キリスト教神学中級講座 「フリッチェとの対話」第10回 神学総論10 弁証学の特徴
キリスト教神学には、弁証学という分野がある。弁証学とは、ユダヤ教、イスラム教、仏教などの異教に対して、キリスト教の正当性を証明する学問だ。無神論に対してキリスト教の正当性を弁護するのも弁証学の課題だ。これに対して、キリスト教内部の異論に対して、正しい立場を弁護するのが論争学だ。いわゆる異端審問は論争学に属する。
弁証学の場合、他の宗教や無神論に対してキリスト教が正しいという結論は予め決まっている。哲学者から見ると弁証学は独断論だ。しかし、そこでは批判的、学術的手法が用いられないということではない。弁証学の特徴についてフリッチェはこう述べる。
<3.批判的学術的理念に近いのは、―― でもそれとは無限に相違してはいるが――《弁証学》の理想である。それを《学術的》理念だと呼ぶのは躊躇するかもしれない。というのも弁証家に欠けているのは、各学術的研究プロセスの方法論的前提条件であると思われるからである。すなわち、あらゆる結果に対する自由、贔屓する裁判官に屈服することによってその〈真理〉に本気で賭けて〈裁判沙汰になるまで争う〉ような覚悟である。
しかし学術が中立でなければならいとするのは議論の余地がある。少なくとも学術が当然のことながら司法制度の実践においてと同様に立場と前提条件の任務を担っている。そしてさらに吟味すると、学術が前提条件を具有することで非学術的になるのではなく、どちらかに《責任をなすり付ける》場合に初めて非学術的になると許容せざるを得ない。是認された明らかに目立つ前提条件はある問題設定と同じようなもので、疑問への《解答》のみが学術的か非学術的(なぜなら正しいか、間違っているかのどちらかであるから)かのどちらかで有り得ると認めるのであれば、既定の前提条件からの出発点が学術のテーマアプローチと出だしのみに関係するが、学術をそのような意味で堕落させる必要がないことが示される。もちろん、学術からは各解答に対する単なる自由以上のもの、すなわち各《質問》に対する自由を要求できはするが、ラジカルに実行するのであれば、それが学術的理想のみを基礎づけることができる。学術性それ自体は、そうしている時でもより広い概念であり、それに従って学術が自己目的ではなくて、人生とその担い手における奉仕であらねばならないというまったく別の理想を許している(そして多くのことが疑問に付されてはいけない)>(Hans-Georg Fritzsche, Lehrbuch der Dogmatik: Teil1: Prinzipienlehre Grundlagen und Wesen des christlichen Glaubens, Evangelische Verlagsanstalt Berlin. Ost-Berlin, 1982, S.34)。
キリスト教神学には、人間の救済という明確な目的がある。救済は人間にとって主体的な問題だ。この主体的な問題を純粋に客観的な方法で取り扱おうとするのはカテゴリー違いなのである。神学的論争は、学術的な精緻さを争うことが目的ではない。他者に奉仕することから、神学的言説は評価される。フリッチェは、奉仕という観点から弁証学的言説の内容を評価すべきと考える。
中世神学において学問(とりわけ哲学)は、神学に従属すべきと考えた。弁証学は、この伝統を継承している。
<学問が従僕であるべきとする概念は、教会の中世を規定し、古代教会の弁証家(*1)において準備されていた。その弁証家たちにとって〈ギリシア精神〉は手段のみならず、武器でもあった。もちろん、さらなる問題提起を直接的に禁止して、最後には解答すらも指定してしまうような、だんだんと締めつけの強くなる目的のための武器である。このようにそれ自体が従僕として敬う価値のある学術理想が、ある方法で従僕としての信用を失っているので、護教家の概念は今日では響きが悪い。だが、この学術性のイメージが持つ真理への動機を見逃してはならない。その真理への動機は、学術が持たねばならない自己言及的側面にこそある。ここにこそ学術は奉仕するのだ。人文科学との協調、ならびに文化空間において神学の立ち位置について語られるべきとするのなら、この側面が一つの〈善き〉、普遍的な事柄である必要があり、そして件の奉仕が学術素材の自律性に従う必要があるということに第一節の第4点と第6点において立ち返ることになる>
学術的研究は、神学からすれば補助学なのである。もっとも補助学だからといって、その価値が低くなるわけではない。補助学がそのカテゴリーを正確に理解し、人間の理性に神の啓示を従属させるような越権行為をしない限り、補助学にはそれ自身として高い価値が付与される。
<今日のプロテスタント神学において再び弁証学の傾向が存在するに違いないのであれば、主張するもの(第一ペトロ書3・15)(*2)、一切を証明しようとするものとはまったく別個のものをすべてについて《釈明》することである。それ以外に今日のプロテスタント神学の護教学契機は、《論題》の広さと多様性に依って利害を呼び起こし、それによって言葉の習得に(本書、一一七頁参照)役立つことにある。非常に適切なのは幾つかのスカンジナビア教会では護教論概念の代わりとなった〈知的奉仕事業 intellektuelle Diakonie 〉という表現であり、それによってその必要性を原則的に是認し、その論題に結びつけた(神学事典におけるこのキーワードに対するH・‐H・ヤンセンの項目を参照、ベルリン、一九七八年)>
弁証学の特徴を一言で表現するならば、「知的奉仕事業」ということになる。
脚注)
*1【古代教会の弁証家】
古代教会時代、ユダヤ教や異教文化世界、ローマ当局などからの攻撃に対し、キリスト教を擁護するために弁証した教父や学者のこと。弁証学者、護教家ともいう。こうした教父や学者はギリシア文化に通じていて、キリスト教がギリシア文明の正統な相続者であると立論することもあった。
*2【主張するもの(第一ペトロ書3・15)】
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。