60年代を考える〜私の情念のその後ノート第二回
前回の原稿を書き上げた直後に次のようなメールが私のもとに届いた。
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宮崎さん、久しぶりです。
Kさん(本文は実名)が亡くなりました。
4月20日(月)に亡くなった、ということです。状況を説明しますと、18日に友人と会う約束だったそうですが、約束の時刻に現れないために、(その友人もしくは関係者が)後刻不審に思ってアパートを訪ねたところ、玄関先で倒れていたそうです。新聞が16日から新聞受けにたまっていたそうで、死亡推定日は20日ではないかということです。だれにも看取られなかった、最後だったようです。
残念ながら、離婚し一人暮らしで健康も害した「さみしい晩年」だったようです。人生、なかなかままならないですね。
近親者で葬儀は行うということですが、小生はお通夜に行きます。葬儀場は府中だそうですが、宮崎さん、「青春の墓標」ですよ。夕方その方角に向かって手でも合わせてやってください。
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このメールの中の「K」君については、この連載の過程で取り上げようと思っていた人物である。
「K」君は、早稲田大学第一法学部に1966年の入学である。私は一浪して1965年の入学であって私より一学年下ということになる。しかし、「K」君の実際の年齢は私より3才程上で、そのため新入生の時から「老」けた顔をしていた。
ところで「K」君の父親は、戦前、大阪で共産党の活動をしていた。
「K」君が生まれた1942年当時、日本共産党は治安維持法下、非合法の状態だったため、「K」君の父親は、生まれて来た彼に「正旗」と名付けた。しかし本来は「赤旗」(せっき)としたかったと「K」君に語っていたと、私にその名前の由来を話したことがあった。
ところで数年前、私と同学年だった商学部のS君が、同じような死に方をした。
「K」と言い「S」と言い私ときわめて近い存在であった。
きっとあの世から、この連中が私に早くこっちに来いと「おいでおいで」をしているのは間違いない。二人とも淋しがりやであった。
さて、本題に話を戻す。
次に示す資料は、1966年の1月から150日間にわたって闘われた第一次早大闘争の資料である。
資料-1は、当時(1960年代)早稲田大学の学内にあった「保守系」の新聞サークルが発行していた「早稲田キャンパス」という新聞で、これは月に2回発刊されていた。
同じように、左派の党派系のものとしては「早稲田大学新聞」があった。
資料-1
すべての資料を拡大してみる [PDF形式:12.4MB]
私は、この1966年の第一次早大闘争の中で、何を考え、どう行動したか、この時期の「空気」とはどのようなものであったのかを、資料に沿って次号から明らかにしようと思う。