日本伝統音楽論行脚魚の目版「笑う親鸞」 

▼バックナンバー 一覧 2009 年 4 月 16 日 伊東 乾

 報恩講で行われる礼拝も重厚長大になる。またご本尊を装飾する「荘厳(しょうごん)」も重い格式をとる。だが報恩講は、単に重々しいだけの儀式ではない。村祭りも終わった農閑期、冬のさなかに地域の人々が集まってご飯やお菓子を一緒に食べる、年に一度の楽しみとして、人々の生活に定着している。伊勢の報恩講では「御講汁」と呼ばれるご馳走が振舞われるという。
 報恩講は真宗版の「カーニバル」謝肉祭の横顔を持っているのだ。リオのカーニバルのような派手さはない。だが、喜怒哀楽、さまざまな感情を揺さぶるエンターテインメントが準備されている。このあたりはカーニバルとそっくりだ。報恩講では寺や地域の外から講師が呼ばれ、何日にもわたって、機知に富んだ、面白くもありがたいお説教を何席も演じることになっている。

 緑の奥に新しいきれいな本堂が建っていた。ちょうど一緒にお寺に着いたご門徒さんが「どうぞお入りください」と引き戸を開けてくれる。受付にご挨拶をして、お堂の隅のほうに座らせていただく。部屋中暖かい。寒い日は暖房が何よりのご馳走だ。

 今日日の欧化した生活に合わせて、なのだろう。幼稚園のものより低い椅子が並べられ、ひとつに一枚ずつ座布団が敷かれている。お堂の中のご門徒の数がだんだん増えてきた。小さな椅子に三々五々、お婆さんたちがちょこなんと座っている。可愛らしい風景だ。
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 予定開始時刻を少し過ぎて、住職が法要を始められた。「正信偈さま」をみんなで唱える。
 キンが鳴らされた。仏壇の鐘の大きいものをキンという。このお寺のキンはなかなか涼しい音がする。和風というよりチベット仏教系の響きだ。住職はお経もいい声で読む。喉で巧みな「ビブラート」の節回しを転がしている。お経に自信があるお坊さんは、声ですぐ、それと分かる。

「正信偈」は正しくは「正信念仏偈」といい、親鸞の主著「教行信証(「顕浄土真実教行証文類」)の「行巻」の最後に収められている「偈文」だ。真宗の要諦が

 帰命無量寿如来 南無不可思議光

 に始まる120句の漢文にまとめられている。親鸞の子孫である本願寺8世蓮如によって、やはり親鸞の手になる「三帖和讃」と合わせて、朝暮の礼拝勤行に読誦される。

 蓮如さん以来、「正信偈」は非常に明確に「作曲」されている。基本的な事実なのだが、あまり広く理解されていない。現在では本願寺派(お西)、真宗大谷派(お東)など宗派によってかなり詠み方が違っており、蓮如さんの当時、どのように読誦されていたのかは定かでない。一般的に「お東」のほうが、古い形をより多く留めていると考えられているという。古来の読誦法の記譜も残っている。音程が絶対音感式に決定されていて、キンの音に合わせて音程を取るという流儀がある一方、最初の歌い出し(調声者)に合わせて全員が歌うという流儀もあり、さまざまだという。
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 現代の「正信偈」は漢詩文の「教行信証」と日本語の「三帖和讃」とを合わせて、今日の門徒衆にあう形を各派が工夫している。テープやCDが普及していることもあるのだろう、熱心な門徒たちは、朝晩の礼拝で鍛えた「正信偈」が実にうまい。そもそも、みんなで一緒に大きな声をあげて歌うのは、理屈抜きに楽しいことだ。そんな原点に触れたような気がした。
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 ある音楽学者は「キリスト教は歌う宗教だ」と言ったが、これはやや見識を欠く表現だ。歌うという点で言えば、ユダヤ教もイスラム教も実によく歌う宗教だ。日本の仏教各派を見渡せば、平安期までのエリート学僧を対象とする密教は高度な「声明」を持っているし、(禅宗を除いて)大衆に仏の道を解放した鎌倉新仏教は、檀家信徒に平易な歌を歌うことを、例外なく熱心に勧めている。それらが「歌」と認識されていないのは、むしろ一種の死角というべきだろう。宗教改革後、民衆に開かれた平易な賛美歌は「コラール」と名づけられている。ベートーヴェンの「合唱」交響曲もコラール・シンフォニー、つまり民衆が歌える、平易な賛美歌をともに唱和するという立場で書かれている。

 日本のプロテスタント、鎌倉新仏教では「名号」「題目」といった形で「コラール」が形作られた。それが「南無阿弥陀仏」の六字であり「南無妙法蓮華経」の七文字に当たる。特に浄土教系の「南無阿弥陀仏」は、鎌倉期以後の音曲技芸に決定的な影響を与え続けた。観阿弥・世阿弥以来、能楽各派の古典番組は、ほぼ例外なく浄土教系の仏教説話の様式を採っている。唱えられるのは「南無阿弥陀仏」の六字の名号だ。

 特権階級のための教えでなく、大衆に開かれた宗教では、必ず、あらゆる信徒が平等に唱える「歌」ないし「節」を持っている。イスラム教徒は彼らのコーランの朗誦を「音楽」や「歌」とは認識していない。だが、おのおのの信者が自ら声を出し、あるいは記憶している平易な一節を繰り返して唱え、あるいは長い詩句を、経典や聖歌集を見ながら詠み継いで行く形式をとるのは、国と時代を超えた共通要素になっている。

 かれこれ40分ほども続いた「正信偈」の間に、一人ひとり全員がご本尊に焼香する。私も拝ませて頂いた。自らも声を張り上げて聖句を唱え、僧侶も、また居並ぶ仲間たちも、まったく同じ所作で礼拝に参加する。同じ言葉を唱え同じ歌を謡って、心身ともに一体感を感じながら高揚する平等な教え。「歌う宗教」の力強い脈動が、ここ忠岡・正覚寺の報恩講にも、確かに息づいていた。

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