクフルト/マイン、一九七三年。W・パネンベルク/G・ザウター/S・M・デッケ/H・N・ヤノフスキー『神学基礎-論争』シュトゥットガルト、一九七四年。G・ザウター他『神学の学術方法論的批判』ミュンヘン、一九七三年。G・ザウター(編)『学術としての神学』ミュンヘン、一九七一年(神学叢書43)。K・シュヴァルツヴェラー『愚行の学。キリスト教信仰と批判理性の交差点における福音主義神学』シュトゥットゥガルト/ベルリン、一九七六年。P・ティリヒ『対象と方法論に依る学術システム』ゲッティンゲン、一九二三年、現在、全集第Ⅰ巻、シュトゥットゥガルト、第二版一九五九年、一〇九‐二九三頁にも収録。G・ヴィングレン『神学の方法論問題』ゲッティンゲン、一九五七年。P・ヴィザー『学術としての神学』ザルツブルク/ライプツィヒ、一九三八年。
論文
E・‐H・アムベルク「神学の統一に関する今日的問題」『神学文学新聞』一九六七年、八一‐八八頁。P・ブルナー「神学的学術の束縛と自由」『福音主義神学』一九四六/一九四七年、四〇四‐四一七頁。R・ブルトマン「神学と告知の関係」M・ゴゲル記念論文集、ノイシャテル/パリ、一九五〇年、三二頁以下、『新約聖書の神学』ベルリン、第三版一九五九年、585頁以下に再録。同「現代神学状況に関する考え」『信仰と理解』第Ⅲ巻、テュービンゲン、一九六〇年、第三版一九六五年、一九〇‐一九六頁。G・エーベリング「神学と現実」『言葉と信仰』第Ⅰ巻、一九六〇年、第三版一九六七年、一九二‐二〇二頁、同「神学入門講義の討論テーゼ」『言葉と信仰』第Ⅰ巻、四四七‐四五七頁。同「プロテスタント神学と教会のための歴史批判方法論の意味」『言葉と信仰』第Ⅰ巻、一‐四九頁。同『神学と告知』テュービンゲン、一九六二年。同「神学の学術性に関する問いの指導原理」『言葉と信仰』第Ⅲ巻、テュービンゲン、一九七五年、一三七‐一四九頁。同「神学と教会における意思統一メモ」『言葉と信仰』第Ⅲ巻、四八四‐五一四頁。P・H・E・ゲンジッヒェン「神学とは何か」『組織神学新報』一九六〇年、二六三‐二八四頁。H・ゴルヴィッツァー「学術の家における神学」『福音主義神学』一九五八年、一四‐三七頁。H・グラス「神学の複数形と真理問題」『神学と批判』ゲッティンゲン、一九六九年、七一‐九二頁。A・v・ハルナック「神学部の意味」(一九一九年)『講演と論文選集』新版、ベルリン、一九五一年、一一三‐一三一頁頁。同「学術認識の段階」(一九三〇年)『講演と論文選集』新版、ベルリン、一九五一年。H・J・イヴァント「神学における原理闘争」選集(K・G・シュテック編)『正しい信仰のために』ミュンヘン、一九五九年、二二二‐二四六頁。W・ヨースト「神学と学術というテーマのための関係設定」『ケリュグマとドグマ』一九七三年、一五〇‐一五六頁。E・ユンゲル「神学分野の相互関係」『問題への途上』ミュンヘン、一九七二年、三四‐五九頁。W・カスパー「学際間会話の神学 ―― 観点と問題」『福音主義神学』一九七二年、二九二‐三〇〇頁。F・カッテンブッシュ「キリスト教神学の発生」『神学と教会の雑誌』一九三〇年、一六二‐二〇五頁。G・クールマン「神学の危機」『神学と教会の雑誌』一九三一年、一二三‐一四六頁。E・レッシング「倫理的判断問題としての神学統一」『福音主義神学』一九七五年、三五一‐三六五頁。F・ミルデンベルガー「応用学としての神学」『ケリュグマとドグマ』一九七四年、九一‐一〇五頁。J・モルトマン「近代学術世界の神学」『福音主義神学』一九六六年、六二一~六三九頁。E・オスターロー「神学と教会」『福音主義神学』一九四六年、五七‐八二頁。K・ラーナー「神学の将来道」『Thj』一九七四年、五六‐七五頁。G・ザウター「神学における理論の課題」『福音主義神学』一九七〇年、四八八‐五一〇頁。同「神学の学術概念」『福音主義神学』一九七五年、二八三‐三〇九頁。H・ショルツ「学術としての福音主義神学はいかにして可能か?」『時代の間』一九三一年、八‐五三頁、G・ザウター(編)『学術としての神学』ミュンヘン、一九七一年、二二一‐二六四頁に再録。C・シュタンゲ「学術関連における神学の位置」『組織神学雑誌』一九二四年、三四五‐三八四頁。A・シュトック「神学と学術理論」『告知と研究』一九七五年、二‐三四頁。H・トラウプ「神学と告知」『返答(カール・バルト古希記念)』ツォリコン‐ツューリヒ、一九五六年、一二四‐一三六頁。H・フォーゲル「大学空間における神学の位置」『神学文学新聞』一九五七年、七二一‐七三〇頁
歴史的に価値のある論文
カント『学部の争い』全集(カッシラー)第Ⅶ巻、一‐一一六頁。F・オーヴァーベック『我々の時代のキリスト教性について』ライプツィヒ、一八七三年、第二版一九〇三年。同『キリスト教と文化』バーゼル、一九一九年。F・シュライアマハー『神学研究小論』ベルリン、一八一一年、第二版一八三〇年(両版とも一九一〇年のH・ショルツの版、一九三五年の新版、一九六一年のダルムシュタットとヒルデスハイム版とも比較)〉(Hans-Georg Fritzsche, Lehrbuch der Dogmatik: Teil1: Prinzipienlehre Grundlagen und Wesen des christlichen Glaubens, Evangelische Verlagsanstalt Berlin. Ost-Berlin, 1982, S.18-19)
