キリスト教神学中級講座 「フリッチェとの対話」第11回 神学総論11 無神論への道
神学も歴史の中で営まれる。神学史と一般史(学術史)との関係はどうなっているのであろうか。フリッチェは、一般史を神学史の補助学と考える。
<4.神学史同様に学術史は、従来において論評された首尾一貫性、真理、弁明といったキーワードに結びつけられた三つの理想以上の「学術性における理想」に精通している。まったく別の学術手段の使用に至ったのは、特に教義神学と(経験的な)歴史神学、批判的神学と弁証的神学との対立である。まず初めに観念論の時代において神学を活気づけたように、《哲学》の学術理想が挙げられるべきであろう。手短に特徴づけると、学術的省察が神学の対象 ―― 教会、キリスト教、教義論、宗教性 ―― において広範囲な《連関》にはめ込む課題を抱えているということになる。自己の《中》にのみ神学の対象が序列と組織学を示すべきではなく、広範囲な序列にもはめ込まれるべきである(ヘーゲルの結論では、《神自身》が絶対精神として精神全般の発展に ―― 主観精神から客観精神を経由して ―― 編入されるべきである)。換言すれば、学術性は事物を記述するだけではなく、―― もしくは検査したり、守ったりする ―― 事物の中で原則的なもの、規則的なもの、常に回帰するものを記述することの中に見られる。なぜならば、必然的なものと事実的なものだけを把握するのではなく、それを説明して理解することだからである。プラトンは、これを事物における〈イデー〉の認識と呼んだ。>(Hans-Georg Fritzsche, Lehrbuch der Dogmatik: Teil1: Prinzipienlehre Grundlagen und Wesen des christlichen Glaubens, Evangelische Verlagsanstalt Berlin. Ost-Berlin, 1982, S.34)。
ヘーゲルの歴史哲学は、一般史の一分野に過ぎない哲学史に神学史を還元してしまうという過ちを犯した。その結果、絶対精神という人間の観念が神と擬制されてしまった。これは、一人ひとりの人間を救済するキリスト教の生ける神とは異質な概念だ。
他方、シュライエルマハーは、宗教の本質を絶対依存の感情とした。神は人間の心の中に存在するようになった。この操作によって、神学が持っていた伝統的形而上学と近代的自然科学像(とりわけ宇宙像)との間の対立は解消されることになった。反面、心の中にいる神と人間の心理の区別が難しくなった。神学的構成としては、倫理学が教義学に先行するようになることにフリッチェは懸念を表明する。
<神学をこのように理解し、しかも神学は倫理学(自然分野における合法則性の学問としての物理学と似通った社会学分野における合法則性の学問)に基礎を置かれる必要があるという合言葉の下で神学を理解するのは第一にシュライエルマハーであった。つまりはこういうことだ。神学が関係する対象 ―― 特にキリスト教、教会、信心、信仰告白、礼拝等々 ―― は、広範囲な合法則性の現象形態として、その必要性において会得し、〈理解〉されなければならないものとして説明される必要がある。ある種の主張の正誤が決定的な論点ではなく、むしろより重要なのは、ある種の事物が存在し、それが権力を持ち、人間を特徴づけるということだ。《このこと》を説明すること ―― そしてその際には確実に正当化すること ―― とは、歴史的に、心理学的に、人類学的に、社会学的に、その他これらに類するもののように理解することによって18世紀にはすで芽生え、そのためにシュライエルマハーによる神学の倫理学への基礎づけが百科事典の形式を見出す学問として神学をまったく新たに理解することである。神学者は、―― これによって ―― もはや教義学者でも批評家や護教家でもなく、神学と教会において緊張状態が存在する必然性の理由、これを擁護して他は見切らなければならない《理由》、――《キリスト教》神学者として ―― 人が《キリスト教中心》にならなければならない《理由》を悟るような将来を見据えつつ理解する哲学者である。いずれにしてもこの洞察は、神学研究に学問的序列を与えるべきものであり、証明でも内面的な分類学でもなく、はたまた単なる綿密な記述でも事実確定でもなくて、イデー現象としての個別叙述である>
キリスト教という宗教、教会、信心、信仰告白、礼拝などはイデー(観念)が現象化したものに過ぎない。その結果、神学は観念論に吸収されてしまう。また、人間の心が観念に憧れることが神学的活動の動因になる。従って、シュライエルマハーの神学はロマン主義の色彩を濃厚に帯びることになった。
ロマン主義的神学の構成は以下のようになる。
<この神学における学術性理解が何よりもまずその表現を見いだしたのは、一九世紀教義学の偉大な原則論が総論から特殊論へと発展し、ようやく宗教全般の本質を扱い、―― この点では宗教を文化とヒューマニズムにとって不可欠の要素として証明しながら ―― キリスト教、もしくはプロテスタントにおいて前もって人間存在とその歴史的発展のイデーから要求するものをまさしく確定したときである。この連続 ―― 総論から特殊論 ―― を逆転させたのは特にカール・バルトであった。より正確に言えば、完全に止揚したのである。なぜならば彼の観点ではキリスト教は、―― いずれにしてもキリストにおける神の啓示 ―― 宗教と文化全般の特殊例ではなく、(社会学的に表現すれば)全宗教と文化に対するある種の批判的な反証であり、その中では神についてのみが語られる>
