60年代を考える〜私の情念のその後ノート第三回

▼バックナンバー 一覧 2009 年 6 月 3 日 宮崎 学

 1965年12月11日の早朝、早稲田大学80周年事業の「目玉」とされていた「第2学生会館」の管理運営権をめぐる学生側と大学側の交渉が決裂した。学生側は抗議して大学本部に突入し、抗議のデモを行った。大学当局は「学生側が本部(大学)に突入し、それを封鎖したことは許し難い」と大浜信泉総長の要請で機動隊が導入された。この時に、共闘会議議長の大口昭彦が逮捕された。この時期、大学は実質的に冬休みに入っていて、帰省する学生、アルバイトに勤しむ者が多く、大学構内にいる学生はまばらであった。
 しかし、12月11日の機動隊導入という現実を目の当たりにして、早稲田大学で活動を展開していた、日共、反日共各派は緊張感を高め、年明けから「ストライキに突入する」ことを各派が決定、年末年始の冬休みを返上して、そのための準備活動に入っていた。
 私が所属していた日共系も同様で、とくに、その執行部を握っていた自治会の法学部学友会(自治会)、教育学部学生自治会が、運動の主導権を握るため、全学共闘会議が予定していた1月20日スト突入にさきがけ、1月17日からのスト突入という戦術を練っていた。
 そして日本共産党早稲田大学全学総細胞のLC会議は(LCとは leading-committee の略で指導委員会を指す。)は、66年1月3日に開かれた。この会議にLCとして参加した高野孟は「学生の頃の記憶は殆ど希薄になったが、この日のLC会議の緊張感は何故か今も鮮明な記憶として残っている」と語っている。
 スト突入を決定した細胞指導部は各学部の細胞及び民青同盟そして主導権を掌握していた自治会の執行部グループ会議を一斉に開き、スト突入の準備を整えて行った。
 資料−1の記事の「一法(第一法学部のことでこの当時は二部法学部もあった)・教育 十八日からスト」の背景には、闘争突入段階から、各党派の対立状況が色濃くでていることを表している。
 何はともあれ、日共系の我々は、徹夜のクラス委員総会(自治委員総会)を経て、全共闘より一歩先にストライキに突入した。資料−1は、そのことを示すものである。
 ところで、この年末年始には、私は郷里の京都に帰っていた。私にとっても私の実家にとっても、正月の三が日は一年中で最もあぶく銭の稼げる時であった。父親の組の縄張りであった伏見稲荷神社の初詣に、自家用車で来る人たちを相手に、臨時のパーキングをして金を稼げるのが、この正月三が日なのである。当時、大卒初任給が1万円に達していなかった頃、この臨時駐車場の売り上げは、正月の三日間で300万〜500万円くらいに達していた。
 私の父や兄は、正月四日の日に稼いだ金を数えて、アルバイトで雇った者たちに金を払う。そして残った金を前にして「これやからヤクザはやめられんなあ」とニッコリ笑う。これが宮崎家の正月行事であった。三日間徹夜して、私がもらう金は5万円と決まっていた。
 私にとってはなるほど早稲田は風雲急を告げていたかもしれないが、京都の実家では、それ以上に重大な行事を繰り広げなければならないというのが、この正月の三が日なのであった。

 京都の実家の年中行事が無事終了した直後の1月4日の夜、第一法学部学友会委員長だった小林和(ヤマト)から、実家に電話が入った。
「すぐに大学に戻れ。未曾有の大闘争が始まる」それは切羽詰まった声であった。

(以下次号)

記事抜粋

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