東ドイツに限定されず、西ドイツ、スイス、米国の神学者の文献もフリッチェは数多く参照している。神学研究の分野においては、東西の壁が高くなかったことを示している。
教義学全体を貫く4つの大問題があるとフリッチェは考える。具体的には「神と神的事柄の問題」「聖書学としての神学」「宗教学としての神学」「教会宣教の業の理論としての神学」だ。
<序論
教義学の導入部分で、視点を神学の総論と、それとともにある諸問題に向けるのは良い伝統である。このような視点が必要であるのは、まさに今日において、神学の統一を以前ほど信用できない場合でも、誰しもが異論を唱えないであろう。その視点が〈教義学〉の前提条件のみから(意識的にしろ、無意識的にしろ)出発をして、実際に全体像を射程に入れるのも同じく明白かもしれない。神学の統一を前提にする神学者は誰しもが、それによって依然として ―― もしくは再び ――〈教義学者〉であり、この点でこの教義学の最初の問題では共同歩調をとるように求められている。
そのために神学を全体像として捉えて定義できる少なくとも四つの観点が存在する。そしてこの四つの観点は、神学に内在する発達史の四つの連続局面で優勢であり、また優勢になるように規定されている学術的主要方法の一つと一致している方法と関連している。
この神学の四つの基本理解は以下の通り〉
神と神的事柄の問題についてフリッチェはこう説明する。
〈(1)《神と神的事柄な問題》としての神学、これは大雑把に言えば、神学を大雑把に〈教義学〉と同一視して、この中で総体的世界観の完結したシステムを望むカトリックの定義である。神学における各研究プロセスは、個々の点において一個の教義学であるということではない。神学を神と神的なものの教えとする定義は秩序を表現し、そして目的論、その中で信仰論の発展との関係が全体像の本来的な意味であるところのシステムの目的設定に標準を定めている〉
カトリック教会においては、教皇によって認定された絶対に正しいとされるドグマ(教義)がある。このドグマによって、カトリック的世界観が形成される。当然、プロテスタント神学者であるフリッチェは、このような立場をとらない。
プロテスタント神学は、ドグマからではなく、「聖書のみ」という原理(*1)から出発する。
〈(2)これに加えて単なる対立としてだけではなく、〈下から〉の対立として大雑把に《聖書学としての神学》である聖典解釈として公式化するのは、(新しい)プロテスタント神学の定義である。信仰はこの解釈では、信仰をまず第一に書き記すべき学問的研究の所産としてではなくて、すべての学問に先行し、そしてその意味ではカトリックの見解よりは初期段階で遥かに根源的であるものとして見なされている。信仰は、偉大なチェック行為、歴史批判的目録、あらゆる伝統的ポジションの総演習として理解されている〉
聖書に対する信仰が、目に見える教会よりも先行するのである。歴史的経緯からしても、教会はペンテコステ(*2)によって生まれた。教会が生まれるよりも、イエス・キリストに対する信仰の方が早く生まれている。
脚注)
*1【「聖書のみ」という原理】プロテスタンティズムの3大原理「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」のひとつ。プロテスタンティズムの精神は、キリスト教が世界宗教へと展開する礎となったパウロを起点に、16世紀の宗教改革者・ルターによって究められた聖書の福音の正しい理解にある。
それを前提に「信仰のみ」とは、〈正しい者は信仰によって生きる〉(ローマ信徒への手紙1:17)というパウロの福音理解のルターによる再体験だといえる。イエス・キリストの十字架に現れた神の愛は人間の救済を基礎づける唯一十分な証拠であり、人間はそれに対して何も付け加えることはできない。ただそこに与えられているものを、信仰をもって受け入れるのみである、ということを意味している。しかし、そのように信仰をもっていても人間はその本性において罪人にとどまるものであり、その意味でも救いはイエス・キリストのみにあることを強調する。
では、救いがイエス・キリストのみにあることを信じる根拠はどこにあるのか? 信仰はイエス・キリストの啓示にのみ依存し、それが証されているのが聖書だとする。それゆえ「聖書のみ」が唯一の真理の規範だとしている。だだし、聖書の「文字」に依存するのではなく、聖書を通じて救済の根拠であるイエス・キリストにのみ依存することが「聖書のみ」の真意だ。
「万人祭司」とは、人はみな神の前に平等だという原理。人間の救いが、神の自由な恩恵の働きによるものだとすれば、信仰者はすべて祭司であって、自分自身で決断して信ずるほかないという考えに基づく。したがってプロテスタントでは、教職(牧師)と信徒との違いは機能の違に過ぎず、身分の違いではない。
*2【ペンテコステ】聖霊降臨。復活したキリストの霊が、生前のキリストが約束したとおり弟子たちに降ったことをいう。その教理的意味の一つに、新しい真の神の民、キリストの教会の誕生がある。
聖霊が降臨した日は、降誕日、復活日と並ぶ、キリスト教の3大祝日のひとつ。キリストの復活を記念する復活日から50日目、キリストの昇天を祝う昇天日の10日後の日曜日。