シュライエルマハーの神学においては、人間の感情が重視される反面、啓示が軽視される。その結果、啓示によってしか理解できない三一(三位一体)の神が、シュライエルマハーの神学体系においては、末尾で付録のように扱われることになった。このようなロマン主義的神学を転倒させたのがカール・バルトである。
< 広範な合法則性へと学術理念を明確に組み入れること、もしくは神学へと転移することに間違いを犯すきっかけとなるのはフォイエルバッハ(*1)であった。彼は基本的にはシュライエルマハーがなした宗教の一般的な合法則性への根拠づけをラジカルに実行はしたが、力点が異なった。シュライエルマハーが、キリスト教を一般的な理念とより高い必然性(特に増大する人間の宗教的、ならびに倫理的意識における、精神による自然性の刻印の必然性)の現実化であると考えるのに対し、フォイエルバッハはむしろ、キリスト教が人間的必然性の結果であるとし、この点では〈人間的〉を強調している。人間は理想と理想像を必要としているので、神々を充足できない願望の写し絵としている。
これも哲学的学術理想に従った神学である。すなわち、歴史的偉大性としてのキリスト教が人類学的、社会学的法則の個別例として今日のみ別の風潮と調子で説明されている。〈キリスト教 ―― 宗教一般 ―― は人間の本質に属している〉という命題において強調されているのは、もはや本質ではなく、〈人間の〉である。
これにはさらに次のことが加わる。フォイエルバッハでは別方法の説明、分類神学(神学における哲学的理想)が影響として現れており、しかもヘーゲルがより強く強調したもの、現象を《歴史》の直線の中に組み入れる方法である。シュライエルマハーは、キリスト教を現実的な側面関連へと組み入れて文化の(恒常的に必然的な)セクターとして理解した。なぜならば、キリスト教は宗教的である人間の本質的特徴だからである。ヘーゲルでは横断組み入れから縦断組み入れとなり、それによってキリスト教が ―― 現在の経験主義的キリスト教 ―― 歴史の局面として、かつては存在しなければならなかったが、常には存在しないようなものとして理解されている。ヘーゲルは通常のキリスト教に従って起きるであろうものを、ごく普通のキリスト教徒との決定的な対立においてではなく、教会組織の儀式、教義キリスト教の精神化として理解し、リーヒャルト・ローテ(*2)は《事実上》ますますキリスト教化する世界における教会と、意識的なキリスト教性の不必要化として解釈できた。しかしそれを確定する必要はなかった。キリスト教を移行局面として理解する基本的思考は、(世界の一切の物事のように)キリスト教の後には ―― それを排除する ―― 対立項がアンチテーゼの後のテーゼのように生じるであろうと見通す余裕も出てこよう。ヘーゲル左派(*3)はこの帰結をすぐに導き出すのを躊躇わなかった>
シュライエルマハーが唱える絶対依存の感情を突き詰めていくと、宗教の主体は心を持つ人間ということになる。ここから、神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのであるというフォイエルバッハの無神論への道が開ける。シュライエルマハーの神学は無神論の可能性を内包していたのである。
脚注)
*1【フォイエルバッハ】/ルートヴィヒ・アンドレアス(1804-72)
ヘーゲル左派(後述)を代表するドイツの哲学者。神学を学んだ後、ベルリン大学でヘーゲルに哲学を学んだ。フォイエルバッハの思想は最終的に「真理はただ人間学のみであり、真理はただ感性の直観の立場のみである」と、「人間」に到達した。主著『キリスト教の本質』では、「神学の秘密は人間学である」と言明した。この著作は、若き時代のマルクスとエンゲルスに影響を与えた。
*2【リーヒャルト・ローテ】(1799-1867)
ドイツのルター派神学者。ローテの神学の特質は、シュライエルマハー、シェリング、ヘーゲルの影響を受けた神学的倫理学にある。哲学、神学ともに思弁的学であるという点で共通しているが、哲学の起点が自己意識であるのに対し、神学はその起点が神意識である点において異なる。絶対的位格の神が司る創造・世界支配・救済を発展史の必然的過程であるとした。また、救済の目標を宗教的・道徳的共同体として完成されるキリスト教国家とした。教会をキリスト教国家成立へと至る通過段階として位置づけた。
*3【ヘーゲル左派】
ドイツの哲学者ヘーゲルの影響を受けた思想家たちはヘーゲルの死後、右派(老ヘーゲル学派)・中央派・左派(少壮ヘーゲル学派)の3派に分裂した。右派は保守系でヘーゲルの哲学的宗教的立場を擁護。福音書をそのまま真理として肯定した。中央派は哲学と宗教を区別し、福音書を部分的に肯定した。左派は福音書の批判からヘーゲル哲学の解体へ向かった。D.シュトラウス(神学者)、フォイエルバッハなど。マルクスもこの系譜に連なる。ヘーゲル左派の主張は唯物論となり、マルクス主義へと変容していった。