日本伝統音楽論行脚魚の目版「笑う親鸞」 

▼バックナンバー 一覧 2009 年 4 月 16 日 伊東 乾

 今日の報恩講に誘ってくれたのは、祖父江佳乃さんだ。二年後に女性住職として名古屋の安養寺を継ぐことになっている。佳乃さんのお祖父さんは真宗の節談説教(ふしだんせっきょう)で知らぬ者のない大家、祖父江省念師(1909-1995)だ。一緒に庫裏に連れて行ってもらい、佐々木先生にご挨拶する。

 表では親しみやすいおじさん風の話しぶりだが、奥に正座されるとご僧職の威厳が自ずと伝わってくる。いままで何千という葬儀で引導を渡してきた。因果な人間模様もたくさん見、その世話もしてきた。そうした人生経験がおのずとつくる貫禄なのだろう。

「今日はわざわざ遠いところから起こしを・・・で、またどうして?」
「はい、真宗の節談説教というものに出会いまして・・・」
 節談説教とは、説教を語る声がいつの間にやら節になり、それがまた語りになり台詞になり、音曲と噺を往還自在、聴衆の心に訴える真宗独自の「情念の布教」法だ。佐々木さんは必ずしも節談で歌うお説教をされるわけではない。だが当代髄一の説教の名手、とくに「真宗の吉本」と異名まで取る、抱腹絶倒の「笑いの説教」で知られている。
 さきほど門徒衆とのやりとりで、70歳らしいと聞いてびっくりしていた。74歳の男性に「そりゃ俺と4つ違いだな」と答えていたのだ。お若くお見受けしますね、と話すうちに、70歳ではなく78歳で、今年79になると聞いて二度びっくりした。
体はいたるところ病気だらけですよ、と笑われるが、門徒の前に立つ姿、あるいは庫裏で正座する様子には、型が自然と身について、門徒が安心して話を聞ける風格がある。
 孔子は70歳になって、思うがままに振舞っても規律を超えることがなくなったと書いていたように思う。79歳の佐々木さんは、取り澄ます風でもなく屈託なく笑うだけなのに、なんとも言えない上品さが漂っていた。こういう風に年を取りたいものだ。

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