音楽への今日的アプローチ2009動力学的音楽基礎論特講

▼バックナンバー 一覧 2009 年 4 月 16 日 伊東 乾

 いま音符で記したような、古典古代詩の「長短・音程上下動リズム」は、決して古代から途切れることなく伝えられてきたものではない。一時は完全に廃絶した伝統が、ルネサンス以後の古典学の取り組みの中で再発見されてきたものに他ならない。
  
 私自身、原典を確かめたわけではないのだが、へクサメトロンのような長短リズムの再発見は、若き日の文献学の俊英、フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の労作という。ニーチェや、世代的には少し下にあたるフェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)らが19世紀後半に明らかにした、韻欧語詩篇のリズム構造に関する研究成果は、哲学や記号学などへの彼らの貢献ほどには、21世紀初頭の今日、評価されてはいない。
 
 だが、こうした実証的な部分を一切考慮せず、中後期のニーチェや、晩年のソシュールだけに、とりわけアメリカや日本で注目が集まることに、私は危惧の念を持つ。さらに言うなら、私なぞ以上に小田実はもっと強い疑念を持っていただろうと思っている。
 
 事実、長短リズムの詳細な解明は極めて近年の成果で、さらに言うなら日本人の決定的な貢献も存在している。

 ホメーロスの「イーリアス」ならびに「オデュッセイア」の2詩篇は、その「長短リズム」構造が、上に挙げたへクサメトロンだけで統一されている。西欧古典学研究者の逸身喜一郎さんは、かつて1970年代~80年代にかけて、初期型のパーソナルコンピュータを使い、ごくありふれた「表計算ソフト」に詩の断片を打ち込んでデータベースを作ってみた。
 
 留学先の英国では、泰斗から若手の俊英まで、逸身さんのアプローチに冷ややかな視線を注いでいたという。だが元来が理系出身の逸身さんは、このデータベースを駆使して、「伝統と権威」を誇るはずの欧州の古典学者が想像もしなかった「長短リズム」の詳細な構造を明らかにしている。
 
 ギリシャ・ローマの古典ですら、決して踏破されつくした領域ではないのだ。極東の島国出身の人間にも、まだまだ本質的な貢献が出来る余地が残されているのだ。それと気づくか、あるいは単に権威と伝統の堆積の前に萎縮して、その模倣と縮小再生産に汲々とするだけか。これは選択の問題にほかならない。

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