音楽への今日的アプローチ2009動力学的音楽基礎論特講

▼バックナンバー 一覧 2009 年 4 月 16 日 伊東 乾

 魚住昭さんから《魚の目》の話を頂いたとき、最初に考えたのは小田実のことだった。彼はその残された最後の時間を、日本語の詩の言葉を紡ぐ病床の文学者として生きるという選択をした。それは、彼の今生の生活を支えた多くのファンにとっての「小田実像」とはかけ離れていたかもしれない。だが小田は人生の終幕を、大衆イメージと無関係に、自分自身の仕事のために使うことにしたように、私には見える。
 
 私は20台の比較的早い時期に音楽家として世に出ることができた。30台前半で音楽教員として大学にポストも得た。だが現在の私の「読者」の大半は、40を過ぎてから書き始めた、一般向けの書物や原稿、あるいはテレビなどで、私や私の仕事を知るようになった方々と思う。元来の音楽で私を知る人は良くて数万、下手すれば数千人のオーダーと思う。書物や、とくに日経ビジネスなどインターネット上での私の読者は数万から数十万の程度に及び、地上波のテレビに出るときは、数百万の人が私の与太話を聴かされる羽目になる。
 
 だが良くも悪しくも、私は自分のホームグラウンドとライフワークを一度もブレさせたことがない。どんな書物でも、仮に法律や経済に関するものであっても、音楽家の自分としてしか書いたことはない。小田実は生涯の最後になって、社会的な運動と切り離された自分の文学とのみ、向き合うという生活を選んだように見えるが、私にはそのようなつもりがない。一貫して自分のライフワークの本筋が何であるかは自覚しており、そのように行動し、日々生活している。
 
 だが出版などは、なかなか自分の勝手にはならない。文学賞を貰ってからは、さまざまな版元からコンスタントに書籍出版のお話を頂くようになったが、10年ほど前から、幾度も出版を企図してきた、音楽の本来の仕事のための書物は、一度として世に出せたことがない。
 
 だいたい、日本では楽譜が印刷されていると、一般書としては売れにくくなるらしい。また数式など書いてある本も敬遠される。楽譜と数式と難解な外国語が並ぶ、私のライフワークは、言わば「出版の三重苦」のようなもので、日本で日の目を見ることはまずないだろうと、そうそうに覚悟を決めていた。あるとすれば英語など外国語で書いて、欧米の大学出版会類から出すしか手はないだろう。
 
 魚住さんからお話を頂いたとき、だから第一に考えたのは、この「日の目」の代わりに「魚の目」を見させてもらえないか、という事だった。いまどこの出版社も、これから書くものについて、依頼などしてはくれない。だが間違いなく、ここに書くものは私の「主著」として、ほぼ唯一残る可能性のある書物で、あとは幾つかの音楽作品があるというのが、後から振り返ったときの私の生きた足跡になるだろう、と思っている。
 
 さきほど、ニーチェたちが再発見するまで、ルネサンス以来長らく古典詩の「長短リズム」は失われていた、と記した。現実には、ギリシャ語やラテン語、さらには西欧語の詩篇は「長短リズム」から「強弱リズム」へと、大きな変化を遂げてゆく。紀元4-5世紀に起こった、この「長短リズム」から「強弱リズム」への変化の理由、真相は、誰も知らない。逸身さんも、その師匠である久保正彰教授も、理由は誰も知らない永遠の謎だといわれた。
 
 だが、詩の素人で職業音楽家の私には、4-5世紀に起きた一大変化といえば、キーポイントは一つしかないように思われた。「キリスト教のローマ帝国国教化」である。西欧古典学の最大の謎のひとつに対して、音楽家の立場からは、一定程度は検討の価値があると思われる「音の<長さ>から<強さ>にアクセントが変化してゆく理由」を、実証的な方法で示すことが可能になる。ほんの2,30年前、日本人の逸身さんも基本的な貢献をしておられるのだ。素人の自分は外れてもともと、という頭で、例えばこうした問題の解決をゼロから考えるような仕事を、「創作」や「解釈」以外の「大学で音楽の研究室の主催者」として、もっぱら私はしてきた。
  
 これがもし、狭義の「学者」の仕事であれば、場合によって不謹慎極まりないことにもなるだろう。というのは、幾つかの問いは、学問的に唯一の正当性を証明することが困難だからだ。
 
 だが私の本道は作品・演奏解釈をゼロから創る音楽家だ。もしどうしても、という論理的な飛躍があれば、そこは私の独自性ということで、開き直らせてもらうことになる。幸か不幸か、そうした論理的飛躍は非常に少ないのだが、それも含めて、21世紀前半を生きた一人の音楽家の「方法の序説Discours de La Methode」として、この仕事を考えたい。
 
 この連載では、同一の内容を日本語と英語で並行して記してゆく。毎月の連載でペースを作らせてもらい、一通り完結の暁には、適切な形で内外での出版を念頭に置いている。

 小田が「完訳はまちがいなくかなわない」と自覚した上で、自ら意識して筆を置いた「イーリアス」第一巻の末尾は、やさしい日本語で綴られている。私はふと、若き日のマルクスが恋愛詩人であったことを思い出した。改めてその末尾を見直して、私は小田が何を絶筆に選んだのか、その意味が分かったように思われた。

そのときはこのように太陽が落ちるまで日がな一日、
宴が行われた。申し分のない満足できる宴だ。
アポロンの持つ美しい竪琴もあれば、
詩神ムーサも美しい声で歌を歌い合った。
    さて、そのあと、太陽の輝かしい光が沈むと、
めいめいが帰宅して寝床に入った。
めいめいの屋形は世に名高い、強い腕持つへーパイストスが
よく心得た技と天性とでつくり上げたものだ。
オリュムポスでは、雷を放つゼウスが床に入った。
(610) そこは快い眠りが来るときに横になるところだが
そこに黄金の王座のへーレーも行き、そばで眠った。

(小田実 訳「イーリアス」第一巻 第601-611行)[5]

注:出典
[1] ホメーロス 小田実訳「イーリアス」(第1巻) すばる 2007年7月号 p.116
集英社 2007
[2] 同前、p.136
[3] 同前、p.117-118
[4] 同前、p.116
[5] 同前、p.136

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